7


火事についての記憶はすっかりそのまま戻ってきた。ならば、夏油さんと交際関係にあったという記憶も、次第に戻るかと思われた。

けれどやはり、彼との交際に関する記憶は、石ころひとつ分も思い出すことができないままだった。

だというのにわたしはといえば、なんとも現金なもので。夏油さんに惹かれてゆくのは殆ど時間の問題だった。僅かな時間に育った、滲むような恋心は、枝から離れた林檎のようにストンと地に落ちてゆく。ひとつとして彼と関係を持つ過程の記憶はないのに、当たり前のように彼の存在が刻まれてゆく。わたしの隣に夏油さんがいる。不思議なことにそれは、ごくごく当たり前のことだと思えるようになってしまったのだった。

家は燃えてしまって、お金も…無いほどではなかったけれど心許ない。一人暮らしの身の上で、ほかに頼れる人もいない。そんな状況で、彼の存在をあてにするのは、致し方ないことのようにも思えた。夏油さんに惹かれてゆくのは、刷り込みのようなものかもしれない。

それにしても、わたしはなんてひどい奴だろうか。ひどくて、とても狡猾だ。恋人のことをすっかり忘れてしまい、あまつさえそれを告げずにいるだなんて。だというのに彼の親切を何とも無しに受け取っている。それは彼の優しい心遣いを、騙して踏み躙るような行為だった。

恋心と共に育ったのは、罪悪感に他ならなかった。夏油さんから向けられている感情は、わたしであってわたしでない者のための想いだった。たった三日眠りこけていただけで忘れてしまうような薄情な女などではなく、誰かほかに受け取るべき相手がいる感情なのだとすら思えた。実際そうなってしまえば、ひどく傷つくのは目に見えていたのに。

本当のことを言えば、夏油さんはわたしに失望するだろうか。騙したな、だなんて言う人ではない。けれどきっと、がっかりするに違いない。がっかりして、彼こそ傷ついてしまうのではないだろうか。

そんなことを悶々と考えて、五日も時間が経ってしまった。言わねばと思えば思うほど、気は重く先延ばしにしてしまう。多忙な夏油さんに声をかけて「あの、その、ええっと」と吃って「やっぱり何でもない」だなんてことを繰り返す。誰だって不審に思う。当然夏油さんだって、例外ではなかった。

数日挙動のおかしいわたしを「海にでも行こうか。ちょっとは気分が晴れるかもしれないよ」と連れ出したのは、そういった経緯があったからだろう。

日はまだ高いが潮風で冷える砂浜に、わたしと夏油さんはふたり並んで座っていた。シーズンオフの海岸は、わたしたち以外に誰もいない。まばらに生えた多年草が、冷たい風に揺られている。温かい缶コーヒーを握らされたわたしは、蹲って砂つぶを数えていた。本当のことを告げるなら、今をおいて他にないシチュエーションだった。だからわたしは砂つぶを数えるのを止め、勇気を振り絞って夏油さんに向き直った。

「夏油さん」

ここ一ヶ月ですっかり慣れ親しんだ“傑”という名前ではなく“夏油さん”と彼を呼んだ。海風に好き勝手させていた黒い髪を緩く一つにまとめて、夏油さんは「なに」と返事をした。ずくずくと腹の底を這うような、低くて掠れた声だった。

「わたし、夏油さんに言わなければならないことがあるんです」

夏油さんは黙ってこちらに顔を向けた。ほんの一瞬、まっすぐに伸びた眉が歪んで、少し驚いた表情を作った。握っていた黒い缶コーヒーが、僅かに軋んだ音を立てた。鋭利なナイフで裂いたような鋭い目元に、すうっと暗い影が落ちた。

「最低だって罵って頂いても構いません」
「聞きたくないって言ったら、君は言うのを止めてくれる?」
「それは何度も考えたんです。でも、もう言わなければ駄目なんです」
「私は、何か嫌われるようなことをした?」
「そんなことはないんですが」

今から大嵐が来る海は、きっとこんな感じなのだろう。波も立てずに静かに疼く感情が、篭って渦を巻くような。「別れ話だけは了承できないな」とわたしの方に手を伸ばした夏油さんは、どうも何かを激しく勘違いしているようだ。「別れ話じゃないんです」と慌てて両手を突っぱねると、夏油さんは手を下ろした。

