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全く身に覚えのない“火事の件”について、何と回答すればいいかやはり分からず、わたしはぽかんと口を開けたまま黙っていた。硝子さんは「デリカシーが無かったな、忘れてくれ」と謝って、ぱたぱたと走り去っていった。急患が入ってしまったのだろうか、忙しない靴音はやがて廊下の向こうに消えていった。


とりあえず件の報告書もカルテも、伊地知さんが管理しているとの情報を得て、わたしは補助監督の人たちが使っている大部屋に訪れていた。

重たげな鉄製の扉を横に開いて、一際大きなシルエットを作っている事務机に近寄った。ぐらぐらと絶妙なバランスで積み上げられている書類たちは、シルク・ド・ソレイユも吃驚するほどの塩梅である。

わたしの読み通り、今にも雪崩れてしまいそうな机の端には、折れ曲がったテプラで【伊地知】と名前が貼ってあった。しかし肝心の本人は不在で、キョロキョロと辺りを見回すと、大きな白いマグネットボードの一番上に五条さんと伊地知さんの名前があった。角張った字で『直行直帰』とだけ書かれている。おそらく、今日はもう戻って来ないのだろう。

机の上に置かれていたファイルの中に、わたしの報告書が挟まれていないか僅かに期待を膨らませたものの、そう都合よく物事が運ぶわけもない。高専からはこれ以上の手掛かりを得られることはないだろう。わたしは別の場所に足を運ぶことにした。



わたしが住んでいたアパートの場所は、忘れられることなくしっかりと記憶されていた。最寄りの小さな駅を出て、閑静な住宅街を20分ほど歩いたところ。木造で少し古いのだけれど、リフォームが済んでいて綺麗なアパート。近くには小さな公園があって、秋は金木犀の香りが漂ってくる。

それが、今やすっかり何も無くなっていた。更地だ。

乾いた風に煽られて、白っぽい砂埃が舞っている。燃えかすくらいはあるだろうと思ったが、解体は思いのほか早かったらしい。火事があった名残といえば、黒く焼け焦げた隣家の壁だろうか。

帰るべきアパートはない。火事に関しての記憶もない。通信手段も持っていなくて、手持ちの現金は僅かばかりといった程度だ。三日も眠っていたからだろうか、ひどい倦怠感が身体を襲った。ぐったりと倒れ込んで、今にも眠ってしまいそうなほどだった。

わたしは更地の端に腰掛けて、呆然とあたりを見つめていた。火事があったのは、数日前どころではなさそうだった。記憶を本に例えるなら、わたしの本はすっかり間のページを抜かれてしまった状態に近い。思い出せないことが思い出せない。ほかにもたくさん、何か忘れてしまっているのだろうか。

わたしは気が抜けてしまって、何時間もひたすらに更地を眺めていた。そのうち思い出すかもしれない。ならば問題はひとつもない筈なのに。どうしても胸が騒いで落ち着かない。忘れていることが、ひどく恐ろしい出来事の前振りのようにすら感じていた。


そしてわたしは、重大な過ちを犯していた。

わたしの着替えや私物、手持ちの財布以外の財産は今、夏油さんの家にある。手持ちの財布についてはたいした額は入っていない。財産といってもたかが知れている。とはいえ、わたしの全てはおそらくあの部屋にあるのだろう。だというのに、わたしといえば夏油さんの家への帰り方をすっかり忘れてしまっていた。夏油さんが任務から戻る前に帰れば何の問題もない。高専で失くした記憶の手掛かりを得て、一旦はアパートに戻ろうと思っていたのだが、得られた手掛かりは“夏油さんとわたしが交際関係にあったとして、公にはしていないだろう”ということだけだった上に、頼りにしていたアパートは燃えて無くなってしまっている。

ここであと何時間もぼんやりしているわけにもいかない。そろそろ帰宅した夏油さんが、怒って探し回っているかもしれない。怒りを露わにする夏油さんは、俄かに想像し難いが。

とりあえず駅まで歩こうと立ち上がったわたしの視界を、大きな影が遮った。走ってきたのだろうか、息が少し乱れている。今朝着ていったマウンテンパーカーのまま、靴だけはサンダルに履き替えた夏油さんが、仁王立ちで立ち塞がった。足、寒くないのだろうか。

「何か言いたいことはあるかい?」
「家を忘れてしまって……」

苦しい言い訳は、決して嘘ではない。本当の本当にわたしは夏油さんの家を忘れてしまっていたのだから。夏油さんは「馬鹿!」と語気を強めてわたしの方をきつく睨んだ。

「流石に心配するだろ、昨日退院したばかりなんだぞ!」

目が覚めた時のほっとした顔の夏油さんが脳裏に過ぎる。彼は心底、わたしの身を案じているようだった。「そんな薄着でフラフラして」と小言を溢す夏油さんが、わたしの隣にそっと並んだ。彼の大きな手のひらが、冷たく冷えてしまったわたしの手を温めるように優しく包んだ。そこでようやくわたしの方も、彼に悪いことをした気になった。汗で湿った夏油さんの手のひらを、そっと控えめに握り返す。「すみませんでした」と零した声は、蚊の羽音よりも小さかった。

「アパート、すっかり無くなっちゃったんだね」

夕焼けに染まったオレンジ色の更地を、ふたりでじっと眺めていた。わたしは「そうみたい」と簡単に答えて、更地と同じ色に染まった爪先を見た。呪いによる澱みはない。花すら飾っていないから、ここで死人は出ていないはずだ。それだけは、今日あった数少ない良かったことにしておこうと思う。

視界の端で揺れている夏油さんの黒い髪は、まるで街の端に降りた夜の帷のように綺麗だった。








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