About Sorrow | ナノ


あの男は犬だとだれかがそう評していたが、とんでもない、と臨也はしみじみと思う。これはやはり、獰猛な狼だ。

「……静雄。下がりなさい」
そんな声が降ってくると、臨也の前に立ちふさがっていたその男が、しぶしぶと一歩退ける。だがその男がそれまで臨也をきつく睨めつけていた鋭い視線は、そのまま臨也から離れることはなかった。
「すみません、折原さん。警戒心の強い男なもので」
そんな四木の言葉ににこやかに「いやあ、構いませんよ」と答えながらも、臨也は内心で、警戒心が聞いてあきれる、と鼻で笑った。先ほど臨也に向けられていたのは、警戒などではなく明確な殺意だ。
「折原さんも来神高校のご出身だと聞いていたので、てっきり顔見知りかと思ったのですが……」
「ええ、まあ。顔見知りではありますけどね」
残念ながら仲良しというわけではないのだ、と笑う。静雄は黙ったまま変わらずに殺意をもって臨也を睨み続けている。
「そうでしたか」
今の静雄の様子を見て、かつての高校時代の臨也と静雄の関係がただの学友などではないことは感じとっているのだろうが、四木は深くは探りを入れずに流した。
「それで、四木さん。あまり時間が取れませんので、さっそく例の件についてお話したいのですが……」
ちらりと背後の静雄を見る。ここからは機密性の高い仕事の話なので、出ていくよう促したのだが、静雄は臨也を睨みつけたまま、まったく動こうとはしなかった。
「ああ、……静雄。席を外しなさい」
「でも、四木さん」
「静雄」
この場にいたいと言外に訴える静雄の名を、四木が少し強めに呼ぶ。そこでようやく、静雄はしぶしぶと頷いた。
「……じゃあ俺、外にいますんで。何かあったらすぐに呼んでください」
「ああ」
ようやく静雄が部屋から出ていく。だが、ドアを閉める時も、臨也をきつく睨み据えることは忘れなかった。
臨也は小さく舌打ちをする。あの男は、人の言うことに従うような男ではなかったはずだ。獰猛で、凶暴で、どうしようもないほどに孤独な男だったはずだ。
「……折原さん?」
黙り込んだ臨也を不思議そうに四木が覗き込む。臨也は我に返り、慌てて依頼を受けていた情報を焼き込んだSDカードを取り出した。


静雄が粟楠会にいる。それを知ったのは、実は最近のことではない。
静雄と臨也は同じ高校に通っていたが、その当時から犬猿の仲として有名で、実際に顔を合わせるたびに殺し合いのような喧嘩に明け暮れていた。臨也は静雄を潰すことに躍起になっていたし、静雄も臨也を徹底的に嫌悪していた。結局高校に通っていた3年間のうちに静雄を潰すことはできなかったのだが、卒業後、まったく別の人生を送り始めても、臨也は静雄の情報は定期的に入手していたし、意図して探らずとも静雄に関する噂は聞こえてきていた。相変わらず喧嘩に明け暮れ、職を見つけてはすぐに解雇される、という暮らしを続けていたらしい。
ところが、あるときから静雄の姿が池袋の街から消えた。街中で逮捕劇に発展しそうなほどに派手な喧嘩を繰り広げ、それまで働いていたバーを解雇された、という話を聞いた直後のことである。
やれヤクザと揉めて海に沈められたの、イタリアンマフィアにスカウトされて海を渡ったのと荒唐無稽な噂が一斉に囁かれたが、そのどれも真実ではないことを、情報屋の臨也は知っていた。かといって、静雄がどこに雲隠れしたのかは分からない。
芸能人の弟のもとにでも行っているのかと思ったが、そうではないようだった。ではどこにいるんだ、とそろそろその行方を探すことに本腰を入れようとした矢先に、池袋での静雄の目撃談が出始めた。嘘と真実ないまぜになっているネット上の掲示板の情報を精査して出た結論は、『静雄が粟楠会に入ったらしい』というものだった。

