涙を拭う
ある夏の夕暮れ。確かそれは5年前だったろうか、それとも4年前だったろうか。記憶は定かではない。とにかくその5年だか4年だか前の夕暮れに、俺はひとりスーパーマーケットで立ち尽くしていた。視線の先には玉葱ーーひとつ58ギルと書かれているーーが山のように積まれている。
「カレーを作るから、材料を買ってきてくれ」とルードに渡されたメモには、数量の類は書いてなかった。カレー二人前って、玉葱は一体いくつ必要なんだよ、と。てんで見当もつかない。一つじゃ少ない気もするし、かと言って二つも要るだろうか。さらに言えば、バラで二つ買うよりも三つがセットになっている方を買った方が安い、というのも理解しがたい。一体全体、どっちを買うのが正解なんだ?
「ルードは電話に出ねえしよ」
俺は軽く舌打ちをして、玉葱が三つ入った袋を買い物カゴに放り投げた。少なくて足りないよりは、多い方がいいに決まっている。結局、じゃがいもも人参もすべて同じ理論で多めに買った。
今思えば、これが全ての始まりだったのだろう。ただし先に言及しておくが、俺がカレーの材料を適量買っていたとしても、いずれは彼女に惹かれていたに違いない。ただ遅いか早いか、その程度だろう。
「何人前作らせる気だ」と眉を潜めるルードを横目に、俺はいそいそと買ってきたばかりの缶ビールのプルタブを引っ張った。そして溜息をついている相棒の手にも缶ビールを握らせて、無理矢理に乾杯をする。こんな時でもどんな時でも、ルードと俺は酒を持ったら乾杯は欠かさなかった。俺はキッチンに広がった大量の材料に「すまねえな」と笑って、後輩たちに電話をかけた。これから大量に生産されるであろうカレーを消費する人間は、多い方がいい。しかしこの日はたまたま若手のタークスが全て出払っており、運良くルードのカレーにありつけたのは、ちょうど任務を終えたナマエだけだった。
「何でまたカレー?」
連絡をしてから1時間も経った頃、すっかり出来上がったカレーを目の前にして、ナマエが不思議そうに問いかけたのを覚えている。
俺は「気分だぞ、気分」と答えて、彼女の手にもアルミの缶を持たせた。「タークスに、カレーに、乾杯!」と声をかけると、鈴を転がすような声でくすくす笑うナマエと目があった。
彼女は三日月のように眼を細めて、じっと俺を見つめていた。それは射抜くような視線とは程遠い、日常に慈愛を抱くような表情だった。俺の鼓動は突然駆け足で走り出し、今にも左胸から飛び出さんばかりに高鳴った。
きっとこの時、出口の見えない深い深い谷底へ突き落とされたのだろう。俺は、熱を持つ頬を誤魔化すようにしてビールを喉の奥へ流し込んだ。直後、気管に入り込んだ炭酸に酷くむせたことは今でも鮮明に覚えている。
「何でまたカレー?」と、あの日と同じ疑問を口にしたのは彼女では無かった。クリフ・リゾートの小さなロッジの、これまた小さいキッチンには、所狭しとカレーの材料が敷き詰められている。「気分だよ、気分」と告げた彼女の眼はあの日と同じように、綺麗な三日月のようだった。
「あとは材料が、カレーだから?」
「何で疑問形なんだよ、と」
俺は目の前に転がっているじゃがいもを一つとって、しげしげと眺めた。丸く張ったじゃがいもは、彼女ご推奨の八百屋から買い付けたもの…らしい。正直じゃがいもなんてどこで買っても一緒だと思う。俺はそれをさっと水で洗ってから皮を剥いた。使い込まれたピーラーは錆ひとつ無く、彼女がよく手入れをしているということを暗に示していた。
「ちゃんと芽をとってね」と言う彼女の指示に大人しく従って、じゃがいもの芽をぐりぐりと丁寧に取り除く。春の陽気を待つ強かな根だろうが、タークスのエースには勝てやしまい。
あっという間に皮を剥かれ、あげく芽も奪われてしまったじゃがいもは素っ裸も同然で、ある種の艶かしさすら感じる。身ひとつでまな板に横たわっているじゃがいもに包丁を入れると、トントンと心地の良い音がキッチンに響いた。
