ビター・ブラック・チョコレート


「さて、言い訳くらい聞いてやる。ただし、聞くだけだがな」

私を見つめるツォンの瞳は、まるで氷のように冷たい。彼が放つ圧倒的な存在感は、大きな黒い革椅子にどっかりと腰を下ろしているにもかかわらず、立ちすくむ私を見下ろしているような錯覚に陥らせている。わたしはヘビに睨まれたカエルのように、指一本どころか視線を動かすことすらままならない。呼吸まで忘れてしまいそうになってあわてて息を吸うと、喉からかすれた音がヒュ、と漏れた。

ーー彼は今、物凄く怒っている。

コツコツと指で椅子のアームを叩く音が規則的に鳴り響いていた。彼は普段と変わらない黒いスーツのいでたちで、グローブひとつ外していない。真一文字に結ばれた唇は少し引きつっており、何かを抑え込むようにして歯を食いしばっているということが見て取れた。

「…ツォン」
「何だ?」

振り絞るようにして出した声はみっともなく震えていた。そんな事は気にも留めていない様子の彼の、刺すように鋭い声色にぐっと喉の奥が閉まる。…きっと、ここで黙り込んでしまうのは悪手だろう。いつもチクチク小言を言ってくる程度の彼がここまで怒りを剥き出しにしている理由に、心当たりはあった。ただ、確信はない。あの場に彼は居なかったはず。

「あの、」

わたしは渋々“おそらく彼の怒りの引き金になったであろう出来事”について口を開いた。




ーー時は昼休みのリフレッシュフロアに戻される。今、ミッドガルでは、意中の異性に愛の告白とともにチョコレートを贈る、と言った趣旨の行為が流行っている。神羅カンパニー内も例外ではない。男女の境なく、その行事は日頃の感謝やら義理やらを交えて結構、いやかなり大々的に行われていた。

「ずっと前から僕、あなたのことが好きでした。…これ、受け取ってください」

社内のカフェテリアでの出来事だった。人もまだ多い時間帯に、彼ーー営業課の2年目の男の子だった。わたしは何度か彼と仕事をしたことがあるーーは大胆にもわたしにチョコレートを差し出した。それも、盛大な愛の告白を添えて。状況をうまく飲み込めず、思考まで固まってしまったわたしの手に、きちんと包装されたチョコレートを握らせて、矢継ぎ早に彼は続けた。

「返事は、待ってください。…1週間後の出張、僕と一緒ですよね?その時がいいです」

それでは、とだけ言い残して彼は足早にその場を去った。こんな目立つ場所であんなに盛大に告白したというのに急に恥ずかしくなってしまったのだろうか、わたしよりも3つくらい年下の男の子は顔を真っ赤にしていた。呆然として彼を見つめるわたしは、隣で一部始終を見ていた同僚がからかう声でやっと我に返った。

「顔真っ赤。可愛い子だったね?」
「うん。…そうだね」
「彼氏いないんでしょ、いいんじゃない?」

“彼氏がいない”。この言葉は正しくはない。彼氏はいる。いるには、いる。ただ、その関係は公にはされていない。わたしは心の中で大きなため息をついた。

確かに、可愛い男の子だった。顔立ちも整っていて、きっとモテるんだろうな。あんなにも真っ直ぐ気持ちをぶつけられるのは少し気恥ずかしいかったけれど、素直に嬉しいと感じた。きらきらと光る真剣な瞳に、心が少しだけ動いたのもまた事実だった。“もしも彼と恋人同士になったらどうなるだろうか?”そんなことをつい無意識下で考えてしまうほどには、わたしは彼に心惹かれていた。きっと、少し粧し込んだわたしは彼の隣に並んで歩く。はにかみながら手を差し出す青年は、日向の道がよく似合った。隠れるような関係ではなく、たくさんの人がわたしたちを祝福している。その手を取ってわたしは“彼が何処で何をしているのか”だなんて、気に病むことすらないのだ。…そこまで考えて、わたしはかぶりを振った。ほんの一瞬でもそんな事を考えてしまった自分に、ひどい嫌悪感を覚えた。

どうやって断ろうか。何と言えば彼を傷つけないで済むのだろうか。そうやって午後いっぱい悩んでいるときに、わたしのスマートフォンがブルブルと震えた。黒い画面にひとつ、白いウィンドウが見える。どうやら、新しいメッセージを受信したらしかった。何気なく手にとって息を飲む。心臓がうるさく波打つのが分かった。