「あれは今、粟楠会の四木という幹部の護衛のようなことをしているようですよ」
臨也よりも裏組織に造詣の深い、いわゆる暴力団専門の情報屋に尋ねたところ、そんな返答があった。臨也が調べた限りでも、同じ答えに至っているので、恐らくこれは間違ってはいないのだろう。
「その幹部には、随分重宝されているようですよ。腕っぷしは馬鹿みたいに強いですし。他の組織の連中には狂犬扱いされて恐れられてるようですが、四木って男にとっては従順な犬でしょう」
「……犬、ねえ……」
臨也は唇の端を持ち上げて皮肉に笑った。従順な犬。あの男が。あの、見る者すべてを焼き焦がすような視線を持つあの男が。

粟楠会の四木、という男については、臨也はかつてより知っていた。粟楠会にとっては有力な幹部だ。その頃臨也は粟楠会とは取引をしてはいなかったが、その男についての情報は、それなりに入手していた。
四木は理知的で頭が切れる男で、物事に対してかなり疑り深い一面を持つ。この男に仕事を持ちかけられるようになるまでには、かなり周到な用意が必要になるだろう。


それから、四木と取引を行えるようになるまでに、約一年という時間を要した。それでも他に四木と取引のある人間と比較すれば、かなり短い方だろう。四木は滅多なことでは、情報屋を雇ったりはしない。他人のもたらす情報を信用せず、欲する情報は自身で探ることができるだけの能力を備えた男だった。
一年間かけて、臨也は四木の信用を得ることに成功し、幾度かメールや電話でのやり取りをして、本格的に対面で情報のやり取りをすることになった。それが今日だったのだ。


「それでは、引き続きそちらの動きを探ってください」
「ええ、わかりました。また何かありましたら報告しますので」
きっちりとビジネスを終えて、臨也はソファに腰掛ける四木に一礼して部屋を出る。すると、重厚なドアの横に、静雄が立っていた。
四木と臨也が話していた時間は、およそ一時間半程度だ。その間ずっと、静雄はここに立っていたのだろう。
「静雄。折原さんに、車の手配を」
「はい、四木さん」
静雄は、臨也の後ろから出てきた四木の姿を見て、あからさまに安堵したような顔を見せてから頷いた。臨也が四木に何らかの害を加えるとでも思っていたのだろうか。
前線には立たない幹部とはいえ、四木は細身だが身のこなしに隙がなく、明らかに何らかの武道を極めている。さすがの臨也も、簡単に手の出せる相手ではないことくらい、分かるだろうに。
「……こちらへ」
静雄が、臨也をきつく見据えながらも、言葉だけは慇懃にそう促す。臨也は薄く笑いながらそれに従い、静雄のあとについて、粟楠会の瀟洒な事務所をあとにした。

「手前、何企んでやがる」
事務所の玄関から門までのほんのわずかな道すがらで、静雄が低い声で尋ねてくる。
「聞いてないの? 今、四木さんとちょっとした取引をしているんだよ」
「何か、企んでやがんだろうが」
静雄はとことん臨也を信じてはいないらしい。それも当然のことではあるが。
だが、臨也が何かを企む、というのは、実のところ半分は当たっているが残り半分は正しくない。臨也は今のところ、四木を企みに嵌めて何らかの害を加えようという気は毛頭なかった。だから、四木に流している情報も正しいものばかりだ。
臨也のターゲットは、あくまで静雄である。まるで自身の獰猛な性分を忘れたようにヤクザの子飼いに成りすましている今の静雄を何とかして蹴落としてやりたい。臨也はそのために、四木に取り入ったのだ。
「あの人に……四木さんに、何かしやがったら許さねえからな」
低く唸るような声で、静雄が言う。臨也は嘲笑おうとして――失敗した。
四木さん、と静雄は口にした。それは初めて聞く呼称ではない。静雄は何度も、四木さん、とあの男のことを呼んでいた。
だが、これほどまでに熱く、その名を口にしたことはなかった。まるで大切なもののように、その名を呼んだのだ。今、四木本人が傍にいないからこその呼び方だったかもしれない。
あの平和島静雄が、一人の人間の名をこれほどに熱く呼ぶことがあるなんて、と臨也は思う。無意識のうちに、手のひらを強く握りしめていた。




