ジムノペディ


クリフ・リゾートの白い部屋に、ひとつの古いグランドピアノがあった。所々塗装が剥げたそのピアノは、ささくれた木材が剥き出しになっている。全身を白い衣と包帯に身を包んだ男が、ゆったりとペダルに足をかけ、黄ばんだ鍵盤に指を滑らせた。

わたしは部屋の片隅で、温かい紅茶をいれながら男の演奏にじっと耳を傾けていた。薄く、絹のレースのような湯気が、白磁のティーカップの上でゆらゆらと優雅に揺れている。

男──ルーファウス・神羅の白く長い指先は、まるでプログラムされたコンピューターのように正確に、白鍵と黒鍵の間を行き来している。わたしはこのピアノが、ろくに調律もされていない代物であることを、ひどく残念に思った。きっと、きちんと音合わせをしていたのならば、ものすごく美しい演奏だったに違いない。

「紅茶、こちらに置いておきますよ」

演奏中の彼に声をかけるのは少々気が引けたが、紅茶が冷めるのも良くないと思い、わたしは小さな声で彼に話しかけた。ほんの一瞬だけ演奏を止めて、ルーファウスは「ああ、ありがとう」と礼を言った。

開けっ放しの窓から、冷たい風が吹き込んでいる。重く沈んだ雲のせいで、まだ昼間だというのに、すっかり辺りは暗くなっていた。そろそろひと雨来るかもしれない。ルーファウスの体に障らぬよう、窓は閉めておくべきだろう。

わたしは彼の演奏の邪魔にならぬよう、そっと窓辺に近づいた。ロッジから見える、クリフ・リゾートの豊かな森林は、何度見ても見事なものだった。ここでの生活は、まるで別の世界に来てしまったかのような錯覚を起こす。ミッドガルの枯れた大地は、草の一本が生えることすら許さなかった。

ルーファウスは音楽を好んだ。特に彼は、ピアノの旋律を愛していた。かつての社長室ではよく、優雅なピアノの音色を聴くことが出来た。任務で呼び出されたわたしは好奇心に負けて、たびたび「この曲はなんという名前でしょうか」と尋ねたものだった。仕事中にも関わらず、ルーファウスは丁寧に曲名を教えてくれた。面倒そうな素振りを見せることはなかった。それは楽しそうに、作曲家やら曲が生まれた経緯やら、果ては演奏時のコツに至るまで。雇用主と雇用者に過ぎなかったわたし達は、ピアノの旋律をきっかけに少しずつ歩み寄った。わたし達は言葉にこそしなかったけれど、きっと互いを大切に思っていた。もっと知りたいと、そう思っていた。自惚れではなく、わたしはルーファウスに気に入られていたのだと思う。自室には純白の美しいグランドピアノがある。少し古いが、音は良い。いつかお前に教えてやろう。だなんて、そんな口約束を交わすほどには。

ルーファウスがピアノを嗜むようになったのは、彼の父親がきっかけだろう。今は故人であるプレジデント・神羅もまた、ピアノの音色を好んでいた。ルーファウスとプレジデント双方を知る者は、「これもまた、遺伝子の不思議だな」と笑ったものだった。この親子の仲が良好でないのは、神羅カンパニーの社員なら皆知っていた。ルーファウスは決して認めようとはしないだろうが、彼の音楽の好みはプレジデントと非常に似通ったものだった。

クリフ・リゾートにあるルーファウスのグランドピアノは、かつての荘厳さも優美さもすっかり失ってしまっていた。メテオとホーリーの衝突により、すっかり瓦礫の街に姿を変えてしまったミッドガルの、廃材の山となった彼の自室に、辛うじて残っていたグランドピアノは、レノとルードがどうしてもとクリフ・リゾートへ運んできたものだった。それは病に伏したルーファウスに、少しでも元気になってもらいたいという、彼らの想いに他ならなかった。わたしは、このピアノが運ばれてきた日のことをよく覚えている。車椅子に腰かけたルーファウスは、ほんのり眉を下げて「ありがとう」と礼を言った。僅かに震えた声色に、わたしは彼が泣いているのかと、そう思ったのだった。

