バレンタインの怪


ピンク色の蛍光灯。作り物のモンステラ。インスタグラムで映えそうだが、誰もいないフードコート。ここ新宿ルミネの七階にて、わたしはかつてないほどの危機に瀕していた。

「それで、用意はしてきたかい?」

──そびえ立つ大岩のようにわたしの前に座っているこの男性は、自由業の夏油さん。なんと彼は、わたしの父親の借金を肩代わりしてくれているとてもヤサシイ男性です。ちなみにいうと、父親は借金を残したまま蒸発してしまいました。いや全く、とんでもないお話ですね。

「私は今日が楽しみで、夜も眠れなかったんだ」
「それは……貴重な睡眠時間を頂いてしまい、大変に申し訳ないですね……」
「忘れているなんてことはないだろうね?」
「はは、いや、まさかそんなことは……」

夏油さんは可愛く小首を傾げているというのに、袖口から覗くおどろおどろしい刺青のせいで、可愛らしさは1グラムも残らず吹き飛んでしまっている。彼は普通の人間は絶対に選ばないであろう和柄のシャツを、これでもかというほど見事に着こなしていた。

夏油さんは手元のグラスに入っている水をぐいと上品に傾け、半分だけ飲み下した。男らしく突き出た喉仏が大きくごくんと上下して、わたしの喉も釣られて鳴った。

「こちらが、」
「声が小さいね」

うっと詰まった後、わたしは深呼吸をして声を張り上げた。

「こちらが、」
「もっと楽しそうに」
「……う、その……」

笑った顔は引き攣っている。声も所々裏返って震えているし、楽しそうになど見えるはずがない。しかしどういう了見か、夏油さんはニコニコと満足そうだ。

「夏油さん、どうぞ」

三度目のリテイクでようやく許されたわたしは、大汗をかきながら鞄の中を弄って、赤い小箱を机に出した。小箱は茶色いリボンで丁寧に包装されている。中身はなんの変哲もないチョコレートだ。夏油さん相手に安いチョコレートでは申し訳ないと思い、背伸びして買ったブランドもののチョコレート。

すすすと夏油さんの方へ小箱を寄せると、彼の目元からぱっと笑顔が消えた。切長の鋭い瞳はチョコレートを通り過ぎてわたしの方をじっと見ている。眉間に皺がぎゅっと寄って、どう見ても不機嫌そのものだが、口元だけは笑っている。それが大変に不気味であった。

「私は恋人に与えるチョコレートを用意しろと言ったはずだったけど?」

ぞわぞわと地を這うような低い声が、ピンク色のファンシーな空間にじんと響いた。『殴るぞ』や『殺す』といったあからさまな脅し文句よりも、ずっとずっと恐ろしい。

わたしは、死刑宣告を待つ被告人のような心地で視線を逸らした。地味な腕時計を嵌めた左腕には、ぽつぽつと鳥肌が立っていた。




それは確か一週間ほど前の出来事だった。サテン生地の紫色のシャツと、いかにもなスーツをしっかり着込んで、夏油さんはわたしの部屋に現れた。そしてお出しした紅茶を品良く啜りながら、“バレンタインを恋人と過ごしたい”と直々にご要求なさったのだった。

彼の言う“恋人”とはわたしのことを指している。何がどうしてそうなったのかは分からないけれど、彼の中でわたしは恋人の立ち位置にいるらしかった。八百万の職業があるこの世の中で、敢えてわざわざヤクザを選んでいるような人だ。そんな彼に、まともな価値観や倫理観を期待するだけ無駄というもの。ヤクザの男に世間様の常識を持ち込む方が間違っている。

とうてい返せないほどの借金を肩代わりして頂いている立場のわたしに、拒否権などがあるはずもない。彼はわたしの理解に及ばない思考をお持ちなのだと割り切って、今日まで命からがら過ごしている。

夏油さんが恋人に暴力を振るうようなタイプでなくて、本当に良かった。


──ああそして、ようやく話は冒頭に戻る。先ほどわたしは夏油さんに既製品のチョコレートを渡した。それだって、きちんとしたブランドもののチョコレートだった。女性向けのグルメ雑誌で取り上げられているような、小洒落たお店のチョコレート。無難が一番。冒険は怖い。


「愛が無いね。愛が」


吐き捨てるようにして告げたあと、夏油さんは丁寧に包装されたチョコレートの箱を、まるで汚いものでも触るかのようにつまみ上げた。そしてリボンを指で引っ掛け、ずるりと小箱を剥き出しにした。ポトンと情けない音を立て、小箱が机の上に転がった。

「これ、なに?」

蛇のように鋭い目が、じろりとわたしに向けられる。たっぷりと伸ばした黒髪の後ろ、背中に彫られているであろう刺青の龍がチラリと見えて、わたしはぶるぶると身を竦ませた。

ここで「どう見たってチョコレートですけど」という一言をどうしても言い放つことができない自分が非常に恨めしい。土壇場で生存本能が勝ってしまうのは、わたしの悪い癖だった。……か弱い生き物の選択としては、あながち間違っていないのだろうが。

「夏油さんと一緒に、食べようと思って」

乾いて張り付いた唇が、錆びて壊れたブリキ玩具のようにカタカタと音を紡いでいる。正にわたしは、蛇に睨まれたカエルのようだった。

「……ああ、そう。そっかあ、なるほど。確かにそれはいい考えかもね」

少し黙り込んだあと、夏油さんの目元にぱっと明るい笑みが戻った。そして長く垂らした前髪をくるくると指で弄ってから、にやりとあやしく口元を歪めた。

夏油さんはまだ半分ほど水の入ったグラスに中指を当てて、コツンと弾くように動かした。当然のように倒れたグラスから、わたしに向かって水が流れる。氷でよく冷えていた水が、わたしの服を大きく濡らした。安くて薄いセーターがたっぷりと水を吸って、暗く沈んだ色になった。濡れた服は重たいし、冷たい水が肌に触れて気持ち悪い。

「ああ、これは私の不注意だな」と目を細めた夏油さんが、のんびりとポケットからハンカチを取り出した。彼は「風邪を引くといけない」などわざとらしく言いながらわたしの隣に立つと、がっしりと強い力で腕を掴み、自身の方へと引っ張り上げた。

「溢してしまってすまないね。……あ、そうだ、私の家に行こうか。服の替えが必要だろう。チョコレートはそこで一緒に食べよう。大丈夫、ちょうど今タクシーを呼んだから」

“タクシー”とは、彼の部下らしき人物が運転する真っ黒いメルセデス・ベンツのマイバッハである。そんなまさか、とんでもない。服なんて家に帰ればいくらでも替えがありますので……というわたしの主張がまかり通るはずもない。有無を言わさぬほどの力で肩を抱かれてしまえば、わたしは首を縦に振るしかないのだった。



「そうだね、来週は期待してるよ。手作り」

背筋がぞっと凍ったのは、おそらく濡れて冷えたセーターのせいではないだろう。








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