四木との取引は順調に進んだ。
このまま進めば、臨也と粟楠会の取引は、あと一か月足らずで終わるだろう。その前に何とか静雄を罠に陥れたいのだが、こちらの方はなかなかに難航した。
静雄が他の組織のスパイであるという情報をでっちあげて粟楠会に流そうとも思ったのだが、静雄は粟楠会の人間というよりも、四木個人が雇っている護衛に近い。静雄はその人間離れした強さを買われて何度も粟楠会に入らないかと誘いは受けているようだが、本人がその度にそれを断っているため、静雄の扱いはすべて四木に一任されているような状態だった。
当の四木は、静雄に対する信頼は篤いようで、臨也が踏み込めるような状況ではない。もっと別の方法を探るしかない。
さてどうしたものか、と考えながら、池袋の路地裏を歩いていると、そこで見知った影を見た。雨の降る昼下がりのことである。
その影は、けして弱くはない雨のなかで、傘も差さずにくすんだ印象のあるアスファルトのビルのすぐそばのガードレールに座っていた。そんな体勢でもそれとわかる、長身で金髪の男。そぼ降る雨に打たれて濡れてしまっているが、たった今までも、臨也がその姿を脳裏で思い描いていた天敵だ。臨也は小さく舌打ちをする。
勘のいい静雄は、はっと振り返って臨也を見た。すぐに額のあたりに血の筋を浮かべる。
「手前……こんなところで何してやがんだ」
掛けていたサングラスを外して濡れたジャケットのポケットに突っ込みながら、静雄が苛々と声を出す。臨也は傘を手にしたまま、肩を竦めて見せた。
「俺がどこで何をしていようと俺の自由だろ? それとも何かな、君に俺の行動を制限する権利でもあるのかな?」
すると静雄は額に血の筋を浮かべたままにやりと笑うという器用な表情を見せてから、己が今まで座っていたガードレールに手を掛ける。この男は昔から、身近にある、一般的な人間なら武器にはしえないもの――たとえば自販機だとかポストだとかそういうたぐいの重量のもの――を武器にするきらいがある。臨也も挑発的に笑いながら傘を放り投げて懐からナイフを取り出した。
そういえば、高校を卒業してからも、臨也と静雄は街中で出会えばしょっちゅう喧嘩を繰り返していたが、ここ最近はご無沙汰だった。恐らく、静雄が粟楠会と関係を持ってからは一度もそんな機会はなかっただろう。久しぶりの天敵との間の緊張感に、気分が高揚しているのがわかった。人気の乏しい場所だ。ここなら誰にも邪魔されることなく存分に殺しあえる。そう思い、手にしたナイフに力を込めたそのときだった。
ふと東の方の空から、雷鳴がとどろいた。けして近くに落ちるような轟音ではなく、ほんのわずかに耳に届く、という程度の雷鳴だった。だがたったそれだけの音が、静雄の意識を我に返させるのに十分なものだったらしい。
静雄は動きをとめて、ガードレールから手を離す。そして茫然とする臨也を前に、小さく「今日はやめだ」と呟いた。
「はっ。何言ってんの」
「俺は仕事の最中だ」
鼻で笑う臨也を無視して、静雄はアスファルトのビルを見上げる。その中に、四木がいるのか。臨也は直感的にそう悟った。
粟楠会は池袋界隈では相当な勢力を有する組織で、内部での派閥抗争もそれなりに激しい。四木が所属する派閥は現在、他の派閥との摩擦を抱えているはずだ。たとえどんな取引であっても、あるいは身内での会合であったとしても、身の回りに注意するに越したことはない。それを知っているからこそ、静雄はここで四木を待っているのだろう。何かあれば、すぐに中に踏み込めるように。
はは、と小さく渇いた笑いが、臨也の口から出た。
臨也の知るこの男は、たとえどんなことをしていても、臨也を前にするとその薄っぺらい理性をかなぐり捨てて全力で臨也に向かってきた。その時の、視線の鋭さと熱さを、臨也はいつでも脳内に思い描くことができる。だというのに、今の静雄はどうだろうか。あんな小さな雷鳴ごときで、かつては文字通り命を懸けていた臨也との喧嘩から引いた。
何故か胸が苦しく、息ができないような思いに囚われる。
「……シズちゃん。今の君が周りに何て呼ばれているか、知ってる?」
「……あ?」
「犬、だってさ。粟楠会の……四木さんの犬、って呼ばれて馬鹿にされてるんだよ」
短気なこの男を挑発する意図をもって憎々しい顔をつくりながら言う。だが、何もかも臨也の思い通りにはならない静雄は、一瞬ぽかんとした顔をしてから、ふっと笑った。高校時代から今に至るまで、臨也に見せたことのないような嬉しげな笑みだった。
「犬なら、いいな。……それなら、死ぬまで傍にいられる」
臨也は今度こそ、言葉を失ってはっきりと身を固まらせた。