それは珍しい、ツォンからの誘いのメッセージだった。まるで狙っていたかのようなタイミングに、思わず生唾を呑む。後ろめたい気持ちさえなけば、飛び上がって喜んでいたのに。何もかも見透かされたような頃合いに、チクチクと胸が痛んだ。

ツォンの自宅は神羅カンパニー本社ビルに程近いマンションの1室だ。たぶん、彼の自宅はこの部屋だけでない。彼の所属する総務部調査課は、名前こそ社内でも知れ渡っているような課ではあるけれど、職務内容を詳しく知る人は少ない。噂によると“相当ヤバいこと”を請け負っているとか、なんとからしい。わたしは彼との関係はもうそこそこ長くなったが、彼が具体的にどのような仕事をしているかについて、ひとつとして確かなことは知らない。

彼はわたしのことを何でも知っていて、わたしは彼のことを何も知らない。神羅カンパニーで何をしているのかはおろか、生まれた日や出身地、両親がどんな人かさえ。

彼に貰った合鍵で、ガチャンと鉄の扉を開いた。生活感の無いシンプルな部屋は、彼の生き方そのものを思わせる。

仕事を終えて彼の部屋に訪れたわたしを待っていたのは、黒い1人がけの椅子に深々と腰掛け、苛立たしげにわたしを睨みつけているツォンだった。




ーー話は、冒頭に戻る。

「それで?」

ひと通り昼間の出来事を説明し終えたわたしに向けて、彼は短く吐き捨てた。

「それで、って…」
「大層嬉しそうだったな」

嬉しくなんてない、とはっきり言えるほど、やましい気持ちがなかったわけではない。昼間思い描いた情景が脳裏に過ぎる。寒々しい冬の夜を思わせるツォンは、春の日向みたいな彼とは対照的だった。

「あなたが何をそんなに怒ることがあるの?」

しまった、と思った時にはもう遅かった。おそらく、わたしは明らかに悪手を取ってしまったのだ。まるで“信じられないものを見た”とでも言いたげな彼の表情を受けて、わたしはきゅっと両眼を瞑った。

何故怒ってるかを尋ねることは、非常にリスキーな選択だったと言える。けれど何に対して彼が怒りを感じているか、分からないまま謝罪をするのは嫌だった。わたしだって彼に言いたいことのひとつやふたつくらいある。…けれど、こんなにも感情を剥き出しにしているツォンを見るのは初めてだ。いつも、例えどんなに気に入らないことがあったとしても、彼の表情は凪いだ海のようだというのに。

「…その」
「分からないなら、いい」

制止の声に息が詰まる。部屋の温度は氷点下を下回ったようだった。だのに、目頭は煮えるように熱い。

わたしがほかの男に告白されたことで、ツォンは心を大きく乱している。そのことだけは、痛みを覚えるほど重たく沈んだ空気に、察しの悪いわたしにもよく分かった。分かったけれども。

きゅ、と唇をかみしめる。何かを噛むか抓るかしていなければ、煮えた滴が溢れてしまいそうだった。

立ち上がった彼の腕が、迷いなくわたしの方へ伸ばされた。わたしはその仕草に、思わず肩を竦めてしまった。びくりと震えた体を、きっと彼は見逃さなかったはずだ。目元を優しく撫でる指にはっとして、彼の方に視線を向ける。ツォンは、酷く悲しそうな顔をしていた。

「俺意外にうつつを抜かすな。勘違いさせるような視線をやるな。容易く好意を抱かれるな。ここまで言えば充分なのか?お前は、俺が何も知らないと思っているのか?」

激しい感情に、彼の瞳も揺れている。チョコレートのような茶褐色の瞳が、ゆらゆらと陽炎の面影を残しながらじっとわたしを見つめている。肩を掴む腕が少し震えて、そして離れた。今度は脱力したように、彼は再び椅子に腰掛けた。

わたしだって、わたしだって。そう思って飲み込んだ。少なくとも今ここで、わたしの気持ちは引き合いに出すべきではなかった。

ツォンのことは好きだ。彼も、わたしのことは憎からず想ってくれているようだった。今彼が煮詰めている感情が嫉妬なのだとしたら、きっと。それでもわたしは彼のことをほとんど何も知らなかった。

