フォエニケ・ラプソディー | ナノ



静雄はけして不必要なことをべらべらと喋る人間ではない。そのくらいのことなら、出会ってそれほど時間のたっていない臨也にもわかる。しかしあまりに静かすぎやしないだろうか。
最初はまったく気にならなかったが、さすがに首都高に乗って一時間ほど走った頃になると、気になりだしてきた。眠っているのかとも思ったが、定期的に煙草を取り出しては吸っているので、そうでもないらしい。いっそ眠ってくれていた方が楽だ。
臨也は気に食わない人間と進んで会話をするほど自虐的ではないが、そこそこ饒舌な性質である。
「曇ってるね。雨が降るかな」
適当な話題をふってみる。しかし静雄は無言だった。無言のまま、また手にしたアメリカン・スピリットに火をつける。首都高に入ってから窓を閉めたため、車内に苦い煙が広がった。
「あいつらの動向も調べたいから、もう少し走ったら一度高速から降りるから」
しゃべり続けてみても、やはり静雄は無言だ。さすがに腹がたってくる。
「あのさあ。何か不満があるなら言えば?」
首都高はけして空いてはいないが、平日の昼間という時間帯のためか、ブレーキを踏まずにそれなりのスピードで運転できる。いらだち紛れにアクセルを踏み込みながら尋ねると、静雄はふう、っと長く息をついて煙りを吐き出す。それから、戸惑いがちに声を上げた。
「……手前よお。傷は、大丈夫なのか」
一瞬、何のことだかわからなかった。だがすぐに、数時間前の乱闘のときに負ったナイフの傷だと気付く。
「何、そんなこと気にしてたの?」
もともと大した傷ではない。パーキングブレーキのバーを左手で引いた時に若干の痛みは感じたが、その程度だった。むしろ傷自体よりも、その傷に伴ってできたコートの傷の方が気にかかるほどだ。
静雄は無言である。だが、ちらりと見た横顔が落ち込んでいるように見えた。あまり臨也に逆らわずについてきたのも、自動車の中で無言を貫いていたのも、ずっと臨也の傷を引きずっていたからなのだと今更気づき、臨也は思わず噴き出した。
「何笑ってんだよ」
一転して静雄は不機嫌そうな声を出す。
「別に。なんでもないよ、シズちゃん」
「あ? 手前、今、なんつった」
「なんでもないって言ったんだよ、シズちゃん」
静雄という名をもじってシズちゃん。なんとなく思いついた呼称だが、どうやら静雄自身はまったく気に入らないらしい。わざとその呼称を大きく言うと、静雄の苛立ちが大きくなったのが伝わってくる。
「言っとくけど、車は壊さないでね。レンタカーなんだから」
先に念を押して置く。さすがに理性が働いたのか、静雄はぐっと握りしめていた拳を下ろした。
「手前……今度そう呼んだらぶっ殺す」
「ええ? 可愛いじゃない。シーズーちゃん?」
今度こそ静雄が拳を運転中の臨也に振り下ろす気配がある。周りにあまり自動車がいないことを確認して、臨也は握っていたハンドルに軽く額を寄せた。
「あーあ。腕が痛いなあ」
大袈裟に言ってみる。その怪我に負い目のある静雄は、ぐっと動きを止めた。
「……ノミ蟲」
「……は?」
「ノミ蟲」
「何それ」
「手前のことだ」
ふうっとたばこの煙を吐き出しながら、静雄は皮肉な笑みを浮かべている。実に憎たらしい。
「なんでよりによってノミなの」
「小せえし、有害だろ」
「小さくない。センスないんじゃないの、シズちゃん」
「手前だけには言われたくねえな、ノミ蟲」
この言い合いは不毛で終わりがない。しかしそれでいて、それほど不快感は沸いてはこない。不思議なことだ。
首都圏から多少離れ、走る車の量も減った高速道路で、臨也は思いきりアクセルを踏み込んだ。





傷はまったく問題がない。それが間違いだったと気づいたのは、それほど後のことではなかった。そのまま高速道路を走って、日が落ちかけた時間帯のことだ。目がかすんできて、運転を続けることが難しくなってきた。
臨也はこの任務が終わるまでこのままずっと静雄と一緒に車で逃げ回っている気はない。組織の活動拠点から離れて追っ手を完全に撒いたら、静雄とはまた離れるつもりだった。そのためにかなり急いで移動していたのだが、その疲れが出たのだろうか。
臨也は静雄には何も言わないまま、適当に高速を降りる。さすがに静雄が不思議そうな声をあげた。
「どうかしたのか」
「……何でもないよ。眠いだけ」
頭が重い。体が熱い。完全に発熱の症状が出ている。臨也はこれで体は丈夫な方で、風邪をひくことなど滅多にない。まさか破傷風ということはないだろうが、傷から何らかの菌が入ってしまった可能性は否定できない。あるいは、単に動き回って疲れが出ただけかもしれないが。
だがそんな症状を静雄に告げることはしたくなかった。できれば弱みはみせたくはない。
「眠いって、手前」
「うるさいな。君が予定外の行動ばっかりとるからつきあわされて疲れたんだよ」
料金所を過ぎて、一般道に入る。どこかしばらく休めるホテルでも探したいところだが、寒気がしてきてそんな余裕もなさそうだ。
「おい、手前……」
何か言いたそうな静雄を無視して、臨也は目に付いた街中のコインパーキングに車を停めた。高速道を走っているときから、追っ手の気配はなかったので大丈夫だとは思うが、できれば夜が明けないうちにもう少し首都圏から離れたい。少し休憩をとるだけだ、と思いながらシート思い切り倒す。
「俺はちょっと寝るよ。君も少し休めば」
それだけ言いおいて、返事も聞かずに臨也はさっさと瞼を伏せる。それ以上口を開くのも億劫だった。すぐに泥のような眠りが訪れた。

