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「あれ、眠っちゃった?」

起きて起きてと促され、わたしはゆっくり両目を開いた。ふんわりと揺れるカーテンの向こうは、青い空が覗いている。白い壁紙に、白い天井。奥に立っているのは夏油さんと、白衣を身に纏った医者の男。どうやら夢の続きが始まったらしい。わたしは天井の模様と睨み合いながら、現状について顧みた。花瓶の花が揺れている。窓が開いているようだ。新鮮な風が吹き込んで、何処となくどんよりと曇った空気を入れ替えていた。

状況が全く読めていないわたしに代わって、夏油さんが医者と話を続けていた。外傷は変わりなし、命に別状もない。血圧は正常。点滴は外せる。退院は、問題が無ければ明日にでも。

淡々と入ってくる情報は現実味がなく、まるでスクリーン越しの映像のようだ。わたしのことを話しているはずなのに、わたしはまるで干渉していない。

じっと視線を送っていると、夏油さんと目があった。柔らかく微笑んで、ひらひらと手を振っている。医者はわたしの側に歩み寄ると、慣れた手つきで点滴を外した。押さえつけられた脱脂綿の端に、小さく赤い血が滲んだ。医者は二度ほど頭を下げて、静かに部屋を出て行った。

ぴたりと隙間なく閉まった扉を確認した後、夏油さんは私のそばに歩み寄った。黒いマウンテンパーカーを着ている。髪は緩く下ろしていたが、ハーフアップの要領で団子の形に結われていた。まるくなった髪束から、数本の黒い毛が散っていた。

「まだぼんやりしているだろう」

窓辺に立て掛けてあったパイプ椅子を雑に開いて、夏油さんが座り込んだ。ギシギシと、強く金属の軋む音がする。安いビニールのクッションは破れ、黄色い綿がはみ出ていた。ぼろぼろと崩れそうな穴から、ふすりと気のない空気が抜けた。

「三日経った」

夏油さんの低くて少し掠れた声が、しんとした室内に大きく響いた。「何の日数だと思う?」と言葉を紡ぐ口元は笑みを湛えているが、目は全然笑っていない。少し窪んだ目の下は青黒く、彼の焦燥をより一層色濃く表していた。

何と答えれば良いかも分からず、わたしは口を閉じきれないまま夏油さんの方を見つめていた。黙り込んだわたしに、夏油さんは眉間の皺を深くした後、ぽりぽりと親指でそれを解した。彼は海溝の底から漂う泡のような深いため息を吐いて、包帯が巻かれたままの手首に指を這わせた。

「君が気を失ってから、だよ」

真面目な顔をした夏油さんが、じっとわたしの顔を覗き込んだ。煮出した紅茶をもっとずっと深くしたような色の瞳から、すうっと光が消え失せてゆらゆらと瞳孔が揺れ動いた。気を失ってから、三日経った。たったそれだけの情報を、夏油さんは怒りや焦燥を交えてわたしに伝えた。わたしの手首をしっかり握ったまま、ぶるりと細かく震えている手のひらは冷たい。指の隙間からじっとりとした手汗が滲んでいる。

「無茶はするなと言った筈だけど」

聞かん坊なのは相変わらずだよねと言った後、夏油さんの無骨な手がわたしの頭をすっぽりと包み込んで抱き寄せた。反射的に震えた肩に苦笑して、夏油さんはベッドの上に身を預けた。包帯に覆われた手首に触れないよう気を遣いつつ、大きな身体が横たわる。間近に感じる体温に、わたしは終始混乱を極めていた。

「身体は大丈夫? まだ痛いよね。反転術式で治してもらったけど、こればっかりはどうにもならないみたいでさ」

「ご飯行こうねって言ってたのはまた今度にしよう。やっと目が覚めたんだ、今日くらいはゆっくり休もうよ」

「点滴が取れて良かったね。退院は早ければ明日。でも今夜は私もここに泊まっていい? 君が居ないとどうも落ち着かなくて」

矢継ぎ早に飛んでくる夏油さんからの問いかけに、いまいち状況が読めていないわたしは「あの」だとか「その」だとか歯切れの悪い返事を返すことしか出来ないでいた。ぎゅうと厚い胸元に閉じ込められて、息をするのも儘ならない。溺れてしまったような心地に、不安の芽がぐんと大きく育つのが分かった。「少し眠ってもいい?」と尋ねた後、夏油さんは瞳を閉じた。わたしは「どうぞ」としか言うことが出来ない。

すうすうと聞こえる吐息や、じんわりと伝わる体温は、あまりにもリアルで生っぽい。呼吸で揺れる黒い髪が、真白いシーツの上に絹糸のように広がっていた。

記憶がない。夏油さんと抱き合って眠るような関係になった記憶が、全くない。けれどそれを言い出せる雰囲気は毛頭ない。滑らかに整った顔をまじまじと見つめると、視線に気が付いた夏油さんが「何だい。穴が空いてしまうよ」と切長の目を開いて、僅かに頬を赤らめる始末。

「なんでも、ないです」と弁解した声は、今にも消えてしまいそうだった。夏油さんは「何で敬語なの?」とクツクツ笑って、今度こそ眠りに落ちてしまった。








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