刃物を持つのは随分と久しく感じる。俺はあまり料理はしない質なので、刃物といえばまずナイフや剣を思い出す。刃物で人間を刺すというものは忘れようにも忘れられない感触で、少なからず俺自身を蝕んでいた。皮膚と骨を貫くそれは柔いとも硬いとも言い難く、吹き出す血は白いシャツを真紅に染める。手に残る違和感も、重たくなったシャツも鼻につく生っぽい香りも、不快そのものだ。
しかしきっと、その不快感こそ後悔に他ならない。人は人を殺してはならない。そんな当たり前の事すら分からなくなって麻痺してしまうほど、かつての俺たちは摩耗していた。
俺がカレーの材料を買い過ぎてしまったあの日を皮切りに、俺とルードとナマエはしばしば食卓を囲むようになった。大抵は任務帰りにルードが料理をして、酒を飲み交わす。まれにシスネや他の若いタークスが混ざる事もあった。
ルードの作る飯は皆一様に手が込んでいて、そこらの飯屋に勝るとも劣らない出来栄えだった。うまい飯にうまい酒、それを気のおけない仲間と共に味わって、時には仕事の愚痴をこぼしたりして。日付が変わる頃にナマエを家まで送り、翌日オフィスでまたナマエに会う。そんな当たり前の日々を懐かしくも恋しく思う。
任務で忙しく駆け回り、色恋ごとにうつつを抜かす暇など無いはずではあったが、マンションの更新時期にナマエの家の近くに引っ越してしまうほどには、俺は彼女に傾倒していた。少しでも彼女と長くいたい。ふたりきりでいたい。そんなやましい下心があった事を彼女に言えるはずもなく、俺は「へえ、レノ引っ越したんだ。家近くなったね、偶然!」と笑顔を向けるナマエに、そわそわとした居心地の悪い気持ちを味わった。
ニンニクの香りが鍋の上に立ち込める。刻まれた小さな粒は、油の上で踊るように跳ねている。この小さい粒は、見かけによらず強い芳香を放つ。食欲を唆るその香りは、なんでだろうなあ、翌日には酷い匂いになっちまうモンだ。
ニンニクといえば、忘れられない出来事がある。
ナマエには、彼氏がいたことがあった。もちろん、俺じゃない。神羅のごく一般的なサラリーマンだったその男とは、何度か本社内ですれ違ったことがあった。とりたてて特徴も無い、本当に普通の男だった。
確かその日もいつもと同じように、ルードの家でだらだら飯でも食うかって話になったのだが、ナマエの様子は少し変だった。
「ニンニクは使わないで、お願い!」
キッチンに立ち、トマトを片手に持ったルードに向かって、ナマエが声を張り上げた。彼女は戸惑うルードを置いてけぼりにして、もじもじと両手を擦り合わせながら「明日、はその…彼と会う予定だから」と頬を染めている。
「…そうか、なら…ニンニクは良くないな」
俺の方をちらりと見たルードは、心なしか気まずそうに口を開いた。ナマエのありがとう、という弾んだ声が耳にこびりついて離れない。ニンニクの匂いなんて、大したことないだろ。そんなちっぽけな事でお前に愛想尽かすような奴、別れちまえよ。そう喉元から出掛かって、あわててビールで押し戻した。ニンニクの匂いすら気にしてしまうほどの気持ちか。けどよ、ありのままを受け入れられないような相手との関係なんて、長続きはしないんじゃねえのか?当時の俺も今の俺も、その意見は曲がることもなく。ただ、男に対して一生懸命身なりに気を使うナマエは純粋に可愛らしかった。それはもう、憎らしいくらいに。
確かにこの瞬間、俺は一般社員の男に敗北した。そして今日まで、彼に勝る日は来なかった。きっとこれからも、来ないだろう。
男は、ナマエを置いてライフストリームに還ってしまった。
挽肉を火にかけているナマエは「レノは玉葱をお願いね」と、大きな玉葱をまな板に乗せた。俺は乾いた薄い皮をひん剥いて、薄緑がかった滑らかな身に包丁を差し入れた。しばらくするとツンとした独特の香りが眼と鼻腔を鋭く刺して、一筋の涙が頬を伝った。それは生理的なものに過ぎなかったけれど、確かに涙だった。思わず包丁を置いて指先で拭う。ほんの一滴ぽっちの透明な滴は、拭った側から指先へ広がって消えてしまった。自身の涙を見るのは、もう何年ぶりだろうか。
男が死んだのはよく晴れた夏の日のことだった、らしい。らしいというのは、俺は直接奴が死ぬのを目の当たりにしたわけではなかったからだ。訃報は、ツォンさんの口から告げられた。どうやらナマエと男の関係を、ツォンさんも知っているらしかった。
