正の走性


___

とある終業後の、とある大衆居酒屋。レノは会社の同僚達と、酒の席を楽しんでいた。

レノの左隣に座るナマエが、真ん中にたっぷり盛られている枝豆を一つ、ひょいと摘み、ゆっくりと鞘を指の腹で押した。出てきた艶やかな豆は、滑るようにナマエの口の中へと吸い込まれる。続けて二つ三つと続く、流れるような一連の動作をレノは目で追っていた。

「なあに、レノ。食べる?」

視線に気が付いたナマエが枝豆をいくつか摘んで、レノの取皿に乗せた。そうじゃ無いんだけどな、と思いつつもレノは素直に礼を言った。また一口、ビールを煽る。

そして、そっと、極めてさりげなくレノは利き手をナマエに近づけた。触れるか触れないかの瀬戸際で、ナマエの利き手はビールを掴んだ。弾みで、レノの指にナマエの指が掠める。

「あ、ごめんね」

掠めた指先の感触に、心臓が跳ねた。ジョッキの水滴に冷やされているはずの指が熱く感じる。思わず上がりそうになった口角を隠すために、レノはジョッキに口をつけた。騒がしい店内に居ても、ナマエの声はよく通る。レノは、戦場だろうがオフィスだろうが、ナマエの声を聞き逃したことはなかった。

レノはこっそりと身体をナマエに寄せ、体重をほんのりかけた。気付いているのかいないのか、ナマエは気にするそぶりも見せず、同じく先輩社員のツォンと楽しそうに談笑している。2人が話をしていると、レノはよく取り残されたような気持ちになった。ナマエとツォンは所謂同期で、2人の付き合いはレノよりも数年長い。

「なんだ、姉を取られた弟みたいだぞ」
「うるせえぞ、と」

レノは唇をとんがらせて、正面に座っているルードの脛を小さく、けれど正確に蹴った。う、と痛そうな呻き声が聞こえたが、自業自得だろう。拗ねたレノの様子に気がついたツォンが、少し笑いながら口を開いた。

「レノはナマエの横だと必ず左に座るな」

思わず、ビールを吹きそうになって慌てて飲み下す。ナマエが取皿に乗せた枝豆を摘みながら、レノはツォンをじっとりと睨んだ。

「そうなの?レノ」

ナマエが小首を傾げながらレノの方へと顔を寄せる。レノは傾けていた身体を少しだけ起こして、ほとんど無くなってしまっているビールを飲み干した。

「別に、気にしたこともないぞ、と」
「そうなのか?距離が近く見えるが」
「ツォンさん!」

しっかりと顔を見なくても、正面に座るルードが一生懸命笑いを堪えているのが手に取るように分かる。レノは物音を立てずにルードの革靴を踏みつけた。笑ってんじゃねえよ。

レノのナマエに対するあからさまな態度に、ナマエは気がついているのかいないのか。飲み干したビールジョッキを片手に、ナマエが店員を呼んだ。生中ひとつ、という声にもうひとつ、と声をかぶせる。


「既視感あると思ったら、昔実家で飼ってた猫に似ていると気付いてな。普段は少し素っ気無いんだが、私が新聞を読むときに限って新聞に乗るんだ。どっしりと。」




〇〇



神羅電気動力株式会社総務部調査課。通称、タークス。そのオフィスは、零番街の神羅ビルの地下3Fに存在する。黒を基調とした無機質なオフィスは、広々とした空間ではあったが、タークスの仕事は殆どが屋外での任務となるため、構成員の姿は疎らだ。

その日、レノは軽い足取りでオフィスへと向かっていた。口元にはほんのり笑みを携えており、鼻歌でも歌いそうなくらいに機嫌が良い。レノの動きに合わせて、彼の一纏めにした赤い頭髪が尻尾のようにゆらゆらと揺れている。

レノの上機嫌には勿論理由があった。タークスのスケジュールを管理しているアプリケーションには、構成員がそれぞれ現在何をしているかを表示する機能がある。具体的な任務内容は記載されないが任務中、帰宅、社内、長期出張といった程度には分かるようになっている。主任は任務中、ツォンさんも任務中、ルードは帰宅、そして。

カツカツと革靴の音を立てて、レノはオフィスに足を踏み入れた。

「あ、レノ」

先に声をかけたのは、同じくタークスのナマエだ。彼女はレノの数年先輩の社員で、レノの“所謂好い人”だった。入り口から最も遠いデスクに複数の書類を並べて、何やら事務的な仕事をしているようだった。分厚い書類の束を片手に、今しがたオフィスに入ってきたレノに笑顔を向けている。

「珍しいな、と。今日はデスクワークか?」

白々しくレノが尋ねた。

「そう、半年間の潜入任務。覚えることがいっぱいで嫌になるね」
「ふうん」

レノはナマエの横に座って分厚い書類をそっと手にとった。書類には一人の女性の経歴や、所属、親の名前、はては交友関係などが事細かに記載されている。レノはざっと10枚ほどに目を通した。ヨレヨレの書類には、3色のボールペンでみっちりと書き込みがされている。

レノは書類を手に、先程までナマエが飲んでいたであろうコーヒーに勝手に口を付けた。少しぬるいコーヒーは、ナマエ好みの甘いカフェラテだ。

「コスタ?立地は最高だな、と」
「そこはちょっとだけ嬉しいの」
「来月からか」
「そう、だから今は最終調整中。暫くみんなに会えないのは寂しいね」

レノは返事を返さずに書類を捲った。先程までの上機嫌は嘘みたいに一変し、むっつりと書類の中身を読み漁っている。素直に寂しいと返せないレノを知ってか知らずか、ナマエが困ったように笑う声が聞こえた。

ナマエはレノの先輩であったが、腕っ節はあまり強くない。けれど、タークスとしての腕は一流で、レノはよくナマエの世話になった。任務中に酷い怪我を負った時も、真っ先に駆けつけてくれるのはいつもナマエだった。彼女はタークスであるにも関わらず、情に厚く、とても優しい。後ろめたく、非人道的とも言える任務が多いこの仕事の中で、まさしくナマエはレノの光だった。

書類に目を通していたレノはある一文を見つけて、はたと動きを止めた。

『ターゲットDに接近し、3週間以内に交友関係を築くこと。恋仲になっても構わない』

書類には、ターゲットDと思しき人物の写真が3枚貼られている。3枚中3枚の写真が笑顔だなんて、相当気の抜けた人物なのだろう。そう斜に構えてレノはじっくりとターゲットDの顔を見た。人懐こい笑みは男の自分から見てもとてもチャーミングで、唇から覗く真白い歯はよく日に焼けた肌に似合っている。年齢は、レノと同じか少し下だろう。癖毛のブルネットが、コスタ・デ・ソルの暖かな風になびく様子がありありと浮かんだ。ターゲットDは写真だけでも十分に分かるほど、悔しいくらいの好青年だった。

レノは夢中で書類を読み進めた。

ターゲットD 性別:男 年齢:25
ターゲットAの甥。今回の潜入はDをベースにしてAの動向を探る。手段は問わない。

「ああ、そこ気になっちゃうよね」

なんて事の無いように告げるナマエに、レノの機嫌は益々急降下した。

「恋仲になるのかよ、と」
「そこは成り行きかな。期待は出来ないけど」

ハニートラップは初めてだな、などと呑気に告げている彼女は、感情を切り売りしようとしている事をちっとも気にしていない様に見えた。任務なら仕方ない。ナマエの態度がありありとそう告げている。レノはナマエの甘いカフェラテを飲み干して、彼女のまるい目をじっと見つめた。

「どうしたの?」

面と向かってそう言われてしまうと、レノは何も言い返せなかった。ナマエの毒気のない緩やかな微笑みは、きっとターゲットDに気に入られることだろう。彼はナマエの優しい人柄に、本気で惚れ込んでしまうかもしれない。そして、この絵に描いたような好青年のことを、万が一にもナマエが好きになってしまったら。

「別に。なんでもないぞ、と」

ナマエがひどく遠いところにいるように感じて、レノはがっくりと項垂れた。レノには、ナマエを止める理由も、ましてや権利もない。ナマエは仕事のために、神羅のためにコスタ・デ・ソルへと赴く。そう、あくまでも仕事なのだと自分に言い聞かせる。

レノ?とナマエが呼んでいるが、レノの心はここにあらずだった。レノとナマエは恋仲などではなく、ただの先輩と後輩に過ぎない。レノには、彼女にハニートラップを止めろとも、身を安売りしないでくれとも告げる権利は無い。ナマエはナマエのプライドで、仕事に向き合っているだけだ。ああでも、やっぱり。

呼び止めるナマエに返事も返さず、レノはオフィスを後にした。








〇〇

翌日、レノは北条の研究室に居た。無論、好きで訪れているわけではない。頼まれたってこんな所に長居なんかしたくはない、というのが本音だった。青白く光る謎の生き物や、明らかに“元々は別の何かであった”ことが分かるモノ、そして禍々しく光るジェノバ。研究室の主人である北条も、サンプルに負けず劣らず不気味な男だ。

「これで全部だぞ、と」

レノの両手に抱えた大きなダンボールには、用途不明のマテリアが大量に入っている。そっとデスクに置くと、ガチャとマテリア同士が擦れる音がした。これらは、北条が研究しているサンプルに使用されるとの噂だが、真偽のほどは分からない。タークスであるレノにも、北条の研究の全貌が明らかにされることはない。今日運んだマテリアも、一体何に使われるのかなんて深く考えたくもなかった。この研究室では、レノの想像を遥かに超える、非人道的な試みが日夜休まず繰り返されている。

しかしクツクツと喰えない笑みを浮かべているこの痩せ細った男がいなければ、神羅カンパニーはここまで発展しなかっただろうというのもまた事実だった。現に彼の考案した“発明品”たちは、今日も勇ましく神羅のために働いている。

北条がマテリアを検分している間、時間を持て余したレノは研究室のとあるサンプルを眺めていた。30cmほどの円筒状の水槽に、無数の小さな魚が泳いでいる。魚はほんの蝿くらいの大きさで、ざっと100匹以上はいるだろう。円筒状の水槽の上部からは、ある一定間隔で青緑色の液体が滴り落ちており、魚はそれらに群がっているようだった。青緑色の液体はレノもよく知っている。

「魔晄を喰ってんのか?」
「その生き物たちは魔晄を食べはしない。魔晄に惹きつけられる性質を持っているのだ」

いつの間にか検分を終えた北条が、レノの背後から声をかけた。ぎょっとして振り返ると、北条はうっとりとするように先程の水槽を見つめている。

「魔晄に惹きつけられる?それに何の意味があるんだよ、と」
「意味など無い。ただ魔晄に惹きつけられるだけの生き物だ」

相変わらず何を言っているのか釈然としない男だ。魚はせわしなく、けれど懸命に落ちてくる魔晄に集っている。魔晄が魚の動きによって霧散して消えてしまうと、名残惜しそうに解散し、また魔晄が落ちると、我先にと魔晄の元へ群がった。

「まるで街灯の虫だな」

レノの一言は、魚に対する皮肉にも取れた。摂取するわけでもなく、ただ魔晄に惹かれて集う魚は、街灯に群がって感電死する虫と同義に思えた。

「同じだ。どちらも正の走性を持っている」

それだけ告げると、北条はさっさと研究室の奥へ引っ込んでしまった。

正の走性、知らない単語だ。聞こうにも北条はもう居ない。それにわざわざ呼び止めて聞くほどのことでもないように思えた。

レノは再び魚に視線を戻す。魚は飽きもせず、気紛れに垂れて来る魔晄に飛びついている。酷い嫌悪感を覚えて、レノは無意識に唇を強く噛んだ。鋭い犬歯で裂けてしまった唇からは、うっすらと血の味が滲んだ。レノは水槽から背を向けると、足早に研究室を去った。


〇〇


正の走性。オフィスに戻ったレノは、ひとり端末に向き合っていた。生物学になど大した興味もなかったが、妙に気になってしまい検索をかける。

【走性】自由に動くことのできる生物が、外界からの刺激に対して行う方向性のある運動。運動が刺激に向かう場合を正、逆の方向へ向かう場合を負とする。

ふうん。感想はそれだけだ。実につまらないとレノは思った。魔晄に惹きつけられようが、光に惹きつけられようが、結局は同じことだ。街灯の虫も、北条の研究室にいるありがたい魚も、どちらも大差はない。違いを挙げるとすると、何に惹きつけられているかと言うところだろう。レノは北条の気色悪い研究を、さっさと頭の隅から捨てようとした。

「どうした、レノ」

消沈したレノに声をかけたのは、同僚のルードだった。スキンヘッドにサングラスと無骨な風貌をしたこの大男は、もう長くレノとコンビを組んでいる。単独で任務に赴くことが多いナマエとは異なり、レノの任務はほとんどルードとのツーマンセルだ。レノは端末をスリープモードにして、ルードの方に身体を向けた。

「何でもないぞ、と。飯食いに行こうぜ」腕時計の長針は、ちょうど12時を指している。
「もうそんな時間か。ああ、行こう」2人は揃って、オフィスを後にした。

神羅ビルには大きな社員食堂があり、レノを含めたタークスの面々も度々ここを利用している。昼時でガヤガヤと騒がしい食堂内は、人でごった返しているにも関わらず、レノとルードのそばで食事を取るものは居ない。一般社員は、タークスが具体的にはどんな仕事をしているか知るような機会は与えられなかったが、タークスが“普通の部署ではない”という事は認知しているようだった。さらに追い討ちをかけるように、派手で厳ついレノやルードの出で立ちが、周囲にじっとりとした威圧感を与えている。

「…やはり元気がないな。ナマエか?」

定食をもそもそと食べているたレノに、ルードが声をかける。ルードの目が黒いレンズ越しに鋭く光ったのが分かった。彼にはレノの分かり易すぎる不機嫌の原因は、大方予想がついていた。拗ねた子供のように、レノが頬を膨らませている。

「長期出張だと」
「それは大変だな。何ヶ月だ?」
「半年」

レノはため息をついて水に手を伸ばした。ごくり、とレノの喉仏が大きく上下する。

「不機嫌の原因はそれでは無いだろう」

相棒に隠し事をしても無駄だということを、レノは身を以て知っている。それに、そもそも相棒に隠し事をするのは好きではない。レノは白状するようにぽつぽつとルードに事の成り行きを話した。ルードはそれを、時々相槌を打ちながら真面目な顔で聞いていた。

「レノはどうしたいんだ」
「そりゃ、ハニートラップだなんて案は捨てろと言いたいぞ、と」
「正直に言えばいいだろう」
「言えるかっての!」

レノは苛立ちを隠そうともせずに荒々しく、ぶすりと肉にフォークを刺した。はずみで食器がカチャンと音を立てる。フォークに押し出された肉汁が、レノの皿を薄く汚した。

ふと、社員食堂の外を歩いている見慣れた人影が歩いていることにレノは気がついた。片方はナマエ、もう片方はツォンだ。2人とも茶色い紙袋とコーヒーを持っているので、今しがた社内のカフェから出てきたのだろう。レノはルードとの話に相槌を打ちながら、暫く2人を眺めていた。2人はレノとルードに気付くことなく、やがてエレベーターの方角へと消えていった。

「ナマエだって、レノを邪険に思いはしないさ」

2人の消えた方向から視界を戻して、レノはルードとの会話に意識を戻した。分かっている。それはもう、十分に分かっている。ナマエはきっとレノをぞんざいにあしらうことは無い。これについては断言ができると言ってもいい。

レノが心底嫌に思っているのは、幼稚なわがままでナマエを困らせること。さらに言えば、己の私情がナマエの仕事の邪魔をしてしまうことに尽きる。

「でもよ〜」

大きなため息をついて、レノはフォークに刺した肉をもぐもぐと咀嚼した。日替わり定食のモルボル肉のしそ巻きは、レノの好きなメニューのひとつだ。今日に限っては、ろくに味わいもせずに飲み込んでいるが。ルードは悩める相棒に、ひとつ救いの手を差し伸べる事にした。ルードにとっては、これ以上にない良案だ。

「なら、さっさと告白して付き合ってしまえばいい」

ごほ、と大きくレノが咽せた。どうやらモルボル肉のしそ巻きが気管に入ってしまったらしい。ごっほごっほと咳を繰り返して苦しんでいるレノに、ルードはそっと水を差し出した。レノは水を受け取るなり勢いよく飲み込み、数秒後に物凄い剣幕でルードに向き直った。

「簡単に言うなっての!」











〇〇

翌日のこと、ジュノンでの要人警護を控えているレノは、オフィスのソファでひとり時間を持て余していた。ジュノンへ向かうヘリの待ち合わせ時間まではあと3時間ほど。レノは退屈を紛らわせるためにオフィスのソファへ身を沈めた。ギシ、とソファのスプリングが軋んだ音を立てている。

『なら、さっさと告白して付き合ってしまえばいい』

昨日から、ルードの言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。

レノが抱いているナマエへの感情は、一見すると思春期のそれに近しい。憧れと、思慕、そして少しの下心。けれど長い年月をかけてそれらは複雑に絡み合い、拗れて、想いの本質はもっと別の場所にある。これについてはレノ自身、上手く表現する事が出来るような気はしなかった。燻った想いに焦れて、複数の女性を取っ替え引っ替えしていた時期もある。虚しさだけが募る行為に辟易して、数年前からそれもぱったり止めてしまった。

さっさと告白してしまえだなんて、簡単に言いやがって。レノは心の中で独り言ちた。尻ポケットにある携帯端末がブルブルと震える。レノは携帯端末を物ぐさに取り出した。受信したメッセージは任務の定期連絡のようなもので、特に緊急性も感じられない。

ふと思い立って、レノはメッセージの受信履歴を遡った。レノ宛のメッセージの差出人は、上から4つがルード、続いて定期連絡、その後にナマエだった。ナマエとのメッセージのやり取りは、数通続いている。内容はたわいも無い、世間話だ。レノはそっとナマエの名前を指でなぞった。不思議と、心が暖かくなった気がする。レノは新規メッセージを作成して、宛先にナマエの名を選択した。何度か「よう」だの「元気かよ」だの意味の無い文章を作って、それをゴミ箱に廃棄した。

ふいに、ターゲットDの顔が脳裏に過ぎる。世の中の暗い所なんて何も知らなさそうな笑顔。自身の手が汚れているかどうかなんて、気にしたこともないのだろう。きっとまっさらで、汚れを知らない無垢な手だ。けれどレノが求めて止まないナマエの手を、さも当然のように取って歩くかもしれない、憎らしい手。

「あーあ、面白くねえぞ、と」

レノはごろんと寝転がり、ソファに体重を預けた。無機質に光るシーリングライトが煩わしくて、背凭れの方に寝返りを打つ。皮張りの生地がレノの剥き出しの胸元に、ひんやりとした冷たさを与えた。



〇〇



「レノ、後1時間だぞ。そろそろ起きないか」

薄ぼんやりとした意識が、上司の声で徐々に覚める。「今何時だ?」と、尋ねた声がひどく掠れていて驚いた。どうやら、かなり深く眠っていたようだ。

「今はまだ14時前だ」

レノの上司、ツォンが淡々と答える。彼はレノの方へと視線も向けずにデスクに座って、黙々と書類仕事をしているようだった。ジュノンでの仕事はツォンとのツーマンセルだ。珍しく、ルードは別の任務に入ってしまっているらしい。レノは大きなあくびをひとつして、ぐっと身体を伸ばした。パキパキ、と関節の鳴る音がオフィスに響く。スーツの背中あたりはシワになってるだろうな、と思うと少し気が滅入った。

「ナマエと喧嘩でもしたのか?」

デスクで書類と睨めっこをしているツォンが、ふいに口を開いた。相変わらず顔はこちらに向けず、書類を見つめているので表情は読めない。

「なんでツォンさんがそんな事気にするんだよ、と」
「何故も何も、ナマエが悩んでいたからな」

ナマエがレノのことで悩む?思い当たるのは、先日での出来事だ。あの日、ひどい態度でナマエの前から姿を消した。ナマエの呼び止める声を無視して、レノは無視して家に帰った。

でもそもそもなんでツォンさんがそれを知ってるんだよ、と。

「レノは勘違いしているようだから先に言っておくが、タークスは基本的に自由恋愛可だぞ」
「誰が何を勘違いしてるって?」
「別に恋愛を規制する規則は無い」

何をトンチンカンなことを言っているんだ、とレノは眉間のしわを深くした。そんな理由でレノはナマエに気持ちを伝えるのを躊躇っているわけではない。

「そうだレノ、この間私が誤ってナマエのマグカップに口をつけたことがあるんだが、もの凄い剣幕で怒られてしまった」
「それが何か関係あんのかよ、と」
「まあ何だ、ナマエが優しいのは存外お前だけってことだ。早く気持ちを伝えて、くだらないハニートラップは止めろと伝えてやってくれ」

カチ、と手に持っていた長いペンをホルダーに戻し、ツォンは顔を上げた。そんな風に言われて、勘違いするなと言う方が無理だと思った。もしかして、もしかすると、という淡い期待がレノの胸の内にぐんぐん広がっていく。ただ、一方でひどく冷静な自分がいるのも否定できなかった。期待値が高ければ、駄目だった時にそれだけがっかりしてしまうのは当然の理だ。

「今日の護衛だが、私は体調が悪い。社長と主任には既に伝えてあるんだが、代わりにナマエが任務に入る」
「はあ?」

レノを置き去りにしてテキパキと会話を進めるツォンは、どこからどう見ても健康そのもののようにに見える。

「今日の任務は恐らく19時前には終了する。ナマエは明日非番だ」
「どういう事だよ、と」
「素直になるなら今夜が良い。何故なら、任務期間が前倒しになった為、ナマエは来週にはコスタ・デル・ソルに赴く」

レノはソファからよろよろと立ち上がった。駄目かもしれない、とまだ心は揺れている。けれど、同僚や、ましてや上司にここまでお膳立てされては、さすがにレノもナマエの元へと向かわねばならないと思わざるを得なかった。

「なあツォンさん」
「何だ」

去り際に振り返ったレノが尋ねた。
ツォンは柔らかい口調でそれに答える。

「街頭に群がる虫ってどう思う?」
「街頭?」
「焚き火でも、何でも。死ぬかもしれねえのに、意味もなく光に群がってる虫だぞ」

ふむ、とツォンは顎に手を当てて考え込んだ。しばらくしてゆっくりとレノの方へ体を向けて回答した。ツォンの答えは、レノの予想をはるかに超えたものだった。

「必要だから惹きつけられるんだろう」
「必要だから?」
「それ以外に理由があるか?」

レノは黙ったままオフィスを後にした。タークスのオフィスを出て、真っ直ぐ歩くと上層階へと繋がっている大きなエレベーターがある。レノは社員証をセキュリティパネルへ押し当て、屋上へのボタンを押した。薄暗い地下から、明るい昼間へとエレベーターは駆け上がってゆく。ガラス張りの個室からは、陽の光が差し込んだ。眠ってしまったせいで時間の感覚がすっかりおかしくなっていたが、時刻はまだ昼だった。

屋上には、風に煽られているナマエがひとり佇んでいる。どうやらヘリはまだ来ていないらしい。レノに気が付いたナマエは、片手をひらひらと振って駆け寄ってきた。

「ツォンは大丈夫?」

ツォンのことを気軽に呼び捨てて呼ぶのは、現在のタークスでは主任と、彼の同期のナマエ…あとは古株のシスネくらいだ。さして歳も変わらないだろうに、レノから見た2人はいつも遠い所に居るようだった。2人にしか分からない話題も、冗談も、信頼関係も、すべて、堪らなく羨ましく思っていた。今はそれが、少しだけ恥ずかしい。

ツォンまでもが背を押しているのだ、きっと脈はあるのだろう。あとはレノの行動次第。ナマエの顔を見て、そしてレノは漠然と、想いを伝える決意をした。

ああでも、自身の気持ちがツォンに筒抜けなのはちょっとだけ悔しい。だから、


「ツォンさんは酷え下痢だってよ、と。きっとスラムで拾い食いでもしたんだろうぜ」

これくらいの仕返しは許されるはずだぞ、と。











〇〇


時刻は23時を少し回ったところ。レノはナマエを家まで送っていた。2人は、街灯の光に照らされたミッドガルの夜道を歩いている。

「おいしかったね」

数歩先を歩いていたナマエが、振り返ってレノに話しかけた。

「そうだな、と」

レノは素直に肯定してナマエの横に並んだ。コツンコツンと二足の革靴が、綺麗に舗装されたレンガ道を蹴る音が静かに響いていた。シンと静まり返っている住宅街の中で、ミッドガルに住まう数少ない虫が、ささやかに鳴き声をあげている。青白く光る街灯には、数匹の蛾が我先にと光に向かって飛び交っていた。

「来週からだっけか?」
「そう。ちょっと早くなっちゃって。行く前にレノとご飯に行けてよかったよ」

ナマエの口が綻んで、レノの方へと身体を向けた。気が緩んで少し酔っているのか、頬が薄く色付いている。レノの好きな、赤い色。

「…寂しくなるな、と」

レノは頬を染めてぶっきらぼうに答えた。ナマエが目を見開いて、嬉しそうに笑った。

「会えなくなるのに嬉しそうにすんなよ」
「レノが変に素直だから」

半年間の潜入任務中は、ナマエとは連絡も取ることができない。勿論コスタ・デル・ソルまで足を運ぶことも許されない。精々コスタ・デル・ソル内で別の任務が入った時に、遠目に見ることができればラッキーなくらいだ。

「そういえば昨日の社食、モルボル肉のしそ巻きだったぞ」
「え、本当?わたしがそれ1番好きって知ってて、何で教えてくれなかったの!」
「ツォンさんと飯食ってたろ、と」
「そうなんだけどさ。ああ、モルボル肉のしそ焼きは半年後までお預けだなあ」

ぬるま湯のような関係はひどく心地よい。けれど、ぬるま湯からはもう出よう、そう思って今日は誘ったのだ。ナマエが歩みを進めると、彼女の髪がゆるく揺れる。レノも歩幅を合わせて、ゆっくりと隣を歩いている。

レノが視線を足元にやると、黒いスーツの袖口から覗くナマエの手が目に入った。街灯に照らされて、青白く光っている。何年も何年も、毎日のように銃を握っている手だ。きっと豆もたくさんあるし、皮膚が硬くなっているところもあるのだろう。レノはナマエの手をじっと見つめて、そして空を仰いだ。薄汚れた空に星は無く、月だけがぼんやりと輝いている。

ナマエの手に触れたい。硬くなった皮膚をなぞって、そしてゆっくり指と指を絡めて、自身の手の中に閉じ込めてしまいたい。力いっぱい握りしめて、そして、そして。

「どうしたの?」
「いや、別に何でもないぞ、と」

臆病者、とレノは自分を叱咤した。


〇〇


ナマエの住んでいる古いマンションは、大通りから少し離れていて薄暗い。廊下におよそ3mずつの間隔で設置されている蛍光灯は、所々切れかかっているのかチカチカと頼りない点滅を繰り返していた。既に住民たちは眠りについているようで、二人の立てる靴音だけが反響して廊下に響いている。

ナマエは鞄から取り出した鍵を、玄関の鍵穴に当てた。しかし酔いが回っているせいなのか、薄暗いから良く見えないからなのか、鍵穴に上手く入らない。カチ、カチと金属が擦れる音がする。

「良く見えないね」

ナマエはくすくすと笑いながら鍵を掴みなおした。白い指先が、銀色のブレードをそっと撫でる。鍵に付いているモーグリの形をした鈴が、チリチリと可愛らしい音を立てた。

「貸してみ」

見兼ねてナマエの背後から声をかけた。レノの大きな手がナマエの手に重なる。夜風に晒されて冷たくなっているナマエの手は、銃を使い込んでいるにも関わらず滑らかだった。ナマエの手を包み込むようにして鍵を握り、ゆっくりとした動作で鍵穴に挿し込む。

ありがとうと振り返ったナマエの瞳に我を忘れて、レノ思わず顔を近付けた。

ほんの一瞬の出来事だったが、レノはとても長い時間そうしていたように感じた。見開いたナマエの瞳が、レノの瞳を貫いている。ナマエの瞳の中で、燃えるように赤い色が揺れた。

ちゅ、と短いリップ音がマンションの廊下に響く。カチンと固まってしまったナマエを横目に、レノはそっと玄関の鍵を回した。

「…すきだ」

レノはナマエを部屋に優しく押し込んで玄関を閉める。そして扉がしっかりしまったのを目視した後、扉を背にずるずると蹲み込んだ。扉越しに、布の擦れる音がする。ナマエも蹲み込んだのだろう。レノは手のひらで少し乱暴に顔を覆った。

顔が熱い。けれど唇だけは死んでしまっているかのように冷たかった。ナマエの唇の感触が消えない。レノは感触を確かめるように親指でそっと唇をなぞった。心臓は痛いほどに収縮を繰り返している。ドクドクと血液を送る音が大袈裟に響いて、扉越しに鼓動が聞こえてやしまわないか不安になるほどだった。

何とか気持ちを落ち着かせようと、懐にしまってあった煙草に火をつける。燻った煙が、レノの肺を満たした。ゆっくりと煙を吐いて、またフィルターに口を付ける。火の灯った煙草の先は、レノが大きく息を吸うと真っ赤に色付き、そしてすぐに白い灰になった。

冷たいタイルの床を、寒いと思えるくらいに酔いは覚めている。そもそも、レノはそこまで酔うような体質ではない。ふー、と吐いた長い煙はゆっくりと消え、ミッドガルの夜を汚した。ジジと不快な音がして視線をやると、黒地に白い模様をした一匹の蛾が蛍光灯へ向かって健気に飛び続けているのが目に入った。

やべえ。勢いだけで言ったものの、返事を聞き忘れちまったぞ、と。

これでは本末転倒も良いところだ。告白して、ハニートラップをやめて欲しいと伝えるまでが今日の目的であったはずなのに。レノは利き手でそっと唇をなぞった。シンとした廊下に、腕時計の針が時間を刻む音が、やけに大きく響いている。

気持ちは伝えた。ただ、伝えただけだ。もっとスマートに伝えるつもりだったのに、ナマエの瞳を見たら、それすら叶わなかった。薄暗い廊下で、夜の光を反射している綺麗な瞳。レノを魅了して止まない瞳。瞳の中で、熱を持ったレノの顔が揺れていた。レノは惹き寄せられるように、唇に吸い付いた。

何分ほどそうしていただろうか。気が付いた時には既に煙草は燃え尽きていて、灰はレノのスーツを白っぽく汚していた。ナマエは既に扉を離れて部屋に入ってしまっているだろう。蛾が視界の隅で揺れている。レノはじっとそれを見つめて、やっと嫌悪感の正体に気がついた。

レノが立ち上がろうとした時、扉越しにくぐもった声が聞こえた。それは、どんなに騒がしい場所に居ても、決して聞き逃すことのない声。自身の名を呼ぶ、焦がれ続けた声。


「レノ、すきだよ」



蛍光灯と戯れていた蛾に、強く青白い光が走った。黒い羽は、バチンと音を立てて地面に落ちた。






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