門限の怪




それは地獄の底をじっとりと這うような、ぞわぞわとした響きを伴っていた。文字のみのメッセージだったにもかかわらず、だ。スマートフォンに表示された『君、時計読めなかったかな?』という淡白な文章に嫌と言うほど滲んでいるのは、夏油さんの禍々しい怒りの感情だ。わたしはごくりと唾を呑み、現在時刻を確かめた。

二十三時五十四分。
時計はじっと見ている間に一分進んで、二十三時五十五分に切り替わった。

勿論このまま無視するわけにもいかないが、既読をつけたところで何と返信すれば良いのかも分からない。

幸いなことに、夏油さんはメッセージを続けざまに送信するようなタイプではなかった。なので『今何時か分かる?』だの『約束したよね?』だのといった追撃はない。

終電には間に合ったが、門限はとうに過ぎている。門限は二十一時。それだってかなり交渉に交渉を重ね、伸ばしに伸ばした時間だった。当初予定されていた門限の時刻は十八時。今時、中学生だってもう少し自由が効くだろう。わたしは勿論抗議をしたが、彼が折れるまでには並々ならぬ時間がかかった。

夏油さんは稀代の頑固者なので、彼が折れるようなことは滅多にない。だからベッドにごろりと横になって「……良いよ。でもきちんと連絡を寄越すように」とそっぽを向いた時は、少しばかり驚いた。夏油さんはとても分かりやすく拗ねている。しかし「では十八時には帰ります」と素直に従うわたしでもなかった。一度引いて同情を誘うようなやり方は、夏油さんにしては珍しい。いつも穏やかを装って選択肢を潰す、あの夏油さんにしては。

『君、時計読めなかったかな?』というメッセージに身震いをして、スマートフォンを静かに伏せた。返信したい気持ちは山々だが、静かに噴火せんとする夏油さんをうまい具合に鎮火する、気の利いた話題は持ち合わせていない。

玄関で仁王立ちしているであろう夏油さんに、何と言い訳を並べようか考える最中、胃がキリキリと強く痛むのを感じた。『すみませんでした』とだけメッセージを送信して、スマートフォンを鞄の中に放り投げた。定型文のような謝罪では、彼を満足させることはできないことは火を見るよりも明らかだった。

わたしは揺れる電車の中、氷のように冷たいであろう夏油さんの瞳を思い身震いした。


──


誰もいない剥き出しの階段を、カンカンと音を立てて登っている。鉄製の古い階段は、風化して錆びていないところがない。自宅はぼろアパートの3階にある。電気は付いていないが、夏油さんは居るだろう。わたしは自室の前でしばし呼吸を整えて、それからゆっくり扉を開いた。

部屋に明かりは灯されていない。玄関から見渡せるほど狭い六畳一間の真ん中に、黒い熊のような人影が見えた。夏油さんは月明かりだけの真っ暗な空間で、ぽつんとひとり座っている。わたしが帰ったことに気がつくと、彼はふかしていた煙草をぐりぐりと灰皿に強く押しつけて、ゆっくりと重たい腰を上げた。

ゆらりと揺れる大きな黒い影は、地獄の鬼だとか冥界の悪魔だとか、たぶんそういった類のものに近い。

「おかえり」

地響きを伴うような低い声が、びりびりとわたしの鼓膜を揺らしている。おそらく、にっこりと笑っているはずの夏油さんの顔は影になってよく見えない。それはとても恐ろしい光景だった。まもなく爆発しそうな爆弾だって、今の夏油さんと並べてしまえばもう少し控えめに映るだろう。

わたしは部屋の温度がマイナス氷点下になってしまう前に、ぱちんとリビングの電気を付けた。夏油さんはやはり、口元を歪めて笑っている。今すぐにでも外へ逃げてしまいたいが、逃亡は罪を重たくする。門限は守られなかったわけであるので、罪を言い逃れることはできない。夏油さん相手に逃げだすほど、わたしも考えなしではない。立ち上がった夏油さんは、わたしの部屋の半分を占めている大きなベッド──言わずもがな、夏油さんが勝手に購入して勝手に搬入していたものだ──の上にどっかりと腰を下ろした。黒い部屋着の隙間から覗いている、大きな竜の刺青がじっとりとこちらを睨め付けた。まるで蛇に睨まれた蛙のような心地だ。

