君の所為で声が死んだ


言わせてもらうが、私は彼女のことを友人だと思ったことはただの一度もない。それでも彼女の中の私は、あくまでも“ただの友人”だろう。

「オマエが優しくするからつけ上がるんだろ」

ゴウンゴウンと重い音を立てて、ランドリーの洗濯機がまわっている。寮の洗濯機はどれもボロボロでみすぼらしい。かといって、近くに他のコインランドリーがあるわけでもないので、私たちはこれに頼るほかないのだが。

「悟、言い方を考えなよ」
「傑君が甘やかすから調子に乗ってんだろ」

私が鋭い視線を悟に向けると、彼はべえ、と舌を出した。分かりやすい挑発に乗るほど、私は阿保でも馬鹿でもない。洗濯機よりもさらに年季の入ったパイプ椅子に腰掛けて、私は携帯電話をそっと開いた。受信ボックスに新着メールが二件。ひとつは補助監督から明日の予定の再確認。もうひとつは先週登録させられたハンバーガーショップのメールマガジン。彼女からのメールはない。携帯電話は用済みになった。

「私ってさ。もしかして友達以上恋人未満?」
「さあ。便利屋さんとかじゃねえの」
「はっきり言うよね、君って」
「こういうことはハッキリさせた方がいいだろ」
「まあね。確かに」

一理あるねと呟いて、私はランドリー室を出た。「ちょっと」とだけ口にすれば、悟には十分伝わった。ひどく口が寂しかった。喉がカラカラに渇いて、今にも渇死してしまいそうなほど。

私は自動販売機でミネラルウォーターを買ったあと、一本だけ煙草を吸った。肺を満たす重い煙は、渇きを少しだけ癒してくれる。ひどい呪霊の味を誤魔化すために手を出した煙草は、今や習慣となってしまった。吸わなきゃよかったと思ったことは一度もない。でも、キスをする時に彼女が嫌がらないかは不安になる。……まあ心配せずとも彼女とは、キスをするような間柄ではないのだが。

「傑〜、洗濯終わったぜ」
「うん。今行くよ」

呼びに来た悟に返事をして、短くなった巻紙をぐりぐりと強く灰皿に押し付けた。フー、と長く吐いた煙が、夜の闇に呑まれてゆく。煙で霞んだ丸い月が、まるで朧月のように見えた。



珍しく風邪を引いたのは、その翌々日のことだった。昨日はとてもひどい雨だったにも関わらず、忙しさにかまけて丸一日中傘も差さずに走り回った。ひとりきりの任務だったから、誰に注意されることもなかったのだ。水に濡れて重くなった服は気持ちが良いものではなかったが、着替えるのがひどく億劫に感じてしまった。風邪を引くのは当然といえる。自業自得に自嘲して、私は潔く休みを取った。風邪はここ数年引いていなかったので、燃えるように熱い額も、石のように重い身体も、ずいぶん久しいものだと思った。

昨夜から今まで、これほど長い時間寮のベッドの上にいたのは初めてだ。いつの間にやら日が傾いている。長く伸びた窓枠の影が、皺だらけのシーツの上に黒い格子柄を作っていた。未だ頭は強く痛むが、熱は既に下がっていた。長く眠りすぎてしまったために、目はひどく冴えている。

携帯電話の着信は三件。それぞれ悟と硝子、そして彼女からだった。とりあえず悟に電話をかけたが、不在着信で繋がらない。珍しいことがあるものだとメールボックスを開くと、彼からのメールを受信していた。どうやら任務のため、単身で山奥に赴いているようだった。飯がまずいとだらだら文句を垂れている。硝子と彼女からも一件ずつメールが届いていたので、私は硝子のメールに返信をして、彼女の方には電話をかけた。彼女は、ほんの三コールほどで電話に出た。

『傑、大丈夫?』
「大丈夫。もう熱も下がったよ」
『ご飯何も食べてないでしょ? 薬も持ってる? 具合が悪くないなら、何か食べるものとか持っていくよ。風邪を引いたままだと、買いにだって行けないだろうし』

