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三度にわたって、アパートが燃える夢を見た。

昼なのに外は不気味に薄暗く、アパートの周りは人気も無かった。灰色の煙は、まるで恐ろしい怪物のように見慣れた景色をすっぽりと包み込んでしまっている。わたしの部屋から、両手を伸ばすようにして煙が広がっていた。風で揺れる煙は「おいで、おいで」と手招いているようにも見えたので、わたしの両肩はぶるりと小刻みに震えていた。伸びた煙は薄暗い雲に重なって、街全体を暗く灰色に変えてゆく。

目の前で起こっていることは夢の中の出来事だというのに、ぞわぞわと底冷えするような薄ら寒さを感じさせていた。

逃げなければならないと分かっていたのにも関わらず、両足は釘で打ちつけたかのようにピクリとも動かすことが出来ない。

濛々と立ち登る煙から覗く赤い炎は、まるで蛇の舌のようだった。煙を蛇のようだと感じてしまうと、途端にそうにしか見えなくなった。煙はふわふわとした体を保ったまま、灰色の大蛇へ姿を変えた。

大蛇には大きな瞳がついている。琥珀の色をした切長の瞳孔がスッと縦に開いて、ジロリとこちらを睨み見た。吹き上がった細長い火炎が、確かにチロチロと舌舐めずりをした。高く登っていた煙が大口を開けてわたしのことを呑み込んだ時、ようやく悪夢の幕が上がった。

目が覚めたときは大抵、夏油さんが心配そうにこちらを覗き込んでいる。そして大汗を掻いてぶるぶると震えているわたしの背を、大きな手でゆるりと優しく撫でている。夏油さんは「何度も起こしたけれど、起きなくてね」と耳に心地よい音程の声をかける。「怖い夢でも見たのかい? もう大丈夫だよ、ゆっくりおやすみ」と言われてやっと、わたしは再び眠りにつけるのだ。

一度目は身体が大きく痙攣して目が覚めた。身体中が汗でじっとりと濡れていて、ひどく息が荒かった。暗闇の中で見えた夏油さんの瞳は琥珀のような色をしていて、夢の中の蛇にそっくりだった。ほんの一瞬鋭く開いた切長の瞳に、わたしはどうしようもない恐ろしさを感じてしまったのだった。

二度目は勢いよくベッドから落ちて、ごちんと鈍い音を部屋に響かせた。腰骨がじんじんと痛み、驚きとともに小さな悲鳴が上がった。ぬっと伸びた長い腕が、わたしの体を掬い上げ、空を掴んで藻掻いている手のひらを包み込んだ。「家が、燃えて」と譫言のように呟くわたしに、夏油さんは「大丈夫だから」と穏やかに声をかけた。わたしは夏油さんの厚い胸元にぎゅうと強くしがみつき、彼の体温を感じていた。

このようにひどく恐ろしい夢を見て、わたしの精神状態はぐったりと深く落ち込んでしまっていた。家が燃えた件についてはもう疑いようもない事実であったし、それの原因が呪霊だという可能性だって否めなかった。わたしが知らず知らずのうちに呪霊を呼んでしまって、それが原因で燃えてしまったのではないだろうか。二度の悪夢から目が覚めた後、お前のせいだという幻聴までも聞こえる始末だった。

いよいよ病院に行くことも考えた。たった二度の悪夢だが、わたしは既に限界だった。

親切にしてくれる夏油さんは、わたしのことを“恋人”として接している。肝心のわたしには、恋人としての記憶も自覚も一切ない。だというのに、彼の優しさを図々しく受け取っている。そのことに対する罪悪感も、日増しに強く感じるようになっていた。



転機は三度目の悪夢の際に訪れた。驚くべきことに、三度目の夢は悪夢ではなかったのだ。

わたしの住んでいたアパートは火事になった。それについての詳細は、三度目の夢の中ですっかりと思い出すことが出来た。本のページを捲るようにひとつまたひとつ、もしくは紙にインクが馴染むようにするすると、わたしの記憶は元に戻った。

思い出してみると実に些細な事柄で「ああ、そうだった」と拍子抜けしてしまう程だった。

アパートが燃えたのは、二週間ほど前のことだった。原因は下階の住人による火の不始末。それなりに大きな事件だったが、事の顛末は存外粗末なものだった。

火事によって怪我をした者はいなかった。古い木造故によく燃えて、アパートはすっかり全焼してしまったにも関わらず、住民は全て外出していたのだ。もちろん死者も出なかった。わたしに関しては数日の出張に出ていたため、炎はおろか煙が立ち昇っている所すら見ていない。わたしは自身が見てもない、想像上の出来事に怯え、震えていたのだった。


硝子さんが態々わたしに火事について尋ねたのは、彼女と最後に会ったのがアパートが燃え尽きた直後で、わたし自身が非常に落ち込んでいたときだったからだろう。家財道具一式を失い家なき子となったわたしは、一週間ほどは高専の寮に身を寄せていた。

というのも、火事の件について話題を出したのは、硝子さんだけではなかったのだ。報告書とカルテを見せてほしいと頼んだ伊地知さんにも、その際訪れた高専で五条さんにも同じ事を尋ねられた。勿論みんな三日の入院についても言及してくれたが、そもそも怪我の多い職業であるので、三日程度の入院は珍しくもない。


退院から一週間ほどが経過していた。夏油さんの恋人となって一週間とも言い換えることができる。火事についてはすっかり思い出したものの、夏油さんについてはさっぱり何も思い出せずじまいだった。そして彼に、本当のことも言えていない。

夏油さんと紡いだ関係の記憶が、ほとんど白紙に近いのだ伝えられぬままあやふやに恋人ごっこを続けている。違和感のないように彼のことを“傑”と呼び、馴れ馴れしくも敬語を捨てた。夏油さんは家で大人しくしているわたしに気を良くして、けれど時々は哀れに思って、スイーツだの何だのお土産をたくさん寄越してくれる。一見すれば仲睦まじい恋人同士のようだった。そのものと言って、何らおかしいこともない。

スマートフォンの端末は、仕事用だけが戻ってきた。そちらだけはバックアップが取れていたのだ。仕事用で私用の話をするはずも無く、スマートフォンには夏油さんとの関係について何も証拠は残っていなかった。

報告書にも、無論そういった類のことは書かれていなかった。書かれていたのはわたしが準一級程度の呪霊に力負けしたこと、そして第一発見者は夏油さんであったことくらいだった。

「祓った呪霊は取り込んだの?」と聞いても、要らなかったからポイしちゃったと話は軽く流された。発見状況を根掘り葉掘り尋ねるのは憚られて、結局それ以上深く掘り下げることは叶わなかった。








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