「そうですか」
人が死んだ…それも、恋人が死んだとは思えないほどに淡白な返答だった。俺は拍子抜けして、ナマエの表情を伺った。しばらくは真っ直ぐに前を向いたままだったナマエは、何事も無かったかのようにしてデスクに戻った。何だよ、お前。恋人が死んじまったんだぞ、と。もっと何か無いのかよ。俺は確か、そんなことを考えていたと思う。
モニターをじっと見つめていたナマエの頬を、ぼろりと大粒の涙が伝った。
声もなく、音もなく、ナマエは静かに涙を流していた。いつも通りオフィスに座り、いつも通りに真っ直ぐにモニターを眺めるナマエの瞳は、湖の水面のようにぐらぐらと揺れている。オフィスの薄暗い照明が、満ちた月のように湖面をぼんやりと照らしていた。
男が死んだのならば、と一瞬でも思わなかったわけではない。むしろ、ツォンさんの口から訃報の知らせを受けたときに、俺の心臓は大きく跳ねた。馬鹿だな、俺はタークスだ。どんな手を使っても、好機はモノにするんだよ。そうだ、これは紛れもなく好機だ。
けれどナマエの涙を見て、そんな考えは吹き飛んでしまった。酷い自己嫌悪に襲われた。醜い思考に嫌気がさした。俺はなんつーこと、考えてるんだよ、と。ぎゅっと目を瞑り、静かに落ちる滴の音に耳を澄ませた。
流れ落ちる涙を美しく痛ましいと思えばこそ、俺は拭うことが出来なかった。そんな権利、俺には無かった。けれど手を伸ばさずにはいられなかった。伸ばした指先は宙を漂い、気まずそうに引っ込められた。ナマエはそれに、気が付きもしなかった。
タークスは死と隣り合わせである。任務はいつ如何なる時でも死の危険性を孕み、俺たちは否応なく死を意識して生きていた。殺めた数は両手には足りず、指先から腕のあたりまで酸化した血で黒く染まっている。俺たちは、殺めるからには自らも覚悟を決めなければならなかった。生を諦め、ライフストリームへ還る覚悟だ。つまり、死を受け入れる覚悟だ。
普通の人間ってのも、案外簡単に死んじまうものなんだな。
男は死とはほど遠い世界にいた人間だった。毎日オフィスで書類と数字を睨んでいた。戦場に赴き、手を真っ黒に染め上げた俺たちとは違かった。死に背中を預け、明日にも二度と会えなくなるような、そんな俺たちとは。
〇〇
「ちょっとレノ、こんなにみじん切りにして」
手元を見ると細かく刻まれた玉葱が、新雪を思わせるような白さでまな板いっぱいに広がっていた。どうやら俺は、考え耽っている間に玉葱を丸々ひとつみじん切りにしてしまったらしい。そりゃあ涙も出るわな、ともう一度目元を指で拭った。
「わ、悪い」
「何か考え事?」
「いや、何もないぞ、と」
本当?と訝しむナマエへ適当に言い訳をして、もう一つの玉葱を手にとった。今度は慎重に乱切りにする。すでに挽肉を炒め終えたナマエが、みじん切りにした玉葱に手を伸ばした。クミンシードの香ばしく甘い香りが、ニンニクの香りに混じってふわりと広がる。水気をたっぷりと含んだ玉葱が、薄く伸ばされた油を弾いて大きな音を立てた。男が死んでからもう3年もの歳月が経とうとしている。こうやって並んで料理をするようになるほどには、タークスにも平和な日々が訪れていた。
命を奪う手は、やがて命を紡ぐ手になるのだろうか。ナマエの下手くそだった料理の腕前も、こうやってスムーズにカレーを作ることが出来るようになるくらいには上達している。まあこれについては、講師であるルードの技術の賜物かもしれないが。
神羅カンパニーという母体を失った中小企業は、次々と息絶えた。神羅建設も、シンラ・テクノロジーも例外無く。そもそも神羅カンパニーがこれだけ小さく纏まってしまったのだ、無理も無い。けれど幾つかの企業は、神羅の名を捨てて再び活動を再開しているという。これはきっと、ある種の親離れに近いのだろう。彼らは神羅という親元を飛び出し、たった今、一人立ちを始めたところだとも言える。