間がいいのか悪いのか、直後に、アスファルトのビルから男が出てくる。長身痩躯の四木だった。
「……静雄? 車の中にいろと言っただろう」
「四木さん」
ぱっと振り返った静雄が、安堵を滲ませながら、すんません、と謝罪する。四木は懐から雨の日に似つかわしい灰色のハンカチを取り出し、それを自然な仕草で静雄に渡してから、ようやく臨也に視線を向けて、少し驚いたような顔をした。
「折原さん、いらしたんですか」
「……ええ、通りかかっただけですけれど」
「静雄と、何か」
「いえ」
薄っぺらい笑顔を何とか作りながら、臨也は腕時計を確認するような仕草で四木に気取られないようナイフをしまい、落とした傘を持ち上げた。
「じゃあ、失礼します」
懇意にしている情報屋ならばもっと何かしら時候の挨拶などを交わした方がいいのだろうし、何より臨也と静雄がここで体を濡らしながら立ち話をしていた、などという不自然極まりない状況のフォローをするべきなのだろう。だが、臨也はそれをしないままに足早にその場をあとにする。すぐにその場を立ち去らなければ、顔に張り付けた笑みをもう維持できそうになかった。
「今更、傘なんて意味ないな……」
角を曲がってしばらく歩いてから、臨也は呟いて傘を下ろした。途端に雨の滴が体を打つが、すでに体はしとどに濡れてしまっている。静雄はきっともっと冷えているだろう。そんなことを考えながら、臨也は瞼を伏せる。雨が、冷たかった。




夢に出てくる静雄は、いつだっていっそ愚かしいほど一心に臨也を見ている。暴力でしか自分の感情を表せない憐れな男の、怒りで染められた瞳に、臨也だけが映っている。
その美しさに、臨也は言葉を失い恍惚とするのだ。

かなしいことだね、と幼馴染の闇医者は言った。臨也が四木のもとでの静雄の様子を話したときのことだ。
「本当だよね。……あんな、誰かの犬に成り下がるなんてね」
本当に、馬鹿みたいだ。と臨也は笑う。幾分、乾いた笑みになってしまった。すると話を聞いていた新羅が、瞼を伏せてふるりと首を振る。
「僕が悲しいというのは、静雄のことじゃないよ。煌々ときらめくものを失ってしまった君が、悲しいんだよ」
臨也は動きを止めて新羅を見る。視線の先にいる新羅が、あまりに静かな表情でじっとこちらを見ているので、新羅は、何を馬鹿な、と笑うこともできなかった。
「君だって、他の接し方を知っていれば手に入れることもできたかもしれないのに。覆水盆に返らず。……一度失われたものは、もう元には戻らない。かなしいことだね」
僕は君たちふたりを見ているのが、結構好きだったんだよ、と闇医者は言った。




