呼ばれたのは、シャンクスさんの部屋だった。向かう途中で会ったヤソップさんに少しばかりからかわれたが、何とも言えずにへらっとした笑顔を浮かべるので精一杯だった。そして今、部屋の中で、大きいとは言えないテーブルを挟んで前に座るシャンクスさんに、私は縮こまっていた。


「..........」

「..........」


無言が続く。真っ直ぐに向けられた視線は痛いくらいだ。私が何か言うのを待っているのか、向こうから口を開く様子も無い。気休め程度に開けられた窓から入る潮風が少しだけ、暴れたように脈打つ心臓を落ち着かせる。


「あの...っ」


声は震え掠れていた。こんな頼りない声を出すのは実際よりも久しぶりだと思った。ここに来て、まだ1週間と経っていない。その間に何度も何度も、こんな風に不安で震え、緊張からの乾きで掠れた声は出していた。それでもここ2日間は、落ち着いていたと思う。特に、シャンクスさんと話す時は。


「うん?」


真っ直ぐな視線に、負けそうでも合わせた。まだ意味の持たない音でも、彼はいくらか視線を和らげ、先を促す様に返事をした。
それから伝えた事は、私が見たままの事だった。昨日が初めて両手越しに甲板が見えて、自分が透けているのに気付いた事。それに気付いたのは、多分、誰もいない事。わからない事だらけで、夢の話までしてしまった。


「以上、です...」

「そうか」


言い終わり、視線を泳がせた私の視界には、テーブルに肘をつき、顎に手を当て考え込む様な素振りのシャンクスさんだった。


「わたし、は...何なんでしょうか」


彼を見ながら、ぽつりと呟いた。
朝もやのように、すぐに消える不安定さが付きまとってはいた。それが浮き彫りになっただけなのかもしれない。


だって、私はこの世界の人間じゃない。


そんな事は、誰よりも知っている。それでも、誰かに名前を呼ばれれば、私という存在は認識されて、認められていると感じていた。そう、慣れ始めていたのだ。現実逃避だと言われれば、その通りだと思う。それでも、私はここに居て、戻る方法はわからなくて、ここの人達は確かにここで生きて、過ごしている。

この世界で、息づいているものたちを、この目で見た。感じた。

だからこそ、私も、ここで過ごしている1人の人間としての現実味が湧いて来た矢先だったのだ。それなのに、


「名前だろ」


かけられた言葉は、何でもないただの名前だった。
私が私であると、何も持たない私が唯一言えるものだった。
思わず視線を彼に合わす。窓から差し込む光が、彼の髪を照らしていた。少し陰ったその表情からは、苦笑いの様な、眉を下げた笑みがあった。

なんてずるいのだろうか。どうしてこの不安定な気持ちを掬い上げてくれるのだろうか。丁寧に一つひとつを解いてくれる訳じゃない。全部が全部を包み込んでくれる訳でもない。

それでも、私が落としたくないものは、ちゃんと掬い上げてくれる。

何なのか、なんて答えは無いのに。そんな事、誰も知らないのに。それでもこの世界ではろうそくの明かりのように吹けば消えてしまいそうな私をちゃんと認め、その瞳に写し、名前を呼んでくれる。たったそれだけの事。今までだったら当たり前すぎて思いつかないような事を、ちゃんとしてくれる人。


「悪いな。1番混乱してるのは名前なのに」


滲む視界でちゃんと見えない。口から漏れるのは、噛み殺した息と、抑えきれなかった嗚咽。怖い。嬉しい。反する気持ちがごちゃごちゃに混ざり合う。


「期待、が、ない訳じゃないんです...」


戻れるかもしれない、と。でもやっぱり、どうなってしまうのだろうかという不安が勝る。それだけじゃない。後ろ髪を引かれる気持ちがある事にも戸惑っているのだ。自分の事なのに、気持ちなのに、全くと言って良いほどわからなくて、それがもっともっと怖くて。

唇を噛み、涙をこらえる。血の味が、うっすらとした。こんなにもきつく噛みしめるのは人生で初めてだ。


「詳細を聞いた所で、おれ達が力になれる事は少ない」

「はい、」

「ただ、出来る事があればもちろん協力する」


もう、何度目かもわからない。その力強い声音に助けられただろう。どうしてそんなに気にかけてくれるのか。不思議な縁だ。こんな世界で、私がもし彼ら以外の所に来ていたら今頃どうなっていたかわからない。少なくとも今より良い状況では無いはずだ。本当にいくら言葉を尽くしたところで、この感謝を伝え切れることはこの先ないのだろう。


「ありがとう、ございます...何と言えば良いのか...」


小さく、小さく呟き続ける感謝の言葉。何の足しにもならないそれだけど、言わずにはいられない。伝えずにはいられない。

助けられたのだと。助けられ続けているのだと。無意識かもしれないが、あなた達は私に手を、差し出し続けてくれているのだと。


「あとはー...まァ、なんだ。あれだ、笑っとけ、な?」


あまりにも私が壊れたおもちゃのように言い続けるからだろうか。彼は気まずそうに眉を寄せてしまったが、困ったと言った雰囲気だった。そして少し乱暴に、下げられた私の頭をがしがしと撫でた。


「ふ、へへ...」

「んだよ」

「いえ、」


なんとも情けない声だった。泣き出しそうな手前、震えた声で中途半端な笑い声のようなものが口から出てしまう。それが場違いに面白く感じてしまい、それに気づいたシャンクスさんもまた訝しげに片眉を跳ねあげたのだった。


「よし、頑張ります...!」


何かなんてわからないけれど、元気になったよと言いたくて、シャンクスさんに向かって言えば彼もまた笑みを深めた。
そうなればまずは食堂、キッチンで気を遣わせてしまった分を取り戻さなければ。立ち上がり、シャンクスさんに頭を下げ、くるりと背を向ける。


「名前、」

「ザックさんに気を遣わせてしまったので戻りますね」


へらりと眉を下げて笑うとシャンクスさんもまたそうか、と呟いて立ち上がり、私の背に手を添えた。


「無理するなよ」

「はい」


ドアノブに手をかけて回せば、ぎいと木製のドアが軋む音がする。するりと開いたその隙間に体を滑り込ませ、閉じかけたドアから見えるシャンクスさんが見送るのをぎりぎりまで見つめ、ぱたりとドアが閉じた。










それきり、私が彼らと会うことは無かったのだ。










(さよならもまたねも無い別れだった)












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