「落ち着いたか?」
麦わら帽子を左横のテーブルに置き、そのテーブルに肘をついた彼が真っ直ぐにこちらを見ながら言った。その瞳に警戒心こそ見え隠れするが、先ほどの脅すような、刺すような様子は伺えない。落ち着いたかと言われれば、確かに起きた当初よりはだいぶマシだが現状は全くと言っていいほど把握できていないし、混乱はしている。さらに言えば、目の前の彼も含めた数人の男性は恰幅が良い上に顔も厳ついために緊張感と恐怖は未だ全身にまとわりついている。それでも、なんとか頷けば、そうか呟くように言葉を吐いた。
今私が連れてこられたのは、食堂と思わしき場所。そして彼の真正面に私。年季が入っているのか、背もたれも無い木製のシンプルな作りの椅子に座らされている。重心が動くと、ぎしりと音が鳴る。そんな些細な物音一つ、聞き逃さないよう、見逃さないよう、正面の彼を含めた数人はこちらを注視している。
ここに着いて早々に巻かれていたロープは解かれた。それでも、特に擦れてしまっていた手首には赤い跡と、ほんの少しの出血が残り、私はそっと手首をさすった。
「んじゃ改めて聞くが、お嬢さんはいつからこの船にいた」
「え、と...」
いつから?そんな事、私が知りたい。
その言葉は、食堂内で思い思いの場所にいる人達と、目の前の彼が片眉が上がった事で余計に喉の奥に引っかかって出てくる事は無かった。
目の前の彼はお頭と呼ばれていた。それはつまり、偉い人なのだろう。混乱する頭ではそれを絞り出すのが精一杯。
「ここ、は...、どこ、ですか」
絞り出した声は、震えていた。
少し俯いていた状態から見上げる目は、恐怖に彩られていただろうか。自分では確認しようもないが。それよりも何か一言を発する事が、さっきの恐怖がこびりついていた私には恐ろしくて仕方無かった。
彼は私の言葉に訝しげな眼差しを送った後に、ううん、と小さく唸った。彼の周りの人の中にも首をかしげる者もいた。そして、
「...東の海だ」
告げられた言葉は、聞きなれない、初めて耳にした単語だった。それが表情に出ていたのだろうか、彼らもまた、疑うような視線に少しの戸惑いが混ざったのを感じた。
「わかった、質問を変えよう。ここにいる前はどこに住んで、何をしていた?」
しかし、目の前の彼以外は見張りのようにいるだけで何も聞いては来ない。お頭と言われるくらいだから、その彼に全てを一任しているのだろう。
そしてようやく答えられる質問に短く息を吐く。
「東京、で、大学生を...」
私の言葉に、また彼らの雰囲気が少し変わった。疑いから戸惑い、そして驚きにも似たような空気だった。目の前の彼もまた、私の言葉を聞いた後に俯いてみたり、頭を掻いてみたりしながら幾分かの空白の後に、あー、と意味の持たない言葉を漏らした。
それにびくりと肩を震わせ、膝の上に置いていた両手をきつく握りしめた。それに気づいた彼は、ようやく、苦笑いだが、笑みを浮かべた。
「驚かせて悪かったな、お嬢さん」
彼の左腕が伸びて来て、咄嗟に肩を縮こませると、ぽん、と頭を撫でられた。それにすら驚いて肩を震わせてしまったが、おそるおそる見上げると、その腕の主は眉尻を下げて申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。
(九死に一生とはこの事か)