四木がかなり関与している派閥の抗争がいよいよ激しさを増して、四木のまわりがかなりきな臭くなっている。
こんな性分なのに普段は争いごとを好まない性質の静雄も、毎日ずいぶんと気を揉ませているようだった。
「……この前も、撃たれそうになった」
いらいらと静雄が言う。臨也が四木の事務所に訪ねてきた際に、出迎えにきた静雄が四木のいる部屋まで連れていってくれるという。珍しいこともあるものだ、と思っていたが、どうやら目的は別にあったらしい。まあ、静雄が臨也をねぎらうために出てきたりするはずはないのだが。
「そうみたいだね」
四木が取引に出向いた先で銃撃されそうになったという話は、臨也のもとにも入っていた。直前に静雄が気付き事なきを得たようだが、ひどく危うい状況だったというのは間違いがない。
「あの取引場所は、一部の人間しか知らないはずだ。……手前が、情報流したんじゃねえだろうな」
射殺すような鋭い視線を臨也に向けて、静雄が低く尋ねてくる。
「……なるほどねえ」
臨也なら、四木のスケジュールを探って情報を流すことも可能だ。静雄にしてはずいぶんと頭を働かせたものだ。
だが、それは誓って臨也ではない。臨也は簡単に四木の属する派閥を敵に回すようなうかつな真似はしない。だが。
静雄はずっと臨也をにらみつけている。その瞳は、不信に染まっている。その奥に怒りの色がちらついているのを確認して、臨也の心中に歓喜がうまれた。
あの瞳が怒りに染まりきり、臨也だけが写る。その様を、渇望している。
「俺がやった、って言ったら、どうする? ねえ、シズちゃん」
「て、めえ……!」
静雄の瞳が、不信から怒りに染まっていく。臨也は歓喜に震えながら、婉然とその顔を見返す。そのとき、近くで銃声が聞こえた。静雄の瞳から、怒りの色が消え、代わりに焦燥が生まれる。
「四木さん!」
動き出した静雄は、もう臨也を見ることはなかった。

静雄と臨也が、数歩先にあった四木の部屋に足を踏み入れたとき、黒いスーツを着たひとりの男が四木に銃口を向けていた。この事務所でよく見た、四木の側近のひとりだ。これが、情報を流していた男かもしれない。ただし、銃口を向けられている四木が落ち付いている様子なのに比べるとその男はかなり腰が引けているので、別の派閥の人間に脅迫でもされて今の状況に陥っているのかもしれないが。
見たところ四木に負傷はない。先ほど銃声があったが、弾は外れたのだろう。
スーツを着た男は、入ってきた静雄を見ると更に体を震わせて、「来るな!」と叫んだ。その指先が、ダブルアクションのトリガーにかかっている。臨也の一歩前にいた静雄が、「四木さん!」と小さく叫ぶと同時に、四木に向かって動く。
臨也は急ぎ懐からナイフを取り出し男に向かって投げたがほんの一瞬遅れたらしい。男のトリガーが引かれたのと、静雄が四木の体を抱き込んだのは、ほぼ同時に見えた。銃声が響いて、静雄の体が小さく跳ねたのが見えた。
「シズちゃん!」
臨也が思わずそう叫んだのと、四木が「静雄!」と叫んだのは、同時だった。臨也のナイフは、一瞬遅れながらも男の腕に刺さったらしく、男が銃を手放して痛みに呻く。臨也は舌打ちしながら、男の近くに落ちた銃を、再び男が握らないよう取り上げた。
「静雄、大丈夫か」
衝撃に倒れ込んだ静雄を覗き込み、四木が常に冷静な彼にしては珍しく多少焦りをにじませながらそう尋ねている。静雄はすぐに、「ええ、大丈夫っす」と答えていた。無理をしているわけではなさそうな声に安堵しながら、臨也は拳銃を撃った男を取り押さえた。
「傷は」
「腕、掠めただけみたいです」
「見せろ」
臨也の視界の端で、四木が静雄の袖をめくる。静雄の体の特殊性ゆえか、右の上腕のから血が出てはいるものの、銃創にしてはかなり軽いように見えた。だがその傷を見た四木は、迷わずいろんな物の散乱した床に膝を付き、静雄のその傷に自分のハンカチを巻きはじめた。
「四木さん、俺なら、大丈夫っすから」
そんな四木に静雄は慌てたような声を出すが、四木は静雄の肩に腕をまわして静雄の動きをおさえ、必然的にその耳元に唇を寄せて「黙ってろ」と命じた。
男をおさえながら一連のふたりのやり取りを見ていた臨也は、僅かに瞑目する。静雄は、少し前に確かに怒りを持って睨みつけたはずの臨也をもう見ていない。あの男が、四木の腕の中で、今死んでもいいと思うほどの喜びを感じていることを、臨也は知っていた。
どんなに、こっちを見ろ、と命じたところで、静雄はもう、あの煌めく瞳で臨也を見ない。再び目を開けて、臨也は窓の外を見た。こんなときだというのに、空はどこまでも澄んでいる。一度失われたものは、もう戻らない。かなしいことだね、という幼馴染のことばが、耳に蘇った。


(About Sorrow)
(2012/03/09)





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