何がごそごそと動いている気配を感じてゆっくりと瞼をあける。ずいぶんと深く眠っていたようで、まだ頭がぼんやりとしている。快適とは言いがたいシーツの感触と、横になっているはずなのに妙に近くにある天井に、ぼんやりとここが車内であることを思い出した。あたりはすでにかなり暗い。ぼんやりと、座席を照らすランプがついていることに気づいた。同乗者は何をしているだろう、と顔を横に向けると、ひょろりとした上背を屈めている静雄の姿が目に入った。
「何してんの」
「起きたのか」
まだ鈍く痛む頭を抑えてゆっくりと身を起こそうとしたときに、何かが仰向けの臨也の胸あたりにかけてあることに気づく。よく見るとそれは、黒いベストだった。静雄が着ていたバーテン服のベストだ。静雄の気遣いに、ばつが悪い思いがした。
「……ねえ。何してんの」
そのベストをどけて後部座席に押し込めながら、ばつの悪さを拭うように尋ねる。静雄は無言だったので、臨也は完全に上半身を起こして彼の手元をのぞき込んだ。静雄の手元には見覚えのあるナイフと、緑色の果実が見えた。青林檎である。顔を寄せるとほんのわずかに、青林檎特有のさわやかな匂いが鼻腔をかすめた。
「それ俺のナイフじゃん。ていうかその林檎どうしたの」
「ナイフは手前が横になったときに手前のコートから落ちた」
臨也は頭を抱いて舌打ちする。そんなことにも気づかなかった。冷静なつもりだったが、本格的に弱っていたらしい。あまり信用のできない男の隣だというのに、そこまで油断していた自分が腹立たしい。
「林檎は」
「買ってきた」
「……勝手に出歩くなよ」
静雄はまだ懲りていないらしい。苦々しく言うと、静雄はちらりと臨也を横目で見た。
「手前が寝てるうちに四木さんに連絡取った。あいつらはまだ東京から出てないと思うって言ってたから大丈夫だろ。手前も、もう少し寝てろ」
この男にしては、ずいぶんと長い台詞だった。その内容に、臨也は目を見張る。ベストを臨也にかけていた時点で薄々と悟ってはいたが、やはり静雄は臨也の体調がよくないことに気づいていたらしい。
「ここで夜明かすつもりなの? だったらもっとお腹にたまりそうなの買って来なよ」
そんな林檎ではなく。今度は静雄が少しばつが悪そうな顔をした。「手持ちの金があんまりねえんだよ。それに…熱あるときは林檎だろ」
それを聞いて臨也は今度こそ両手で頭を抱えた。本当に、そういう気遣いはやめてほしい。ねじ曲がった中2病を発祥していると自覚のある臨也なのに、うっかりうれしいような気持ちが沸いてしまう。
その気持ちを必死に抑え込んで、臨也はわざと皮肉げな声を出す。
「それで、その林檎とナイフずっと持っててどうすんの。林檎あったまっちゃうよ」
「うっせえな」
さすがに静雄も不快げな声を出す。臨也はようやくいつもの調子を取り戻してそんな静雄を鼻で笑った。
「皮、剥けないんでしょ? シズちゃん不器用だもんねえ」
「うっせえっつってんだろ!」
いらだたしげな声を出す静雄を見て愉快な気分になった。バーで働いている静雄を初めて見たときに、禅問答でもしているような難しい顔でフルーツのカッティングをしていたので知っている。静雄は、ナイフの使い方が下手なのだ。
くっくっと喉の奥で笑い続けているうちに、怒りを露わにしていたはずの静雄が黙って臨也を見ていることに気づく。何かと思ってその顔を見ると、静雄は小さく息を吐いて、「よかったな」とつぶやいた。
「何が」
「熱、下がったみてえだな」
ふっとその一瞬だけ、静雄が笑う。臨也は今度こそ、言葉を失った。前にこの男が弟の平和島幽と電話をしているときに見たことがある、柔らかな笑みだった。
唐突に落ちた沈黙に、静雄が不思議そうな顔をする。臨也はおかしな雰囲気を吹っ切るように舌打ちをして、静雄の手から林檎とナイフを奪った。「貸して」
「何だよ」
「君じゃ無理だよ。俺が剥く」
奪った青林檎に、さっとナイフを滑らせる。そのまま林檎の表面を撫でるようにナイフを動かし、するすると皮を剥いていく。静雄が「へえ」と感嘆の声を漏らした。
「手前にも取り柄があったんだな」
「……そりゃどうも」
静雄よりは取り柄も多いはずだとか、君が不器用なだけだとか、言い返す言葉はたくさん浮かんだが、臨也は結局そのどれも口にしなかった。
小さなライト一つが照らす薄暗い車内に、青林檎のみずみずしく甘酸っぱい匂いが漂う。酸味の強いその匂いに、しかし臨也は、胸焼けがしそうだ、と思った。この空間を、心地よいと感じてしまいそうだった。


(フォエニケ・ラプソディー)
(2011/11/23)





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