「じゃあ何をそんなに切羽詰まって」
「それが、どうしても聞いてほしいんです」
「聞くよ、聞くから。吃驚させて悪かったね。ほら、ゆっくり言ってごらん」

打って変わって穏やかになった夏油さんが、缶コーヒーのプルタブを引っ張った。カシュ、という小気味の良い音がして香ばしい香りが潮に混じる。ごくんと大きく上下する喉仏に釣られて、わたしも缶コーヒーに手をかけた。そしてようやく、夏油さんに全てを打ち明けることが出来たのだった。



「というと、君はこの一ヶ月もの間、私と付き合っている記憶をすっかり失くしたまま一緒に生活をしてたっていうのかい?」

訝しげに覗き込む、優しい顔に罪悪感が募った。とうとう言ってしまったのだ。しかし、どこか非常にすっきりとした心地だった。

ずっと胸につっかえていた事柄を、ようやっと吐き出すことができたのだ。わたしは「ごめんなさい」としおしおに萎れて「でも、わたしが夏油さんを好きって気持ちに嘘はないんです」と今更すぎる弁解をした。

わたしは最後に、自宅のベッドで横になった。そして目が覚めたら病院にいた。これはどうやら失くした記憶の矛盾を、脳が勝手に補完した偽りのようだった。徐々に明らかになった事実を繋ぎ合わせてゆくと、わたしは最後は夏油さんの家に居たし、その前は自宅ではなく高専の寮部屋だった。ただ、こうやって打ち明けても、夏油さんとの記憶が戻ることはなかったけれど。

このまま本当のことを表に出さず、ずっと夏油さんを騙すことだって出来たのだ。記憶の矛盾を補完する脳の能力は凄まじく、いずれ違和感も消えてしまったに違いない。

とはいえ、とはいえだ。いくら思い出そうとしてもてんで駄目で、まるで初めから存在しなかったように感じることもあったとはいえ、わたしは夏油さんのことを思い出したいと思っていた。夏油さんと紡いだ歴史が、まるごと無くなってしまったのは非常に寂しい。

「失望しました?」と尋ねると「今の話のどこに失望する要素があるんだよ」と夏油さんは低く唸ったので、わたしは再び「ごめんなさい」と謝った。

「いや、それについては気が付かなかった私にも非があるというか……」

目を丸くして驚いている夏油さんが、缶コーヒーを置いてわたしを胸に抱き込んだ。バランスを崩した缶コーヒーは、音もなく砂浜に倒れた。濃くて茶色いコーヒーの染みが、乾いた砂地に広がった。わたしは黒くて柔らかいダウンジャケットに、すっぽり身体中を包まれている。「別れ話かと思ってひやひやしたよ」と夏油さんは耳元で囁いて、ふうと大きくため息を吐いた。そして「ああでも、」と彼は話を続けた。

「どちらかというと、私は君が心配だよ。そのまま騙されていたらどうするつもりだったんだい? 私だったから良かったものの、そうじゃなかったらと思うとぞっとするよ」



夏油傑、彼は呪術師の先輩だ。それも特級で、とびきり優しくて、とびきり懐が大きい。そしてわたしはどうもやはり、彼の恋人で良いらしい。

記憶を本に例えるなら、わたしの本はすっかり間のページを抜かれてしまった状態に近い。けれど日々、本のページは増えてゆく。いつか、思い出せないことを笑える日も来るだろうか。

帰ろうか、と立ち上がった夏油さんが冷えたわたしの手を引いた。

「思い出せなくてもいいよ。思い出なんて、これからたくさん作ればいいよ。それにたった一ヶ月で君を惚れ直させるだなんて、私の魅力も捨てたものじゃないね」

風に揺れる黒い髪から、嗅ぎ慣れた白檀の香りがした。ダウンジャケットの裾は緩くたなびいて、傑が優しく微笑んでいた。くしゃりと穏やかに歪んだ顔は、寒さで頬が赤らんでいる。橙色の風が吹いて、わたしはふと後ろを振り返った。振り返った視界の隅に、黒い着物が見えた気がした。

そういえば、あの花の名前は何だったろう。病室で見た、白い花。




END








「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -