断ち切り鋏
「これさ、あげるよ」
彼女が差し出した小さな組紐を、私は「どうも?」と受け取った。黒い紐の中に、金色の華奢な紐がしっかりと強く編み込まれている。これは何かと彼女に問うと、組紐は“ミサンガ”というらしい。
「これを手足につけて、自然に切れると願いが叶うんだって」
「へえ。もし自分できってしまったらどうなるんだい?」
どうやらミサンガは巷でブームが巻き起こっており、彼女は先日任務に行った私立の高校で作り方を聞いたそうだ。所々糸が解れているものの、硬く織り込まれたミサンガは頑丈そうだ。私がミサンガを指で突いて遊んでいると、彼女は「ええ……」と困惑した声をあげた。
「夏油って、少し捻くれてるよね。そんなこと真っ先に聞く?」
「最悪の状況を知っておくことは悪いことじゃないはずだよ」
「五条や硝子はそんなこと聞きもしなかったけど」
「なんだ、ふたりにもあげたのか」
「自分だけ欲しがるなんて、夏油は案外欲が深いね」
そうだよ、私は欲が深いんだ。素直に告げるのは癪だったが、私は暫し考え込んで「お揃いだと思ったんだよ」と苦笑した。別に恋人同士ではない。彼女はただの同級生だ。だから、私が「お揃いだと思ったのに」と拗ねるのは、違和感の残る行為だった。気づけよ、と念を押すように彼女の瞳を盗み見たが、彼女は左腕をあげて「わたしと傑はお揃いだよ、同じ柄」と笑うばかりだ。
遠回しなアプローチは効果が薄い。いっそ壁にでも追い詰めて押さえつけて、「好きだよ」と熱っぽい視線を寄越してやれば、彼女は自身を異性の──それも、彼女に劣情を抱いている──男だと強く認識したのだろうか。しかし「夏油はどこにつける?」と問う彼女は、存外警戒心が強かった。少しずつ信頼を勝ち取って得た距離感だ。手放してしまうのは少し惜しい。
「足首につけるよ。戦ってても邪魔にならない」
- [ ] 足首だと言ったのに、彼女は「着けてあげる」と言って聞かない。女の子が教室の汚い床に跪いて、なんとまあハシタナイことだろう。いっそ倒錯的ですらある。私はごくんと唾を呑んだ。彼女が私の足首に細い指を絡ませている。薄紅色の唇がやわく開いて「ちゃんと願いごと、考えてね」と呟いたが、そんなことは頭からすっぽぬけてしまっていた。桜金と黒の組紐が、私の肌を彩っている。桜貝のような小さな爪が、足首の骨に優しく触れる。自身の劣情をしっかりと煽るのには十分すぎる要素だった。金と黒の組紐が、私の肌を彩っている。ミサンガを結び終えた彼女が、満足そうに微笑んだ。
「自分で切ってしまったら、願いが叶わなくなっちゃうよ」
私が今、どんな気持ちで君を見つめていたか知っているかい? そう問いたい気持ちでいっぱいで、でもそんなことを問う勇気などひとつもない。「だから自分で切っちゃだめだよ」と念を押している君は、そんなこと思いもしないのだろうが。
◯
悟のミサンガは翌々週の任務で千切れ、次いで彼女のものが千切れた。硝子のは長く持った方だが、それでも年が明けた頃には千切れてしまっていた。私のミサンガだけ、春が過ぎて夏になっても千切れることなく足首にしっかりと結ばれている。
「強すぎんだよ、お前の願い。ミサンガには叶えきれねえんだって」と笑う悟の顔が、こびりついて離れない。夏を過ぎて高専を出て、ミサンガはそれでも千切れなかった。スウェットの裾から覗く紐は、随分と汚れてよれてしまっている。
彼女のことを忘れることはできなかった。そんなことは、しようとも思わなかったのだから至極当然の話だった。死んだという話は聞かないので、今も命を擦り減らして呪術師をしているに違いない。早く終わらせてあげる、そしたら必ず迎えに行くから。そうやって自身を慰めては、長い年月を越えてきた。しかし実際には、彼女を腕に抱いたことはない。結局高専を出るまでも出た後も、彼女に想いを伝えることはなかった。
「いよいよ、明日」
明日、十二月二十四日。勝率はそう、高くない。勝算のない戦はしない主義ではあるが、万一のことがあっても何らおかしいことはない。
私は裁ち鋏を片手に、足首に絡まっているミサンガを切り落とした。シャキ、と金属の擦れる音がして、ミサンガは呆気なく床に落ちた。ずっと足首にあるものだとばかり思っていたが、案外簡単に切れてしまったことに落胆する。少しすっきりとした足首は、まるで他人の足首のようだ。
「ああ、随分ボロボロになってしまったな」
私は、そう思わず声に出してしまうほどみずぼらしくなってしまったミサンガを手に取った。黒かった紐は色が抜けて灰色になり、金糸はその輝きを失っている。それでも絡み続けていた執念は、呪と呼んで差し支えなかった。報われずとも、誰の目にも止まらずとも、自身にこびりつく濃い呪い。ひっそりと物陰に身を潜ませては、彼女を欲する浅ましい呪い。
「君は私が何を願ってこの紐を身につけていたのか、きっと知る由もないね」
彼女には何も言わなかった。去るときでさえ、何も。自身で縛りたくなかったのだろうか。ああいや、きっと言えなかっただけだ。どこまでいっても臆病者の私には、そんな無責任なことを言葉にすることが出来なかった。なのに彼女が誰かと添い遂げれば、相手の男はきっと殺してしまっていたことだろう。幸いなことに、そんな事実はどこにもない。手に入れた自由も、選んだ選択肢も、私利私欲に使う為のものではなかった。私が掲げるのは大義だ。でも、だからこそ、どうしても……。
私には守る力があった。しかし“全て”は守れなかった。やがて守るものを選ぶようになった。選んだものは、守りたい世界になった。私は、私の愛する世界を守りたかった。けれど本当に、ずっと守っていたかったのはきっと。
「好きだよ。たぶん、死んだとしても」
私が死ぬときは、術師がとどめを刺すだろう。そうすれば夏油傑が呪いに転じることはない。だからミサンガは切り離した。長い間私の呪力を吸い続けてしまったミサンガは、その辺の呪具よりも力を持つ。ああこれは呪いだ。恋焦がれる女をついぞ手に入れることの出来なかった男の執着による、濃厚な呪いだ。
「私が君を迎えに行くには、随分と罪を重ね過ぎてしまったらしいんだ」
呪ったくせに、“たぶん”だなんて保険をかけた。この後に及んで私は、曖昧な語句で着飾って、少しでも呪いを軽くしようとしている。
──自分で切り落としてしまったのだから、この願いが叶うことはないだろう。
好きだよ、会いたいよ。君がどこにも行ってしまわないように、抱きしめて閉じ込めてしまいたいよ。あの日投げ捨てた青春の続きを、君とふたりでやり直したいよ。
……なんて、先にどこかに行ってしまったのは私なのにね。