突然、ピアノの旋律が止まった。割れ鐘を叩くようなひどい音が、ゆったりとした空気を裂いた。

「社長!」

鍵盤に体を預け、ルーファウスは苦しそうに胸を引っ掻いていた。口元から滲む黒い膿は、星痕病の症状のひとつだ。まるでタールのように粘ついた液体が、ルーファウスの手を汚し、鍵盤を黒く染める。ぼたりと粘ついた膿は、やがて糸を引いて床に落ちた。

「…くそ、」

ごほごほと大きく噎せながら、ルーファウスは悪態をついた。水気を含んだ咳が、彼の気管をひどく苦しめているのは明白だった。ルーファウスは怒りのままに、両腕を鍵盤に叩きつける。旋律とは到底言い難い音の塊が、穏やかだった部屋の空気をいっぺんに変えた。

「社長、お身体に障ります」
「くそ…お前も、お前もだ!」

荒い吐息を吐き出しながら、ルーファウスは尚も鍵盤を叩き続けている。食いしばった歯の隙間から、赤い血が滲んでいた。首に巻いた白い包帯に、彼の口元から滴り落ちた黒い膿が、幾重ものすじを作っていた。

「ルーファウス!」

わたしが彼の名前を呼ぶと、ルーファウスは鍵盤から身体を離した。そして、黒い水溜りとなった膿を睨み付けていた顔を、重たげに持ち上げる。ルーファウスの顔は、悲壮に歪んでいた。吹き出た脂汗が彼の額から流れ落ちて、水溜りに落ちた。わたしは一瞬動揺したのち、すぐにルーファウスを車椅子に座らせようとした。ぱん、と乾いた音がして、わたしの手は空を切った。なにが起こったのか、すぐには分からなかった。揺れるルーファウスの薄青い瞳に、驚いたわたしの顔が映っている。手のひらの痛みを自覚して、ようやっとわたしは彼に拒まれたのだと悟った。

わたしは興奮しているルーファウスはそのままに、汚れた鍵盤をハンカチで拭おうとした。グランドピアノは、彼が大切にしていたものだったからだ。

「触るな!」

わたしは、ルーファウスの制止の声に耳を貸さなかった。

「頼む、頼む…触るな…」

力ない指先が、わたしの服の裾を引っ張る。わたしは鍵盤を拭う手を止めて、ルーファウスの方へと振り返った。もう一枚持っていたまだ綺麗なハンカチで、汚れたルーファウスの口元を拭った。ルーファウスの体は、ひどく震えている。

「お前まで居なくなってしまえば私は…」

星痕病は、こんなことでは罹患しない。分かっている。分かっていてもルーファウスはひどく怖がった。衰弱してゆく身体を、朽ち果てようとする命を、手のひらから溢れてゆこうとする大切なものたちを。けれど聡明な男は、普段表にそれを出す事は決してしなかった。常に柔らかい笑みを湛えて、全てを受け入れ、また見守るような慈悲深い眼差しを仲間たちへと向けていた。そして彼自身が求めて止まない、世界の復興のため、苦力を尽くし続けていた。

ルーファウスはわたしの唇に、ゆっくりと視線を這わせた。そして己の口元に手をやり、付着したを膿と血を乱暴に親指で拭った。何かを訴えようとしたその視線は、何を伝えることもなく、再び鍵盤に向けられた。

ルーファウスはゆるゆると姿勢を正し、グランドピアノに向き直った。そして、白鍵に着いた黒い膿を乱暴に服の袖で拭った。伸びた黒色が、純白の袖に染みをつけた。それを気にすることもなく、男は鍵盤に指をかけた。以前はもう少し、肉付きの良かった指が白鍵の上を踊る。ルーファウスの美しい指先が、黒く汚れたグランドピアノで、調子はずれのジムノペディの第一番を奏でた。

わたしは、かつて彼から聞いたこんな話を思い出していた。

「ジムノペディは全部で第三番まで存在する。そのうちの第一番が最も有名なジムノペディだ。演奏のコツは、“Lent et douloureux”ーーゆっくりと、苦しみを持って」

自信に満ち溢れていた頃の、ルーファウス・神羅の姿が蘇る。何時ぞやのルーファウスは、この曲を好んでいるとわたしに告げた。


──間違いなく、今この瞬間の“ジムノペディ”こそ世界で最も美しい演奏だった。








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