おおかみ | ナノ
 扉をノックされ、秋姉が顔を出す。そして「天馬、ご飯が出来たわよ」。俺は元気よく返事をして、ぺこぺこのお腹を抱えて立ち上がる。それが普段の夕食前の、日常だった。
 やっぱり今日も扉が音を立てた。とん、とん、とん。

「て、てんま?くん?ご飯ですよ?」

 知らない女の人の声だった。開くはずの扉は開かず、扉の向こうから、その弱々しく疑問符だらけの言葉が聞こえた。少なくとも秋姉ではなかった。声の主は俺の返事がないせいか、まだ続ける。

「今日のご飯は、シチューみたいですよー」

 そしてノックが四回。誰なのか、不安に思いつつ扉を開けてみることにした。
 恐る恐る扉に近付いて、ドアノブに手をかける。ゆっくり扉を開いてみると、小さな悲鳴が耳に届く。見れば雷門中の制服を着た、リボンタイの色からして先輩の女の子がいた。

「…ええと」
「秋さんが、ご飯だから呼んでって…言ってて」

 秋姉の知り合い?恥ずかしそうに視線をあっちこっちしながら、女の子…いや先輩は顔を少しだけ赤くする。

「あらどうしたの?」

 突然聞こえたのは俺が待っていた秋姉の声だった。先輩はびくりと肩を揺らし、「秋さん…」と甘えるような声を出す。…俺にかける声とは全然違う。
 秋姉は先輩の頭をにこにこといつも通りの笑顔で撫でつつ、俺にむきかえる。

「天馬、お夕飯冷めちゃうよ」




 先輩と秋姉と食べるご飯は普段より静かに思えた。俺はなにを話していいのか、秋姉はともかく警戒している先輩に対してはどんな風に接すればいいのか、全く分からなかったし。そもそも、この先輩は自宅に帰らないのかとか色々と疑問がある。
 先輩は俺を警戒しながら、おかずに口をつけるたび嬉しそうに「美味しいです」と秋姉に報告していた。秋姉はやっぱりにこにこしながら、それに優しく答えていた。
 夕ご飯も食べ終えた頃、先輩が突然「てんまくん」と俺の名前を呼んだ。びっくりして白米を吹きそうになりつつ、返事をする。

「ご飯にお邪魔してごめんなさい、あの、秋さんも」
「邪魔なんて!別に俺は」
「私も、美味しそうに食べてもらえて嬉しかったよ?」
「…う、ありがとうございます」

 ぼろぼろ、なんて言葉が合うと思う。見たこともないくらい、大粒の涙が先輩の目から溢れ出た。なにか泣かせてしまうようなことがあったかな、と考えても答えは出ない。
 とりあえずポケットからハンカチを取り出し、先輩に渡した。嗚咽に混じりながらの「ありがとう」が聞こえ、先輩の細く白い指がハンカチを掴んだ。

「なまえちゃん、今日は泊まっていけば?お家には電話しておいてあげる」
「わ、わた、そこまでお世話に、なれない、で、す」
「私がお世話したいの!ダメかな」

 先輩は頷いたように見えた。鼻をすすったりする動作のせいで、そう見えただけかもしれないけど。少なくとも秋姉は頷いたと受けとったらしく、携帯を持って部屋を立ち上がった。連絡、するのかな。

「なまえちゃん、よろしくね」
「え!」

 よろしくって言われても。先輩はハンカチで目を押さえながらも、時たま俺の顔をちらりと見る。申し訳なさそうに、眉はへの字だ。
 なまえ、というのがこの先輩の名前らしい。今まで面識もなかったし、名前なんて勿論知らなかった。先輩も同じらしく、俺の名前を呼ぶ時は少し戸惑ったように言う。秋姉が俺を「天馬」と呼ぶのの受け売りなのだろうと思う。…や、呼ばれた回数なんて数えるほどなんだけどさ。



 どのくらい時間が経ったのか、時計を見ていたわけじゃないから分からない。夕食を食べはじめたのは何時だったかな。八時頃だったはず。秋姉の部屋にある時計を見ると、もう九時半過ぎだ。
 先輩はとっくに泣き止んで、泣いたおかげで腫れぼったくなった目をこすりこすりして、まどろんでいる。眠いのかな。今日は泊めると言っていたけれど、勝手に来客用の布団なんか出せないし。そもそも布団の場所を知らないし。
 どうしようか考えている内にも、先輩はうつらうつら眠りかけてはハッと起きて、を繰り返している。もう寝てほしい。見ているこっちが可哀相な気持ちになってくる。

「…先輩」
「ね、寝てないからね!」

 まるで寝言のように、よそよそしさや警戒心もなく大きな声での主張だった。

「分かってます、眠いんですよね」
「眠くもないよ!」

 と言いつつ、先輩がふらり。頭からテーブルに当たりそうになるのを、なんとか腕を掴んで回避させる。

「とりあえず秋姉のとこ行って来ましょうか。布団の場所だけでも…」
「眠くないってばー」
「思いっきり眠そうですよ」

 意地なのか知らないけど、俺は先輩が眠そうなのを見ているとなんていうか、早く寝かしつけたくなるだけなんですけど。だってすごく、辛そうだ。
 「秋さんが来るまで、起きてます」と先輩はやっぱり赤く腫れぼったい目のまま、そう宣言した。立ち上がろうとする俺を引き止めたいのか、右腕をがっちりホールド。

「ところでてんまくん、今何時?」
「九時…もうすぐ十時です」
「もうそんな時間!やっぱり、家に帰った方がよかったかな」

 それは早く眠れるからって意味なのか、両親が心配するだろうからって意味なのか。よく分からない。
 先輩の呟くようなその言葉のあと、三十秒ほど。規則正しい、寝息とおぼしきものが聞こえてきた。右腕は相変わらずがっちりとホールドされているものの、先輩は眠ってしまったらしい。ずっしりなんて言わないけど、先輩の体重が俺にかかってきているのが分かる。なんとも言えない重量感と、空気。

「せんぱ、……起こさないほうがいいのかな」

 なにか緊張してしまって、もたれ掛かっている先輩を見られない。…とにかく今は秋姉を待つのみだ。




 先輩の重さは数分なら気にならない程度で、数十分だと少し気になるほどだった。そろそろ疲れてきたな、そうだ、なんとか寝かせてあげられないか、なんてようやく頭が働いた時、扉がゆっくり開いた。

「あれ、もう寝ちゃったの?」
「泣き疲れたみたい」
「そっか…しばらくそうしててくれる?お布団敷いちゃうから」

 秋姉が来たことでなんとなく緊張感のようなものが解れた。少しだけ、と何故か自分に言い訳しながら先輩の顔を確認してみた。ほんの少しだけだ、少しだけ。
 …想像通りの安らかな寝顔だった。先輩は眠っているし、秋姉は布団を出している最中だ。なんでこんなに罪悪感に苛まれるのかな、早く秋姉が布団を敷いてしまって、先輩から解放されたい。
 そんなことを思った矢先、「んん…」と先輩が唸った。びびびびっくり、した。心臓がばくばくする。


110717
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