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「荷物は全部ボストンバッグに収まったよ。さあ、帰ろうか」

すっかり片付けを終えた夏油さんが、わたしのボストンバッグを肩にかけたままこちらに手を伸ばしている。わたしは自身の足元を見つめて、夏油さんの手を見つめて、そしてもう一度足元をじっと見つめた。履いている靴に見覚えがない。初めて見る靴だと言うのに、妙に履き慣れていて気持ちが悪い。「靴に小石でも入ってる?」と見当違いの心配をしている夏油さんに、わたしは違うよと首を振った。

退院の手続きは夏油さんが済ませた。タクシーの手配も。恐ろしいほど段取りがよい。

わたしのベッドでしばらく仮眠をとった後、夏油さんは高専に戻った。わたしが三日眠っていたときにすっかり貯めてしまった仕事を片付けなければならないのだ、と嘆いていた。

夕方になって再び現れた夏油さんは、少し髪が湿っていた。シャワーを浴びてきたのだろう。爽やかな石鹸の香りがした。少しずるいな、わたしも浴びたいと思っていたのに。病院の個室に、シャワールームは付いていなかった。そわそわと落ち着かないわたしの横で、夏油さんは付き添い人が一人まで宿泊できることを教えてくれた。そして一昨日はわたしの許可なく一泊したことも白状した。

とてもではないが、この状況でどこへ帰るのか聞くことは憚られた。夏油さんは、冗談で人を煙に撒くようなことをする人間ではない。五条さんじゃあるまいし、常識人の部類である彼は少なくとも冗談だって選ぶはずだ。こんな、笑えないことを真面目に言うような人であるは筈ない。けれど、だけど。

「たった三日ぽっち君がいないだけだったのに、何故かひどく寂しくてね」

苦笑しながらコーヒーを差し出す夏油さんの周りには、ひどく穏やかな空気が流れている。細長いカウンターキッチンの向こうで、ゆらゆらと白い煙が立ち上っていた。茶色いホーローのケトルは、コーヒーを淹れるのに適した形状のものだった。

砂糖はほんの少しだけ、ミルクを多めに入れる飲み方は、確かにわたしの好むものだ。わたししか知らないわたしのことを、夏油さんは知っている。わたしは夏油さんのことを、上部だけしか知らないというのに。

「傑、さん」
「“さん”付けだなんて余所余所しい。何か後ろめたいことでもあるのかい?」

“夏油さん”か“傑さん”か。おそらく二択のうちどちらかだろうと踏んだ賭けは、あっさりと負けてしまったらしい。正しい解は“傑”だった。どんよりとした気持ちになる。やはり全く身に覚えがない。すっぽりと抜け落ちたと言うよりは、初めからなかったかのようだった。

夏油さんの部屋はきちんと整頓されている。物は少なく、生活感は非常に乏しい。しかし彼の部屋に似合わないわたしの私物が、僅かな色を持たせていた。濃い茶色のデスクの上に転がっている小さなポーチや、センスのかけらもなく飾られている小さな置物は、確かにわたしの部屋にあったものだ。

このような状況を顧みて、客観的に言えば記憶がないだけで“夏油さんとは本当に交際関係にあった”と信じざるを得ない。

「す、傑」

名前を呼べば、嬉しそうにこちらを見る。「なに」と優しくわたしを覗き込んでは、楽しそうに声を漏らして笑っていた。とても、とても本当のことを告げられるような状況ではない。冷や汗を背に掻きながら、わたしはごくんと生唾を呑んだ。手に持ったマグカップをぐいっと大きく傾けて、まだあついコーヒーを嚥下した。思わず「熱っ」と声を上げたわたしに、夏油さんは大きくため息をついた。

「危ないから一気に飲むのは止めなって、いつも言ってるだろ」

大きな手のひらに、すうっとマグカップが攫われる。ガラス張りのテーブルは、マグカップが置かれたことによりカツンと高い音を立てた。まだ半分も減っていないコーヒーは、ゆらりと波を立てている。彼は“いつも”言っているのか。

このまま流されてしまって、果たして本当に良いものなのか。けれど、夏油さんが傷つくところも当然見たくないわけで。ただ、どろどろと甘く変わりそうなこの空気をどのようにすれば良いのかも分からない。夏油さんは案外、強引なタイプなのだろうか。白い花が飾られている。視界の端で揺れた花は、病室で見たものと同じ花だった。








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