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「五条先輩……今カンボジアなんじゃ?」
「昨日帰るって連絡したんだけど。しかもアンコールワットに居たのは2週間も前だよ?ちゃんと僕からの連絡を読んでないってことだよな?」

丸いサングラスが彼の目を黒く覆っていても良くわかる。紫外線をカットする程度のレンズでは、遮ることの出来ないほどの鋭い眼光。五条先輩は今、もの凄く怒っていらっしゃる。

「スタンプの連打で流れてしまったのでは?」
「そうかもな。オマエ既読も付けないもんね」

長い長いおみ足が、ぐりぐりと機嫌悪そうに赤褐色のレンガ床を踏み締めていた。ざりざりと削れて細かくなった砂の音が、わたしを遠回しに威圧している。

「合コン?いいご身分だよなあ?」
「なんで合コンってことを五条先輩が知っているんですか?」

五条先輩は「さあね」と短く吐き捨てて、一歩前に出た。長い体がぬっと伸びて距離を縮めようとしたけれど、わたしは一歩下がって五条先輩から距離をとった。じりじりと近づいてくる五条先輩を避け続けて、後ろ足でトタンの可愛いゴミ箱を蹴っ飛ばして、そして冷たい壁に背が付いた時、わたしはようやく“逃げ道をなくした”ことに気がついたのだった。

「僕からの連絡を全部放り出して、君は堂々と合同コンパニオン?」
「わたしが誰とコンパニオンしようが、わたしの勝手でしょう」

ガン、と大きな音がして、騒がしい店内はしんと静かになった。五条先輩に蹴り上げられたトタンの可愛いゴミ箱は、可哀想に少しだけ凹んでしまっている。

「ちょっと、蹴ったりしないでくださいよ」
「帰るよ」

これはどこからどう見ても、痴情のもつれによる言い争いだった。わたしと五条先輩は、好奇の視線に晒されている。店内中の視線を一気に集めた後、五条先輩はわたしの手をぎゅうと掴んだ。「まって、」という制止の声も耳に貸さず、ずんずんと大股で歩く五条先輩に、わたしは店外に連れ出されそうになる。こうなってしまっては、どう足掻いたところで五条先輩を振り切ることは不可能だった。合コン、もう少しだけ楽しみたかったなあと心に思うも、口に出すと更にひどい目にあってしまうだろう。

わたしは潔く合コンのことは諦めて「帰りますけど、会費を払ってない上に鞄がまだ席にあります!」と訴えた。五条先輩はぴたっと足を止めて、皆がこちらをじっと伺っている細長いテーブルにずかずかと向かった。

「これ、今回の会費。悪いけどコイツ連れて帰るね」

五条先輩は尻ポケットに挿してあった自身の黒い財布から、一万円を取り出して乱暴に机に置き去りにした。そしてわたしの鞄をむんずと掴んで、再び大股で店外へと歩き出す。「すみません、この埋め合わせはまた!」と大きな声で叫ぶと、腕を掴む大きな手の力がぎりぎりと強く増した。五条先輩とわたしの足の長さは全然違うので、当然歩幅も大きく異なった。側から見るとわたしはまるで、五条先輩にずるずると引き摺られているように見えているだろう。

わたしはくねくねと狭い店の中、無遠慮に進む五条先輩の背中を小走りで追いかけた。

ちっとも追いつけそうにない大きな背中が、今日はやけに遠く見えた。五条先輩はいつもわたしの小さな歩幅に合わせてくれていたのだと、こんな状況であるが思い知る。


わたしと五条先輩は、まったく会話などせずに、騒がしい東京の夜街を歩いている。ネオンで彩られた看板をいくつも通り過ぎて、薄暗い裏路地を何度も何度も抜けてゆく。常に騒がしく何かを喋っている五条先輩から、なにも言葉が出ないのは恐ろしい。かと言って場を和ませるような気の利いたことが言える筈もなく、ただ彼の怒りを無用に煽ってしまわないように、わたしはじっと押し黙っているのだった。

そもそも、どうして五条先輩がわたしの合コンを知っていたんだろう。そして、どうしてわたしが合コンごときでここまで彼に怒りをぶつけられているのだろう。わたしたちは恋人同士ではない。ただの先輩後輩という関係だったはずなのに。沸騰間際のお湯のように、ふつふつと疑問は湧いてくるが、燃えるような怒りとは違う、まるで氷のような凍てついた雰囲気を纏っている五条先輩に向かって、何か大層な文句を言える気もしない。

駅前を抜けてロータリーからタクシーに乗っても、タクシーがわたしの家の前に着いて「帰り、また使うからここで待っててもらえる?」と五条先輩がタクシーのおじさんを引き止めている間も、わたしたちに会話らしい会話は無かった。

コツンコツンとコンクリートを叩く、温度のない音が暗い廊下に響いている。通い慣れたアパートの廊下だというのに、まるで初めて訪れた場所のようだった。空気を震わすようなひりついた殺気が、わたしをぶすりぶすりと突き刺さっている。


五条先輩は305号室、つまりわたしの部屋の前まで来て、ようやくその足を止めたのだった。







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