ホワイトデーの怪


『今日9時に行くよ』というメッセージを受信したとき、わたしの背をひやりと汗が滴った。“今日”とは受信した本日のことだろう。9時……現時刻は午後3時。どう考えても夜の9時のことを言っている。

わたしは急に胃のあたりが激しく痛んだ気がして、ぎゅうと強くお腹を押さえた。既読にしてしまわないよう慎重にメッセージを閉じて、わなわなと震える指先を叱咤しつつ、スケジュールの管理アプリ──以前はスケジュール帳を使っていたのだけれど、先月ほどから共有システムのあるこのアプリケーションの使用を強要されている──をそっと開いた。

大変、非常に、そして誠に残念なことであるが、特別大きな予定はなかった。送り主がそれを分かっていてわたしを呼び出しているのは、火を見るよりも明らかだったが、それでも何らかの確認をしないではいられなかった。

これが友人からの呼び出しであれば、わたしとてここまで怯えるようなことはない。二つ返事で『了解!』と返し、夜の訪れを楽しみに待っていただろう。

メッセージの送り主は“夏油傑”。先日の“バレンタイン事件”を思い出し、思わずうっ、と低く唸った。バレンタイン……最初から手作りのチョコレートが欲しいと言えばそれで済んだのに、夏油さんがわざわざ試すようなことをするので、購入したチョコレートと手作りのチョコレートの二つを用意する羽目になり、大変な二度手間になった。こんなことを考えているのがバレてしまえば一巻の終わりだが、心の中でくらいは許されたい。

『今日9時に行くよ』という内容から、呼び出しの全容は把握できない。長らく既読無視を続けるのはあまりにも恐ろしいので、わたしは渋々メッセージを開いた。承知しましたの連絡を入れた後に、念のために『何のご用事ですか?』と付け加えた。前回チョコレートの要望確認を怠り、痛い目にあった教訓からだ。しかし『さ〜て、何でしょう?』というご機嫌な返信に、わたしはひぃと悲鳴を上げた。



来てほしくない時間というものは、不思議とすぐにやって来る。いつの間にやらとっぷりと日は沈んでしまい、暗い車内にはわたしと夏油さんの二人きりだ。いつも運転手を担ってくれる、彼の部下は何故かいない。ハンドルを握る夏油さんはいつもの厳ついシャツの上に、暖かそうな黒いポロコートを羽織っている。同じく黒いマフラーとバッグが、後部座席に放られていた。

『暖かい格好をしてきてね』と彼が言うのでしっかりと服を着込んできたのだが、どこに連れて行かれるかについては、何の情報も得られぬままであった。しかも話題に困ったわたしが「今日は部下の人いないんですね」などとうっかり地雷を踏んだばかりに、夏油さんのご機嫌は急降下気味だ。慌てて「夏油さんは運転が上手いですね」と話題を切り替えたが「へえ、ああいうのがタイプなんだ?」や「私だけは嫌? いてくれた方が良かった?」などの応報が止まらない。

「そ、そんなことない、ですよ」
「ええ、本当に?」

わたしは深く頷いて、自身の服の裾を握った。お願いします、夏油さん。目的地が未だはっきりとしないこの状況で、これ以上機嫌を悪くしないでください。

「さてどうだかね。……君も発言には気をつけた方がいい。私は存外、嫉妬深いから」

まさか存外なものか。存じておりますとも、と言える勇気があるはずもなく。夏油さんのご機嫌の回復を願い、わたしはそうっと目を逸らした。先ほどまでは誰もいない大きな道を通っていたが、今は少し細い道だ。住宅街らしき場所を抜けて、何も無い道をくねくねと進んでいる。暗いながらも辺りを照らしていた街灯が、ひとつまたひとつと減ってゆく。

うん? 減ってゆく?

慌てて窓の外を見た。今度は視線だけではなく、顔をしっかりと窓の方へ向けて。暗くてはっきりと見えないが、外には田んぼや畑といった田舎独特の景色がぐんと広がっている。車はスピードを落とすような兆しもない。この方向の先にあるのは、まさかと思うが、山ではないか。

──山。山といえば、ヤクザものの映画では海に続くお決まりのロケーション。最近読んだアングラ系の漫画では、闇金を返せなかった男に主人公の男が山でボコボコに制裁を行う惨い描写がなされていた。再三申し上げますが、夏油さんはヤクザです。闇金の取り立てはもちろん、この辺り一体の“取り締まり”などをしているそうです。そして今、彼の機嫌は良くないです。

じっとりとした嫌な予感が、びりびりと電気のように脳内を駆けた。わたしはぶんぶんと首を振って、まだそうと決まったわけではない、と自身を強く励ました。

しかし視界に入った“〇〇峠”の看板に、わたしの心臓はキュッと握り潰された心地になった。

峠、山道を登りつめてそこから下りになる場所。まごう事なき山である。それも天辺というわけだ。かたかたと指が大きく震える。強く唇を噛み締めたが、それで治まることもない。ヤクザが山に用事なんて、理由はひとつしかないだろう。わたしは知らず知らずのうちに夏油さんの地雷をわりとたくさん踏み抜いており、今にも始末されるというわけだ。

