フォエニケ・ラプソディー | ナノ



車のフロントガラスから見える、早朝の深い青に染まっていく空が美しい。
結局、朝日が昇るまで二人でそのパーキングで過ごしてしまった。熱はすっかり下がったようだが、汗をかいてしまった体が気持ち悪かったため、静雄とともに近くのネットカフェを訪ねてシャワーを浴びて帰ってきた。静雄はその後、またシートに座った態勢のまま眠ってしまったようだ。俯いた頬に金の髪がかかっている。昨夜あまり寝ていないのだろう。
せめて座席のシートを倒して横になればいいのに、と思いながら、身を屈めてその寝顔をのぞきこむ。昨夜は臨也の方が体調が悪くほとんど眠っていたため、静雄の寝顔を見るのは初めてだった。さすがに眠っているときは、静雄も幼く見える。その顔だけ見ていると、とても池袋の喧嘩人形と呼ばれるような男には見えなかった。
車内にはまだ、かすかに青林檎の匂いが漂っている。昨夜車内で皮を剥いたので、その皮がビニール袋に入れられたまま後部座席に放置されている。それから匂いが漂うのだろう。早朝にふさわしい匂いともいえる。
だがそのかすかな匂いがもたらす甘酸っぱい思いに、臨也は舌打ちをした。こんなものは一時の気の迷いだ。そう思いながら臨也はノートパソコンを開き、インターネットのブラウザを立ち上げる。例の組織の情報も集めなければならないし、四木とも連絡を取りたい。早いところ、昨日体調を崩して眠ってしまった分だけ出遅れた情報を脳内にたたき込まねば、とキーボードをたたく。だがそんな臨也の耳には静雄の穏やかな寝息が聞こえていたし、青林檎の匂いが鼻腔をくすぐり続けていた。

静雄の身柄は一度、粟楠会に渡し、粟楠会の人間に移動を頼む。臨也は他の安全な場所で相手方の組織の情報を探り、それを静雄と粟楠会に流して指示を送る。依頼を受けた当初の予定とは若干異なるが、そうすることが静雄にとっても、なにより臨也の身の安全の上でも望ましいだろう。臨也もその方が情報収集に集中できる。これは臨也が昨日から考えていたことである。
四木に連絡をしたところ、彼も賛同してくれた。問題は静雄の身柄をどこで粟楠会に渡すか、ということだった。
「連中はまだ都内で捜索を続けているようですけどね、今の車を借りたレンタカーのショップに接触した形跡があるので、そろそろ他県にも目を向けるはずです。もう少し東京から離れてから、彼の身柄をお渡ししますよ」
『ええ、わかりました』
四木は、関東のはずれにあるジャンクションを降り、しばらく走ったところにある遊園地の駐車場を指定した。今では閉園している遊園地で、山奥にあり、人目に付かないために、粟楠会も物品の取引などにしばしば利用している場所だという。多少の危なさは覚えたが、臨也も静雄をつれてそこに向かうことを了承した。
『静雄は、どうしてますか?』
ふと四木がそんなことを尋ねてくる。
「今はまだぐっすり寝てます」
『そうですか。あなたが具合が悪そうだと、ずいぶん気にしていたようだったので、夕べあまり寝ていないのかもしれませんね』
四木のそんな言葉に、臨也は動きを止める。臨也は今、車の外に出て四木と連絡を取っている。車の窓からのぞき込めば、先ほどと同じ態勢で静雄が眠っているのが見えた。
『静雄には、言ってあるんですか? これからの行動について』
臨也と離れて、粟楠会の人間と移動するということについてだろう。臨也はもう一度、車内の静雄を見る。金の髪がその頬にかかっていて、表情はうかがえない。
「言っていません。ただ、彼が反対する理由もありませんから」
だから大丈夫のはずである。四木もすぐに、『そうですね』と応じた。何かあったらまた連絡する。そんな言葉を最後に、臨也は電話を切って、空を見上げた。夜の名残を残す深い青が、のぼってきた太陽の光を浴びて薄くなってきている。これからまた車で移動をはじめれば、正午前にはその遊園地あとの駐車場に着けるだろう。静雄とともに行動するのは、あと、数時間ということになる。
妙に感傷的な気分になっている自身に気づき、臨也は軽く頭を横に振ってから、車のドアを開け、運転席に身を滑らせた。まだ林檎の匂いがしている。静雄はドアを開閉させる音にも気づかず、眠り続けている。臨也の具合をずいぶん心配しているようだった、という四木の言葉を思い出す。
「馬鹿だな」
静雄の顔を再びのぞき込みながら、小さく呟く。静雄の寝顔は、あどけない。それにふと手を伸ばそうとした自分に気づき、臨也は舌打ちをして、ハンドルに軽く額をつける。かすかに聞こえてくる、静雄の寝息が柔らかだった。