以前ルードが、考え事をしたいときは料理をするのが最適だと言っていたことを思い出す。なるほど確かに、料理は考え事をするのに向いている。細かい作業に没頭しながら、俺は柄にも無く様々な考えに耽っていた。誰かが死ぬこと、生きること。答えは出ない。当然だ。簡単に答えが出て良いようなものではない。
みじん切りにした玉葱を火にかけつつ、彼女は「もしかすると、みじん切りの多い方が美味しいかもね」だなんて俺に笑いかけた。ナマエの細くて白い腕が、慣れた手つきで木べらをまわす。張りのあった玉葱は、次第にくたくたの飴色へと姿を変えた。次はじゃがいも、そして人参を。手際よく野菜を鍋に入れる彼女に、俺は思わず感嘆のため息を漏らす。
「ナマエは料理、上手くなったぞ、と」
「褒めるだなんて珍しい」
「そこは素直に喜べよ」
「ま、もう居酒屋もレストランも無いもんね」
「…そうだな」
生きることや死ぬこと、そういったことを考えるたび、七番街プレート支柱爆破の任務について思い出す。“思い出す”というのは、少し違うかもしれない。俺は一日たりとも、あの日を忘れた事はない。俺の両腕は、もうまともに見ることが出来ないくらいに真っ黒だ。
七番街は住宅街だった。駅の近くには美味しい居酒屋やレストランが何軒かあって、俺も彼女もよく利用していた。多くの営みが鉄の板切れの下に消えてしまった。居酒屋も、レストランも、思い出も、思いそのものも。
「灰汁が出たら取っておいてね」
気が付いた時には既に鍋に水が張られており、鍋底からはふつふつとあぶくが湧いていた。先ほどまで、まな板の上で無防備に刻まれていた野菜たちは、すっかりカレーになる準備が出来ているようだった。俺も料理が上手になったもんだ。ミッドガルに居た頃は、一生料理なんてしないと思っていたのだから。ナマエが料理を覚えたいと言うから、しぶしぶ付き合っているうちに俺もちょっとずつ出来る事が増えてきて、今では簡単な炒め物くらいなら俺ひとりでも作る事が出来る。普段なら一蹴するような面倒臭いことだって、ナマエとの時間が取れると思えば、大して苦には思わなかった。いやはや、全く。我ながら何とも女々しい下心だな、と。
俺はよく沸騰した鍋の火を弱火にして、言われた通りに灰汁を掬う。白くてふわふわした灰汁は、取り除かなければならないほどに邪悪な存在には到底思えない。俺の考えを見抜いたのかそうでないのか、ナマエは「取らないと口当たりが悪くなるよ」と付け加えた。
「はいはい、と」
部屋の片隅に置いてある古びたジュークボックスから、掠れたシャンソンが流れている。妙に聞き覚えのあるその曲は、“薔薇色の人生”を語っている。古い映画の挿入歌だったろうか。そんな話をいつかのどこかで耳にした。
ああ、確かそうだったな、と思い出す。支柱を爆破する僅か3日前、俺は彼女と共にこの歌を聴いていた。あの日もジョッキ片手に俺たちは、琥珀色の液体を喉奥へと流し込んでいた。「レノはさ、タークス以外の人生って考えたことある?」と何の含みもなく、ナマエは俺に疑問を投げかけた。ナマエの隣は空いている。男が死んでから、1年ほど経った頃だった。
「無いぞ、と」
フライドポテトをひとつ、口の中に放り込みながら俺はその問いに答えた。タークスは俺の居場所だった。タークス以外の人生など、考えたこともなかった。
「だよね、わたしも」
ただ、そう言って笑うナマエの人生は欲しいと思った。タークスであり続ける俺とナマエ。その先を見たいと思った。1年前にぽっかり空いた隙間に入る余地が無いか、俺はずっと探していた。青臭い感情だ。酔った勢いで思いを告げようとするほどには、俺も血迷っていたに違いない。
「なあ、もう彼氏はつくんねえの?」
欲しいと言われれば、手を挙げようと思っていた。俺なんて、どう?と軽く言ってしまおうと思っていた。俺はタークスで、いつ死ぬかわかんないけど。でもよ、俺は強いから。お前を置いては死なねえよ。そんなキザな台詞を用意したりして。
「…うん、今はいいかな」
「そうかよ、と」
悲しげな横顔を、まともに見ることは出来なかった。未だもって、彼女が男の存在を重く引きずっていることは明白だった。勝てねえな。勝てっこねえよ。どうやったっても勝てねえんだよ。何で死んじまったんだ。何で、よりにもよってこいつを置いてよ。なけなしの勇気は、振り絞る前に粉々になった。それでもやはり、諦めることは出来なかった。