「おいで」

当然のこと、拒否権はない。拒否をする権利があったことなどは一度もない。有無を言わさぬ圧のかかった物言いに、わたしはごくりと喉を鳴らした。黙って突っ立っていて許された試しはなかったので、わたしはゆっくりと夏油さんの側に寄った。

「すみません、つい、遅くなってしまって」
「つい。ふうん、そうか。まあいいよ、ここに座って」

“まあいいよ”、に僅かに期待しながら、わたしは夏油さんの隣に座った。たくましいベッドは、わたしと夏油さんの体重くらいではびくともしない。むしろ、先にアパートの床が耐えかねないかが心配だった。

「門限は何時だったか覚えているかい?」
「に、二十一時です……」
「そうだね。今は何時か、分かるかな?」
「もう二十三時過ぎてます……」
「そうだね。良くわかってるじゃないか」

夏油さんの大きな手のひらが、わたしの首をゆっくりと這った。長い指が耳朶に触れて、親指がぐっと強く押し付けられる。

「最近の小学生はね、持ち物全てに名前を書くんだって」

恐ろしく暗い影を纏っていた夏油さんの顔に、ぱっと明るい光が戻った。おおよそこの場には似つかわしくない、真夏の晴天のような晴れやかな笑顔。切れ長の目は細くなって、まさにご機嫌そのものだ。わたしは吐息を殺して、夏油さんの言葉を待った。

わかっていたことだが、夏油さんはものすごく怒っていらっしゃる。

黙ったままでいるわけにもいかず、事態の好転は見込めなかったが「そうなんですか」と相槌を打った。夏油さんはにこにこ顔だ。

「確かに良い案だよね。私の持ち物を、誰かが持っていってしまうと大変だ」

夏油さんは大袈裟に肩をすくめて、懐から黒い油性ペン──おそろしいことに極太だ──を取り出した。そしてわたしの上に覆い被さり、胸元を強く引っ張った。ブチ、ブチとボタンの弾ける音がして、わたしは思わず「ひ、」とか細い声をあげた。夏油さんは気にも留めず、冷たい油性ペンで鎖骨の上をツンツンと調子良く突いている。三日月のような細い目が、ゆっくりと開いてわたしを捕らえた。

「学習はね、痛みを伴った方が効率が良くなるらしい。君のココには、私の名前を墨で入れてしまおうね。どこに行っても、誰が見ても君の所有者がすぐに分かるね。ああ、結構痛いよ。泣いてしまうかもしれないね。もちろん、私が手を握っててあげるよ。君の涙も拭ってあげる。まさか死んだりはしないから、痛いと思うけど頑張って耐えようね」

カチ、と油性ペンのキャップを開いて、夏油さんは鎖骨に文字をしたためた。わたしは位置的な問題で、何と書かれているか視認することは叶わない。しかし、間違いなくわたしの鎖骨には大きな字で“夏油傑”と書かれているはずだ。背筋にぞわっと冷たいものが走り抜けて、思わず「いやだ……」と声が漏れた。しまった、と思ったときにはもう遅く、わたしの拒否を聞きつけた夏油さんの目が大きく見開く。

「いやなの?」
「い、いやです……ごめんなさい……」
「だめだよ。私は君が居なくなるのは耐えられない。名前を書いておけばよかったって後悔もしたくないからね。ああ、そうだ。もう二度と夜にお出かけもできないよ。君は約束を破ったんだから」

ちょっと良い子にできるかい? と首を傾げる夏油さんに、わたしは黙って頷いた。いやだ、そんなものが身体の表面に刻まれるのは絶対にいやだ。しかし「大丈夫、今は電話一本で全部準備してくれるから」と穏やかに笑う夏油さんに逆らう術はないのだった。








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