「げ、夏油さん……」と彼の方を伺った。夏油さんはチラリとこちらを一瞥し、ぬっと大きな手を伸ばした。汗まみれのわたしの手に、夏油さんの手が重なる。

「緊張してる?」

まるで恋人のように──事実上、恋人同士ではあるのだが──夏油さんの指が絡んだ。彼は「大丈夫、獲って喰ったりはしないから」と笑っているが、信用できる筈もない。経験上、夏油さんは獲って喰ったりするのだから。

くるくると手の甲で遊ぶ指先をくすぐったがっている場合では当然ないので、外の景色に目を光らせる。どうにかして逃げ道を確保せねば、わたしの命日は確実に今日だ。死なずとも、恐ろしい目に遭ってしまうのは明白だった。

しかし探せど考えど、逃げ道など見つけられるはずもなく。わたしが一生懸命に脳を働かせている間に、夏油さんの車は止まった。カチコチになってしまったわたしに苦笑して、夏油さんが車外に出るよう促した。

手を繋いだまま「少し歩くよ」と歩みを進めた夏油さんに着いて行くようにして、わたしは寒い冬の山を登っている。夏油さんの手は暖かいが、わたしの汗のせいで冷え始めていた。せめて機嫌は良くなっていてくれと見上げた顔は、暗闇に包まれてよく分からない。月の出てない夜だった。彼に吐き出された白い息が、星の明かりに照らされている。

「げ、夏油さん……」
「どうしたの。震えてるし、寒い?マフラーをかしてあげる。風邪を引くといけないからね」
「あ、ありがとうございます……」

極度の緊張も相まって、寒さなど微塵も感じていないのだけれど、それを伝える術はない。丁寧にマフラーを巻かれてしまえば、素直に礼を言う他ない。夏油さんの香りが顔一帯をすっぽり覆う。花の匂いに混じった、濃ゆいサンダルウッドの香りに包まれる。

前を歩いていた夏油さんが止まって、わたしも合わせるように足を止めた。
「下を向いて」という夏油さんの指示に、わたしは素直に従った。そしてそのまま、大きくて骨張った手のひらがわたしの両の目を覆った。突然奪われてしまった視界に、おろおろと首を捻ったが、ぐっと夏油さんの方に身体を引き寄せられてしまっては身動きひとつ取れやしない。夏油さんはクツクツと喉を震わせている。……笑っているのだろうか。

いよいよ恐怖心が限界になって、わたしは両手を夏油さんの手のひらに重ねた。心臓はばくばくとひどい音を立てているし、口の中は酸っぱくなった。胃と胸の奥がギュッと強く痛んで、わたしは力なく「殺さないでください……」と懇願した。指先の震えは全身に巡り、噛み締めた唇からは血の味がする。

夏油さんは、ぱっと勢いよく両手を離した。

「殺さないよ。どうしたの?」

夏油さんは顔にかかっていた黒髪を、たくさんのピアスが飾っている耳たぶにそっとかけた。そして少し屈んで、俯いているわたしに視線を合わせる。わたしが何も言わないので、夏油さんは幼子をあやすように、わたしを正面から抱きしめた。ぽんぽんと背を優しく叩かれて、ようやく殺意がないということに確信を持った。震える声で、夏油さんに真意を尋ねる。

「あの、その……山なので……」
「ああ、なるほど。それで」

ようやく合点がいったらしい夏油さんが、からからと笑っては頭を撫でる。なるほど、そっか。怖かったよね、ごめんね。夏油さん関連で怖くないことなど殆どないが、今日はとりわけ怖かった。

「いやね、君にこれを見せたくてさ」と、夏油さんは視線をわたしの背側へ促した。美しい夜景にわたしは思わずほう、と息を吐いた。街の灯りがまるで星のように、暗闇を鮮やかに彩っている。

「今日は月が無いから綺麗だろう。これはチョコレートのお礼そのいち。君にはまだたくさんお礼をあげるから、楽しみにしておいてね」

チョコレートのお礼なんてこれだけで十二分であるが、やはりそれを言える勇気はない。素敵な夜景だ。わたしとて、夜景はそれなりに見てきたはずだ。しかしこの場に勝るものはないと思うほど、とても見事な景色だった。

「私は君を殺さないよ。君は可愛い恋人だもの」

それは恋人でなくなったら用済みという意味を孕んでいるというのだろうか。ごくんと唾を飲み込んで、はは……と乾いた笑いをこぼす。

「さすがに寒くなってきたから、もう帰ろうか。ああ、君にマフラーをかしたから、私がすっかり冷えてしまったな。……もちろん、温めてくれるよね?」


あの、獲って喰ったりしないんじゃなかったんですかね。


行きがけでは感じなかった別の恐怖が、わたしの中をぐるぐると巡る。「寝たら怒るよ」という脅しに耐えながら、わたしは暗い車の内、ガタガタ静かに揺られるのであった。








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