おおかみ | ナノ
 朝は先輩に会えなかった。まさか家まで訪問する勇気なんてなかったし。そもそも、先輩は部活にも入っていないのだからあんな朝早くから家の外に出ている必要なんかないわけで、会えなかったのは当たり前。
 放課後になるまでもやっぱり会えなかった。校内でも特に見かけなかった。用もないのに教室まで行くのは気が引けたし、一応二年生だとは知っていてもどのクラスかは知らない。
 なんだかもやもやする。




 部活が終わり、信助に「じゃあ帰ろうか!」と声をかけられた。
 先輩はもう家に帰ったのかな。またどこかにいるんだろうか。

「昨日の先輩だけど」
「先輩がなに?」
「そんなにがっつかないでよー」

 葵の言う「先輩」は、先輩だろう。みょうじ先輩。つい大声を出してしまったことを謝って、続きを急かす。ため息を吐いてから葵は一言、

「天馬、そんなに先輩が好きなの?」

 え。

「すす好きって!ななななにが!」
「みょうじ先輩のこと。好きなんでしょ」

 葵が意地悪そうな笑みを浮かべる。
 好きってそんな。好きって、いや、先輩が嫌いかと言えば勿論好きだし。…じゃない!好きって、好きって、分かる。分かるよ、葵が言ってるのはそういう好きじゃなくて。いつだったか秋姉が見てたドラマであったな。なんだっけ、ライクがどうたらって。先輩はそんなんじゃない。たぶん。でも葵にはそんな風に見えたんだ。俺が先輩をすすすすすす好きとか、好きって、そんな

「て、天馬が壊れちゃった!」
「…どうしよう、信助」




 どうやって家に帰ったのかは全く覚えてない。覚えているのは、葵が得意げに話した言葉くらいだ。
 先輩が好きって、いや。
 眠っているサスケの背中を撫でる。ふかふかで温かだ。

 とんとん、とドアがノックされた。もうご飯時だし、夕飯かな。「天馬」と扉越しに秋姉が呼ぶ声がする。やっぱり夕飯みたいだ。立ち上がって返事をしようとしたところで、第二声。

「なまえちゃんがもうすぐ来るけど、」

 勢いよくドアを開いたら、秋姉の額にごつんといい音が立った。

「秋姉ごめん!先輩来るの?」
「う、うん…いたい」
「どうしよう、あ、冷えピタ?」
「そうだね、買ってきてくれる?」

 ついさっきぶつけたばかりなのに、もう額が腫れてきてる。これは相当…落ち着こう、俺。
 財布を取ってとりあえず近くの薬局まで走る。秋姉の額の腫れを早くなんとかしなくちゃいけないし、「もうすぐ」先輩が来るみたいだから。
 …それにしても、もう七時だ。こんな時間から?




 冷えピタなんか買ったことがなくて、どこにあるのか探すのに手間取った。それに、帰りは信号に二つも引っ掛かったし。帰ってみると、大きな鞄を持った先輩が玄関先にいた。

「松風くん、おかえり」

 先輩の柔らかい笑顔が俺に向けられた。ちょっと怯む。先輩が好き、っていうのは、その。どうなんだろう。
 考え出すときりがないし、今はまず疑問を口に出してみることにした。

「なんですか、その荷物」
「うんとね。着替えとか、いろいろ」
「また泊まる…んですか?」

 それにしては大きいような気もするけど、明日は学校も無いし、なにかかさ張る私服でも入ってるのかもしれない。あとは、枕が変わると眠れない人っているし、枕が入ってる…とか?

「そうだね、そうかもね」
「曖昧なんですね」
「今、中で交渉中だから」

 誰と、誰が?片方は秋姉かな。秋姉と誰が交渉するんだろう。先輩の親?

「先輩、鞄持ちますよ」
「いいよ、重くないし」
「重そうですよ。せめて下ろした方が…」
「ご心配に及ばないよ」

 よいしょ、と先輩は重たげに鞄を持ち直す。やっぱりすごく重そうなんだけどなあ…
 先輩は中に入らないのだろうか。「交渉中」だし気まずいかな。なにが気まずいのかは分からないけど。

「今日ね、松風くんが部活してるところ見たよ」
「え!」
「走ってたね」
「走ってましたか」
「足早いよね。すごいなあ」

 う、褒められて悪い気はしない。先輩はにこにこしているし、なにか今日はいい日なのかもしれない。うん、そうに違いない。

「葵ちゃんとも話したよ」
「葵と?」
「松風くんはすごくいい人だって言ってた」

 なにを言ってるんだあの幼なじみ!自分でも顔が赤くなるのが分かった。こんな面と向かって言われるとな…。

「私もそう思うな」

 …ちょっと葵に感謝する。いい人って思うんだ、先輩が、俺のこと。うん、嬉しい。

「色々と迷惑をかけることもあると思うけど、どうぞよろしくお願いします」

 先輩が頭を下げた。あまりに突然で一瞬はびっくりしたけれど、すぐに俺も続いて頭を下げた。

「こちらこそ、よろしくお願いします!」

 な、なんだろう、これ。




 しばらくはなんでもない話をしていた。突然、中から人が出てきた。知らない男の人だったけれど、どこかで見たことがあるようにも思える。
 先輩は男の人を見るなり「おとうさん」と呼び掛けた。なるほど、先輩に似てる。ん?逆かな。先輩はお父さん似みたいだ。

「…またね」

 小さく手を振る先輩に「また来月来る」とだけ答えて男の人は行ってしまった。どういうことなのか、よく分からない。

 先輩が中に入るようなので俺も入っていく。額が赤い秋姉が「あら、おかえり」と俺を迎えてくれた。

「それであの、秋さん」
「うん、決まったよ」
「…お世話になります」

 また先輩は頭を下げた。

「なにが決まったの?」

 秋姉でも先輩でも、どちらでもいいから答えて欲しかった。

「なまえちゃんがここに住むこと」

 なんでもないような顔をして秋姉は言い放つ。先輩の顔を見れば、なんだか恥ずかしそうに、でも嬉しそうにしているし。
 先輩はだってすぐ近くに家があるし、ここに住む必要なんか無いんじゃないのか。それとも、そこまで家が「複雑」で「家にいるのが辛い」のか。

「お泊りどころじゃなかったね」

 先輩が笑った。なにもかも分かっていたみたいに、余裕のある笑顔だった。


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