結局、なかなか起きない静雄にかまわず、午前8時くらいには臨也は車を走らせた。静雄はたまに意識を覚醒させては、寝ぼけたような声をもらしていたが、さすがに10時くらいになるとしっかりと覚醒したようだった。
覚醒した静雄に、四木との電話のことを告げる。静雄は臨也と離れ、粟楠会の人間とともに移動することになる、と告げても、やはり静雄は反対したりしなかった。少しだけ考え込んでから、「わかった」とこぼしただけだ。
「四木さんがいいなら、俺はそれでいいぜ」
とにかく四木さんに迷惑をかけないようにしてくれ、と静雄は言う。彼の中での四木の存在の大きさが、妙に気になった。
「前から思ってたけどさあ……」
「あ?」
「君と四木さんって、どんな関係なわけ?」
静雄は昨日も、臨也のことが信じられなくとも、四木の頼みだからこの仕事は受ける、というようなことを言っていた。静雄のような男が、どうしてそこまで従順に四木に従うのかがわからない。臨也の情報によれば、静雄は補導歴はあるが、立件されたことはない。喧嘩っぱやいがどこかの組織と組むということもない。いわゆる暴力団関係とは縁がないはずだ。
「あー……、四木さんは、その、なんだ、恩人?」
疑問符つきで言われても、臨也には分からない。
静雄は流れていく窓の外の景色を見ながら、ぽつぽつとこんな話をした。

四木と静雄が出会ったのは、静雄が高校生の頃だったという。池袋の路地裏でチンピラ数人にふっかけられた喧嘩を買い、その全員を地に沈めたところで、ふと視線を感じて振り返ると、見るからに堅気ではない男が立っていた。それが四木だった。
四木は静雄に、早いところ逃げた方がいい、と忠告したという。通りかかった人間が通報していたからまもなく警察がくる。だから早く逃げろ、と言ったのだ。信用できるか分からずじっとその男の顔を見ていると、遠くからサイレンが聞こえてきた。そこで静雄はようやく逃げたのだ。
それから池袋で喧嘩をしていると、たまに野次馬たちの隅にその男の姿を見るようになった。だが静雄の喧嘩に手出しも口出しもしてはこないので、静雄はさして気にはしていなかった。だが高校を卒業し、静雄が成人になった頃に、そんな関係が変わった。
「変な連中に付け回されることが多くなったんだ」
静雄は苦く呟いた。
その頃、ちょうど彼の弟が、羽島幽平として芸能界にデビューし、その美貌と演技力から、一躍トップアイドルになった。当然、謎の多い彼とその家族についても注目が集まる。静雄のあとをつけまわしていたのは、芸能記者だった。その中に、たちのよくない記者がいた。静雄が羽島幽平の兄だと知った上で、静雄の池袋の喧嘩人形という顔をおもしろおかしく誇張し、静雄を極悪非道のマフィアのように仕立て上げて記事にしようとしたのである。そんな記事がでれば、静雄の世間体はもちろん、せっかくアイドルとして軌道に乗った弟の未来も壊される。
「うぜえけどよお……。幽の邪魔はしたくなかったからな」
そんな単純な理由で、つけまわされている間は、暴力を振るうのを我慢した。だがそんな日も、結局長くは続かなかった。二人一組で静雄を張り、一人の記者が挑発して静雄が怒りそのあたりにあった標識を軽く折って振り回したところで、隠れていたもう一人がフラッシュを焚いた。すぐにはめられたことに気づいた静雄は、そのカメラを取り上げようと男を追ったが、結局は逃がしてしまった。そしてうなだれている静雄に救いの手をさしのべたのが、四木だったのだ。
どうかしたのか、と問いかける四木に静雄が訝りながらも藁をも掴む思いで事情を話すと、すぐに四木は手を打った。部下を使って記者の身元を割り出し、静雄の情報を載せる予定だった雑誌を、圧力をかけて差し止めさせた。それだけではなく、静雄につきまとっていたブンヤ全体に、静雄のまわりをうろつきまわることをやめるよう圧力をかけた。
「だからあの人には、すげえ感謝してる」
言い終わってから、照れ隠しのように静雄は煙草を取り出してくわえた。ふうん、と臨也は思った。
四木はおそらく、静雄に恩を売っておけば、たとえば今回のようなやっかいな事態で使えると考えていたはずだ。だが、うまそうに煙草をふかす静雄の横顔をちらりと見ながら、こうも考える。
四木は、静雄のことをそれなりに気に入っているのだろう。静雄の力に興味をもったのか、静雄の性格が気に入ったのかは分からないが。いずれにせよ、静雄がブンヤに張られて思う様その膂力を振るえない状況をどうにかしてやりたいという気持ちもあったようにも思う。四木が静雄をそれなりに気に入っていることは、四木の言動からも分かるし、そうでなければわざわざ臨也に今回の仕事を持ってこなかったはずだ。臨也は四木にとって使いやすい情報屋ではないし、例の組織の情報を探るだけなら、他の情報屋でも事足りる。だが、情報屋の力量としては臨也にかなう者はあまりいないはずだ。四木がわざわざ臨也にこの仕事を持ってきたのは、静雄を無事に逃がすため、確実性を期して、というところなのだろう。
「……つまんない」
「あ?」
呟いた臨也に、静雄がいらだったような声を上げる。「何だ、手前」
「何でもないよ。ねえ、煙いんだけど。タバコ吸うなら、窓、開けてよ」
静雄は何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わず渋々と窓を開けた。高速道ではないので、流れる景色は緩やかだ。少し肌寒い風が入ってきて、代わりに煙草の苦い煙が流れ出ていく。それなのに、臨也の胸のあたりにはずっと苦々しいものが残っている。
静雄は四木を慕っていて、四木も静雄を気に入っている。それだけだ。だというのに、妙に腹立たしい気持ちになった。腹いせに、山道に入って他に車がいなくなったあたりで、思いきりアクセルを踏む。急な加速に、静雄が体勢を崩して「おい、手前!」と怒りの声を上げる。それを無視して、臨也はアクセルを踏み続けた。
静雄とは間もなく別行動になる。早く離れてしまいたかった。そうしなければ、この苛立ちの正体に気付いてしまいそうだった。