いつか、全てを手放して彼を選ぶことが出来るのだろうか。彼は、全てを手放したわたしの手を取ってくれるのだろうか。

噛み締めた唇から、鉄の味がする。わたしの思考も、おそらくは正気ではなかった。じっと見つめた床には、数滴の湿った点が出来ている。

彼はしばらく何も言わず、両目もぐっと閉じていた。やがて深くなった眉間のしわに指を伸ばして、ぐりぐりと解してから声を発した。

「…俺が悪かった。だがお前も悪い」

深い息を吐く音が、しんと静まった部屋に響いた。

「チョコレートは俺にくれないか。それで、許してやる」

それで許してやるから。まるで自身に言い聞かせるかのように小さく声を絞り出して、彼はわたしから視線を逸らした。視線の先には黒いチョコレートの小箱がひとつ。まだ少し不機嫌な彼の指先は、トントンと硬い木の音を響かせている。

「咥えて、そのままこっちに」

震える手で包装紙を破り、チョコレートをひとつ咥えた。赤いハートの、きれいなチョコレートだった。緩く手招きする彼の方へ、吸い寄せられるように近付いた。手を引かれるまま、彼の膝の上に腰を下ろす。ぬるり、と自身の唇の熱でチョコレートが柔く溶けた。大きな手がわたしの頭に添えられる。ゆっくりと彼の唇が咥えられたチョコレートを捕らえ、そのまま口の中に赤い塊が吸い込まれた。

ぐちゃ、とした感触を感じて思わず顔を仰け反らせる。チョコレートごと、唇を喰まれている。ぼたぼたとおちる赤い滴は、唾液に混じって薄くなっている。私の唇から溢れたそれは、彼の真っ白いシャツに、薄い花を咲かせた。

喉の奥がカッと熱くなるような痛みを感じる。甘いチョコレートが、わたしをじわじわと責め立てる。柔らかいそれは彼の歯によってぐちゃぐちゃにされて、そのほとんどは彼の口の中だ。大きさの違う舌が名残惜しそうに離れる。ごくりと大きく、彼の喉が上下した。

「あと、5つだ」

ほんの少しだけ楽しそうに唇を歪めた彼の視線は鋭いままだ。背中にぞくぞくと、何か恐ろしいものが這い上がってくるような感触がする。茶褐色の瞳が、わたしを捕らえて離さない。

問題は依然解決に向かっている気はしない。彼が本当は何者で、どういった仕事をしているかなんて、やっぱりわたしはひとつも知らない。どう考えても、日向の彼と関係を持った方がいいに決まっているというのに。

わたしは、日向の彼から貰ったあたたかな可能性をひとつずつ、冬の夜に明け渡す。わたし自身は彼のものであると自覚させるように、チョコレートはふたりの熱でじわじわと溶かされた。ふたつめのチョコレートは、ほろ苦いブラックチョコレートだった。



熱を持つこの視線が、確かに震えていた手が、わたしを強く縛り付けている。許しを乞うように、わたしは彼の太い首に両腕をまわした。




__

リフレッシュフロアで見かけた、チョコレートを受け取った彼女の表情が脳にこびりついて離れない。あの時間のあの場所に、偶々だけれど俺はいた。彼女は気付いていないようだったけれど。

俺が本当の意味で彼女を幸せになど出来る日はきっと来ない。分かっている。そんなことは分かっている。だのにみっともなく彼女を縛り付け、あまつさえ縋る己の姿にどうしようもなくやるせない気持ちになった。

しょうもない嫉妬心だ。自覚はしている。けれど少し頬を染めてはにかんだ彼女を見ると、それを抑えることはできなかった。自身にのみ向けられていたはずの、熱のこもった視線が他の男にも向けられている。心臓が凍る思いだった。すぐにでも腕を引っ張って咎めたいと、そう思った。実際、すぐに行動に移してしまったが。

怒りという感情を抱くのは、随分久しく感じた。震えながら俺を見る彼女に、煮え切った頭は次第に冷える。赤いチョコレートを唇に残したままキスを強請る彼女の背に手をまわした。許すだなんて、おこがましい。本当に許して欲しいのは、組織の守秘義務に甘え何も教えず、また彼女が何も知らないことを良いことに雁字搦めにして、そのまま縛りつけようとしている自分自身に他ならないというのに。いつの間にか育っていた強い執着心を自覚して、心の中で自嘲した。震える手を隠すようにしてぎゅっと強い力で握りしめる。

確かに俺に怯えて泣いていた彼女の、目元にそっと視線をやる。涙は既に乾いて、もう跡形もなかった。ふたりの口内でぐちゃぐちゃになったチョコレートは、胸焼けするほどに甘い。

頼む、頼むから離れないでくれよ。
俺にはお前だけ、お前だけなんだ。







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