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三日間、わたしが気を失っていたことは確かな事実だ。医師による診断書は確かに手元にあった上、これのお陰でわたしは現在休職中の身となった。

ただ診断書には、簡単な外傷について以外何も書かれていなかった。せめてもう少し手掛かりになりそうな事が書かれていれば、わたしも冷静になれていたのかもしれないのだが。

高専の古い柱の木目を数えながら、わたしはぼんやりと硝子さんを待っていた。夏油さんは任務があるからと、朝から名残惜しそうに家を出た。それはわたしにとって非常に幸いなことだった。

気を失った件については、どうも呪霊が噛んでいるらしい。医師が原因に全く言及せず、淡々と外傷のみの診断書を出したのはその為だろう。夏油さんの第一声は「無茶をするなと言っただろう」であったし、わたしが任務中に何かしらのミスを犯して怪我をしたことは明白だった。

夏油さんは“反転術式で治した”とわたしに告げた。ならば、最初にわたしを診たのは硝子さんとなるはずだ。夏油さんと本当に恋人同士だったのかという疑問は解決せずとも、わたしが意識を失う過程についての謎は、多少なりとも解けるだろう。

それでやっと、少しは状況が飲み込めるようになるかもしれない。夏油さんには申し訳ないけれど、何もわからないままでこの距離感をずっと続けるのは無理があるように思えたのだ。

「待たせたな」
「いえ、そこまでは」

硝子さんは、わたしが訪問をするとすぐに“もう少しでひと段落着くから、そうしたら時間をとってやれる”と返事をくれた。先の事故で携帯電話は仕事用、プライベート用共に紛失してしまったらしく、わたしの手元には通信手段がひとつもない。夏油さんはそれをきちんと把握しており、わたしに外出しないよう強く諌めてから任務に出た。わたしは彼にばれぬよう、こっそり家を出たということになる。

「具合はどうだ? 運ばれてきたときは流石に冷や冷やしたよ。もう良さそうに見えるが、あまり無理をするなよ。夏油がどういう顔でお前を運んできたと思ってるんだ」

一体どんな顔だったのだろう。いつも落ち着いているイメージのある夏油さんが取り乱すのは珍しい。わたしは医務室にある簡素な椅子に座って、もじもじと手元を弄った。何から聞けばいいのか、それもさっぱり分からなくなった。取り乱した夏油さん、運ばれてきたわたし。医務室で驚いた顔をしている硝子さん。きっと物凄い絵面だったろう。

硝子さんは「お前が元気いっぱいなら、面白い光景だったんだがな」と、残念そうに眉を下げた。湯気の立たないマグカップから、彼女はひとくちコーヒーを啜った。

「硝子さん、あのですね。少しお伺いしたいことがありまして」

わたしは、歯切れ悪く本題を切り出した。

「そうか。どうした?」

硝子さんは少し声を落として、わたしの方に向き直った。年季の入った事務椅子が、錆びて軋んだ音を立てている。エメラルド色のクッションの上に、ドーナツ型の座布団が敷かれていた。彼女は日頃、この椅子に長く座って作業をしているのだろう。

「あの、」

どこから聞けばいいのやら、何から聞けばいいのやら。多忙な硝子さんがせっかくわたしに時間を割いていると言うのに、わたしの口からは意味を持たない単語が漏れ出るばかりだった。真剣に話を聞いてくれようとしている先輩に、「わたし、夏油さんと“そう言う関係”なんでしょうか」などと一見ふざけた内容を、どうしてもどうしても問うことが出来ない。せめてもう少し遠回りでマシに聞こえる質問に変えることはできないだろうか。

見かねた硝子さんが「身体、違和感でもあるのか?」と優しく尋ねた。クルクルと指先で遊んでいたペンが、胸ポケットに仕舞われる。白衣の胸元でゆらゆらと揺れているペンのキーホルダーは、褪せて色が消えていた。

「ええと、その…」
「打ったのは頭だったな。まだ痛むか?」

痛みはない。夏油さんのことがすっかり思い出せない以外は、わたし自身は至って正常だった。

何とも言い難い表情だったのだろう。ゆるりと左右に首を振ると、硝子さんは困ったように笑っていた。わたしを安心させようとして、笑みを湛えているに違いなかった。目の下の濃いくまが、笑い皺で深くなった。

「呪力と脳の関係は未だ未知数だ。呪力操作に問題は無いか? カルテや諸々は伊地知に渡してしまっていてな。取ってくるよう指示しようか?」

長くて美しい指先が、わたしのおでこを優しく撫ぜた。ひやりと冷たく冷えていて、それがとても心地よかった。しかし硝子さん綺麗だなあ、などとぼんやりうつつを抜かしている場合ではない。

やっとのことで「実は」と切り出したのだが、まるで見計らったかのように硝子さんのスマートフォンがぶるりと震えた。なんともまあ、間が悪い。硝子さんは「ちょっといいか」とひとこと断ってから席を立った。



結局、そのまま急な仕事が入ってしまった硝子さんに『わたし、恋人がいるみたいなんですが、その恋人のことがすっかりさっぱり思い出せないんです』と告げることは出来なかった。

きちんと現状を伝えなければならなかったというのに、伝えることが出来なかったという無念さで心がいっぱいになる。それでも、何か手掛かりになるようなことを聞いてからでないと、どうにもこうにも帰るわけにはいかなかった。

硝子さんの部屋を出る間際に、わたしはようやっと重たく閉じた口を開いた。

「……あの、夏油さんって誰かお付き合いしている女性とか、いますか?」

苦しすぎる質問は、もしも硝子さんがわたしと夏油さんの関係を知っていれば違和感を抱くだろうと踏んで問いかけた。いわゆる駆けだった。それもかなり部の悪い。

もしもわたしと夏油さんが関係を公にしていなければ、わたしはとんだ恥をかくことになる。

「夏油はお勧めしないぞ」

ほら、こんな風に。

わたしは「ですよね」と簡単な相槌を打って、逃げるように部屋から出た。お時間割いてしまい申し訳ございません、とも付け加えて。硝子さんから見て、わたしは一体何しに来たように見えたのだろうか。わざわざ退院した次の日に、夏油さんの彼女の有無を聞きにきただけに映ってやいないだろうか。もう少し他に聞き方があったのではないだろうか。しかし、それを思いつくほどの技量も余裕もなかった。

鬱々としたわたしの気持ちとは裏腹に、燦々と晴れた日の光を透かす高専の廊下で、わたしは再び硝子さんに会った。

「そういえば、次会ったときに聞こうと思っていたんだ。火事の件、きちんと保険は下りたのか?」

身に覚えのない出来事が増え、わたしの頭はいよいよパンク寸前となった。








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