昼だというのに、重い鈍色をした曇り空が広がっている。途中かなりスピードを上げて走ったため、待ち合わせ場所にたどり着いたのは、約束の時間よりもかなり早い時刻だった。まだ粟楠会の人間も着いてはいないようなので、がらんとした駐車場に車を止めて、車内で待つ。無言のまま待っていると、ぽつぽつと水のしずくがフロントガラスを叩いた。とうとう雨が降り出したらしい。無音の車内に、かすかに雨音が聞こえ始めた。
遊園地の跡地、とは聞いていたが、まだ遊具は取り壊されていないらしく、駐車場からもコースター系の乗り物や観覧車が見えた。雨を降らせ始めた鈍色の空を背景に、少し色褪せていて動くことのない観覧車がある風景というのは、妙に寂寞を煽る。雨音によって車内の静寂が増したように思われた。ちらりと静雄の様子を窺うが、彼は思考を読めない顔で、同じようにぼんやりと観覧車を見ている。
「来た」
唐突に静雄が呟く。その声に、臨也も視線を巡らせる。黒い、そこそこ名の知れたメーカーの外車が、がらんとした駐車場に入ってくるのが見えた。ナンバープレートは、臨也が四木から知らされていたそれと合致する。粟楠会の車だ。
車が近づいてくる。静雄はドアを開けた。雨音が強くなる。
「向こうの車に乗っても、きちんと俺の命令は聞いてよね」
出て行こうとするその背に、話しかける。静雄は振り向いて、「分かってる」と言った。
「どうだか。シズちゃん、単細胞だからすぐ忘れちゃうでしょ」
「うるせえな、ノミ蟲」
ぎろりと静雄が睨む。それに苦笑して、それからふっと息を吐いてから、「じゃあね」と言った。昨日から妙に慌ただしかったが、それも終わりだ。静雄はその言葉を聞いて、浮かび上がったこめかみの血の筋を直して、ひとつ息を吐いた。
「一応、言っとく。……世話になったな。臨也」
思わず、臨也は目をみはった。今、彼は自分のことをなんと呼んだ?
黒の外車が、臨也たちの車の数メートル先に泊まる。静雄はさっさと車から降りた。外車の運転席と助手席から、それぞれ男が降りてくる。どちらも四木ではなかった。四木には他に用があり、ここに来ないことは聞かされている。その代わり、迎えに来たのはどちらも腕に覚えのある四木の腹心だった。臨也とも面識がある。
臨也も一応挨拶しようかと車を降りる。雨粒が頬に当たり、少し冷たい。ドアを閉めようかとしたその瞬間に、静かだった駐車場に大きなエンジン音が響いた。アクセルをふかす音だ。臨也の車でも、粟楠会の人間が乗ってきた外車のエンジン音でもない。その場にいた人間の誰もが、はじかれたように駐車場の入り口を見た。
「……伏せろ!」
粟楠会の男がそう怒鳴る。臨也は反射的に、アスファルトに身を伏せた。すぐに耳を塞ぎたくなるような銃声が響く。慌てて顔を上げて、静雄を探した。静雄も、身を伏せているようだ。それから臨也は顔を上げて、乱入してきた車を探す。目立たないシルバーの国産車が見えた。運転席と助手席の窓が開き、それぞれに男が拳銃と狙撃銃をこちらに向けている。だがこんな近距離から敵を撃つのに、遠距離からの射撃に特化した狙撃銃は向かない。するとあれは、狙撃ではなく、形がよく似た麻酔銃だろう。その銃口が向けられているのは、当然、静雄の方だ。
「シズちゃん!」
体を思いきり捩じって身を起こし、静雄の体に思いきり被さる。その衝撃で二人の体の位置がずれ、麻酔銃のシリンジは二人の体ではなく雨に濡れたアスファルトに当たった。また銃声が響く。臨也の体のほんの数ミリ先のアスファルトが削られた。