彼女に風邪をうつしてしまうと悪いとは思ったが、既の所で欲が勝った。私は「ありがとう」と礼を言って、少し身なりを整えた。一日中寝っぱなしだったので髪がわずかにはねている。ヘアゴムで軽くまとめた後、ベッドに戻って本を開いた。不思議と空腹は感じない。二十ページほど読み進めたころ、彼女が部屋に訪れた。

「本なんて読んで平気? 何がいいか分からなくて、手当たり次第に買ってきたよ」
「ありがとう、助かるよ。寝過ぎて変に目が冴えちゃってるんだ」

両手にドラッグストアのビニール袋を持った彼女が、ベッドの端に腰掛けた。柔らかいマットレスが少し沈んで、彼女の身体が傾いた。ガサガサと得意げに袋を漁る彼女に身体を近付けるふりをして、こっそり横顔を盗み見た。風呂から上がったばかりだろうか。彼女の髪がふんわり揺れて、石鹸の香りが漂った。まるで戦利品を見せびらかすかのように、様々なものがベッドの上に広げられる。冷却ジェルシートに解熱剤、滋養強壮剤にレトルトパウチのおかゆ。私が「随分たくさん買ってきたね」と苦笑すると、彼女は「やっぱりそうだよね」と頬を少し赤くした。買い過ぎの自覚はあったようだ。私が財布を取り出すと、彼女は慌ててそれを突っぱねた。

「いいよ。私が好きで買ってきただけなんだし」

それにしても貰いすぎだ。私は「駄目」と彼女の申し出を却下して、少し多めの額面を彼女の手のひらに握らせた。彼女は両手に力を込めて、私に紙幣を押し返そうとしているが、しばらくそれを続けた後、ようやく諦めてお金を受け取った。そして彼女はベッドに広げた物資たちを片付けてから、再びマットレスに腰を下ろした。

「傑が居ないと悟がわがまま放題なんだよ」
「それは困るね。しっかり躾けておかないと」
「硝子もストッパーが居ないと困るって言ってた」
「君は危ないから手を出してはいけないよ」
「出さないよ」

彼女にとって私は、一体どんな存在だろう。男の部屋にずかずかと足を踏み入れて、あまつさえベッドに腰掛ける。いくら私が風邪で弱っているとはいえ、彼女はあまりに無防備だった。

「何かして欲しいことはない?」と尋ねるので、私は「風邪を引いたからか、少し人恋しいんだ。話し相手をしてくれると嬉しいんだけど」と返事をした。彼女は「ああ、そんなことで良いのなら」と私の方へ顔を向けた。

「飲み物、何か淹れてきなよ」
「傑は何か飲む?」
「君が買ってきたスポーツドリンクがある」

彼女から楽しそうに紡がれる話は、どれも聞いていて愉快なものだ。けれど、異性として意識はされていないのだろう。そう推測するのは実に容易い。シーツの上に投げ出していた二の腕に、彼女の華奢な指先がそっと触れた。ひんやりとしていて心地よい。心臓が大きく跳ね上がって、首に少しの汗をかいた。彼女の冷えた指先が触れた場所から、まるで熱がぶり返したようだ。

故意ではない。分かってる。分かってはいるのだけれども、浅ましく期待する自分に反吐が出た。大した手を尽くしてもないのに欲が深い。くるくると変わる鮮やかな表情を目で追いながら、私はスポーツドリンクをひとくち飲んだ。ひどく喉が渇いていた。まるで砂漠の砂のように、水気がなくてカラカラだった。

男と女に友情はたり得るか。

くだらない疑問だ。答えは当然“たり得る”だろう。友情に性差は関係ない。ただし、もちろん例外というものは存在していて。

『男女間の友情』が私たちの間に成立しないのは、私が彼女に淡い期待を抱いているからに他ならない。私は、彼女のことを友人だと思ったことは一度もない。──ただし、彼女はどうだろうか。

「それでね、硝子が違うって言ってるのに、その補助監督さんたらまるで話を聞いてなくて」

彼女は先日あった出来事について話している。私はそれを、聞いている。ここでいきなり、唇を塞いでやったらどうなるだろう。彼女はほんの少しくらい、私を男だと理解するだろうか。脈絡のない思考にかぶりを振って、スポーツドリンクを飲み干した。渇きが満たされることはない。