La vie en roseのゆったりとした調べが、店内を甘ったるく包んでいる。うるせえ、何が薔薇色だ。そんなことを口に出来る筈もなく。店内の暖かい空気とは裏腹に急速に冷えていく体温を感じながら、少しでも紛らわそうとしてビールを煽った。
結局あの日以降は勇気も出ず、今日まで思いは燻ったままだ。忙しいからと言い訳をして、断られるよりは今の方が良いと自身に言い聞かせて。こうやってふたり一緒にいれる一瞬が有りさえすれば良いのだと、いつ死ぬか分からない己が身に、そう思うことにしていた。
タークスは死ぬまでタークスだ。そう思って生きてきた。俺は死ぬまでタークスだ。そしてナマエも。しかし状況は刻一刻と変化し、俺たちはあの頃考えもしなかったような日常に包まれている。朝日を浴びて目を覚まし、月とはろくに挨拶も交わさず眠りにつく。あれからたくさんの出来事があった。全てが全て、良い方向へ転んだわけではない。けれど、生きている。メテオの後も、俺たちは生きている。タークスはおろか、神羅カンパニーそのものの在り方が大きく変化しようとも。
「なあ」
声をかけると、当たり前のように返事が返ってくる。ナマエはレモンを切って、その瑞々しい果実を水の入ったデキャンタに沈めているところだった。ルゥを入れた鍋から、香ばしいカレーの香りが漂っている。カレーとは不思議なもので、ルゥを入れるともうカレーなんだよな。俺はぐるぐると、焦げがつかないようにそれをゆっくりとかき混ぜる。
「薔薇色ってどんな色なんだろうな」
「薔薇色って、バラの色じゃないの?」
「ま、そうだよな、と」
眩しく差し込む陽光に、ナマエと生きる未来を夢想する。俺の心をとらえた人との幸せな日々を。あの日拭えなかった涙は、今は跡形もない。たくさんのものを背負って、俺もナマエも生きている。今からでも遅くないだろうか。ぽっかりと空いたその席に、俺を入れてはくれませんか。
「たくさん出来すぎちゃったから、みんなに持って行こうか」
ナマエが持っていたお玉でコンコンと軽く鍋の縁をたたいた。そうだな、そうしよう。きっと皆喜ぶだろう。食の細い社長も珍しくたくさん食べるかもしれない。全てを蕩かすようなナマエの笑顔にあてられて、俺は彼女の方へ腕を伸ばした。もっと見たい。ナマエが見たい。ナマエと歩む人生を見たい。生きたい。ナマエと共に生きたい。血濡れた腕で、小さな肩をそっと掴んだ。
「なあ、もう彼氏は作んねえの?」
俺はあの日と同じ台詞を吐く。ほんの少しの可能性があるのなら。もう、随分待った。でもまだまだずっと、待てるだろう。きっと死ぬまで、待てるだろう。だから、期待しては居なかった。…嘘だ、ほんの少しは期待していた。変わりつつある世界の中で、ナマエの世界も変わればいいな、と。
「そうだね、前向きに検討してみるかな」
俺は弾かれたように顔を上げる。少し照れた横顔は、あの日と随分違って見えた。俺は思わず身を乗り出して、彼女の頬に手を添えた。
「なあ、お友達から始めませんか、と」
それは口付けしてから言うような台詞ではないだろう。慌てて口に出したから、ほんの少し上擦っている。あの日用意していた台詞は全部、真っ白になって消えちまった。“お友達から始めませんか”だなんて、順序も何もあったもんじゃない。心臓がうるさい。バクバクと大きな音を立てて、今にも外に出て行ってしまいそうだ。
俺は彼女の隙間に、あの日空いてしまった心の隙間に、滑り込みたいと願っていた。ずっとずっと願っていた。状況をうまく飲み込めていなかったナマエの頬が、ぱっと薔薇色に染まった。ああきっと、それは皐月に咲く、艶やかで美しい桃色のバラ。
返事は返ってこなかった。けれど、再び唇に柔らかな感触が落ちた。
ナマエの編む人生が、薔薇色でありますように。そして願わくば、ナマエの涙を拭う指先が自身のものでありますように。
「もうすっかり友達だと思ってたんだけどね」と笑ったナマエの三日月のような瞳の奥から、一滴の涙が溢れ出た。