「臨也!」
静雄がまたその名を呼ぶが、それに応えている余裕はなかった。急いで身を起こし、静雄の腕を掴んで車の影に身を隠す。四木の部下が、懐から拳銃を取り出して応戦を始めた。臨也がそのうちの一人の男を見ると、その男も臨也を見て、くいっと顔を動かし、駐車場の出口を顎の先で示した。先に逃げろ、ということだろう。
「シズちゃん、車乗って!」
「はあ? 手前何言って…」
「いいから、早く!」
有無を言わせず静雄を車に乗せ、乱入してきた車に乗っていた二人組が粟楠会の二人に応戦しているのを確認して臨也も運転席に飛び乗った。シートベルトを締める余裕もなく、ブレーキを外してアクセルを踏み込む。静雄が「おい!」と声を上げたが、気にせずに加速して、駐車場の出口に向かった。
「おい! あのふたりは!」
急ぎ遊園地から離れようとする臨也に、静雄が呼びかける。臨也はそれを無視して、とにかく他に車の通りがある道まで駆け抜けた。バックミラーを確認して、追ってくる車がいないことを確認する。
やがて大きな国道に出て、臨也はようやく見つけたコンビニエンスストアの駐車場に車を停めた。本当は一刻も早くもっと離れた方がいいのだが、それよりも今は例の組織の動向を調べたいと思ったのだ。
「彼らなら、四木さんの腹心で戦闘力高いから、大丈夫だと思うよ」
後部座席からノートパソコンを取り出しながら、車内ではずっと無言だった静雄に言う。だが静雄は相変わらず、言葉を発しない。ちらりとその姿を横目で見るが、雨で濡れた髪が頬にかかっていて、表情はうかがえない。
「ちょっと調べてから、四木さんに連絡してみる。少し待ってて」
無言の静雄になおも言葉をかけると、ようやく静雄が唇を開いた。「手前は……」
「何?」
「俺より、あの二人を助けるべきだっただろ」
小さく低い声だった。
キーを叩く手を止めて、静雄を見る。静雄は、雨に濡れるフロントガラスをじっと見ている。
「何で?」
「知ってんだろ? 俺は銃弾が当たっても大したことねえし。手前が、その、俺を庇ったり、あのふたりより優先させてまで守ったりする必要はねえよ」
それは、車を包む雨音にさえ消されそうな静かな声だった。臨也は軽く唇を噛んだ。この平和島静雄という男は、どうも己の存在を、ひどく軽くみているふしがある。
「あのねえ。俺は君がどんな体してようと、君を優先させるよ」
「……は? なんでだよ」
「俺の仕事は君を無事に逃すことだからね。だから他の誰がどうなろうと」
純粋に不思議そうな瞳を臨也に向けてくる静雄に、臨也は言葉を続ける。ふと、自分が今、口にしているのは、まるで野暮ったい告白のような言葉だと気付いてしまう。だが、そこで言葉を切ることはできなかった。
「他の誰がどうなろうと、君を守るよ」
普段は饒舌な性質なのに、他に言葉が浮かばなかった。何を言っているんだ、という自嘲も浮かぶ。だが、取り消す気にはならなかった。静雄の頬が、かすかに赤くなったのが見えたからだ。雨音が響く車内で、ほんの少しの間だけ、見つめ合う。青林檎の匂いが、また鼻先を掠めた気がした。


(フォエニケ・ラプソディー)
(2011/12/04)





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