ぬるま湯のような心地よい関係を作ったのは、他でもない私自身だった。彼女の不安を癒やし、時には相談にものった。下から支えるかのごとく、献身的な態度をとった。見返りを期待していたわけではない。私がそうしたいから。ただただ私がそうしたかったから、彼女に寄り添っていたに過ぎない。

見返りを求めていなかったのは本当だ。でも、下心が無かったわけではない。一向に進展しない仲にしびれを切らし、探りを入れた結果はこうだ。信じられる? 『傑は“優しすぎるん”だよね』ってさ、なんて残酷な言葉だろうね。

歯痒くないと言えば嘘だ。しかし私は、おそらくどの男性よりも彼女に深く信頼されてる。手放すにはあまりに惜しいポジションだ。でも。

昔から優柔不断な性格のくせに、曖昧な結論は嫌いだった。本当に大切にしたかったから、彼女の嫌がることはしなかった。臆病風が吹いたともいえる。結果として、私は“異性”の枠をはみ出てしまったようだった。

楽しそうに喋っていた彼女が黙った。指先をもじもじと動かしながら、俯いて爪の先をいじっている。

「傑。あの、こんなこと突然相談するのは凄くはばかられるんだけどさ」
「どうしたの?」
「あの、あのさ。あのね」

彼女はもう二、三度「あのさ」と「あのね」を繰り返して、私の方に顔を向けた。頬は赤く染まっている。期待しない方が難しかった。何度も何度も、それこそ夢にまで見た状況だ。臆病者の私が、今の立ち位置のまま手を汚さず、彼女のことを手に入れる。

「わたし好きな人がいて、それで相談にのって欲しくって」

ああ彼女は、とても残酷な女の子だ。

膨らんだ期待が萎んでゆく。砕けたガラスの破片のように、鋭い棘が胸に刺さった。もちろん実際に何かが砕けたわけではない。恋心すら、この事実を知ったところで割れも砕けもしなかった。ずき、と身体の奥が痛む。彼女の好きな人が誰かだなんて、彼女の口から聞きたくなくて、小さな口を手で覆った。

怖がらせたりしないよう、ヒツジの皮を被っていた。本性はきっとその辺の男となんら変わりないだろう。私は下心を秘めた、ただの欲深いオオカミだ。ずっとなりをひそめていた、獣がぐわっと牙を剥いた。

驚いて大きく見開いた瞳に、私の顔が映っている。彼女の身体が強張った。それでも私は、私のことを止めることができなかった。

あらゆる手順をすっとばして、彼女を強く抱きしめた。そのままベッドに横たわって「聞きたくない」と口を塞いだ。皺の寄ったシーツの海に、彼女の身体を引き摺り込んだ。どくどくとうるさい心臓の音が、静かな部屋に響いている。彼女はとても小さかった。

衝動に身を任せるのは初めてだった。いつだって私は理性的で、それでいて優しい人だったのだから。

言わないでずるずる引き伸ばしたのは私だった。それでも気づいて欲しかった。私は誰にでも優しいわけじゃないんだよ。君が……君が好きだから、だから誰より大切にして。

誰にも言ったことはない。任務先や学校でもらったラブレターは、全て断りの返事を書いた。誰に誘われたとしても、私は決して靡かなかった。そんな態度をとったところで、彼女には関係のないことだった。

燻ったままの胸の内は、熱があろうがなかろうが、さして関係ないらしい。

「聞きたくない」とわがままを言った。体温がじわじわと上がってゆく。自身の身体が、じっとりと湿った。すっかり冷めた熱が、ぶり返してきたようだった。

優しくしたのは何故なのか、彼女に知ってほしかった。君は特別なんだよと、器用に伝えるはずだった。狡いのは自分だ。逃げて逃げて、逃げ続けて。危ない橋に足をかけることもしなかったのに、今更手を出そうとするだなんて。ぬるい信頼関係にひびが入る音がした。とは言えそんなもの、最初から無いに等しかったのだけど。

「ごめん、今日だけ」という言葉は飲み込んだ。今日だけでは足りない。きっと。







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