名を刻む



傑がわたしのプリンを食べた。それは、駅前のコンビニで買った、少しだけいいプリンだった。テレビコマーシャルで新商品発売と謳われている、話題のプリン。ほんの気紛れで買ったものにすぎなかった。世に溢れているプリンだ。代替品はいくつもあった。

「名前を書いておけばよかったのに」
「それを!食べた人が!堂々と言う?!」
「言うんだろうね」
「もう!傑のばか!わたし、食べるのすっごく楽しみにしてたのに!」
「だから名前を書いておけばよかったろ」

傑は反省の“は”の字も見せない様子で、だらしなく足をソファに寛げている。品行方正な振る舞いとはうって変わって、傑は存外お行儀が悪い。けれど、名前を書いておかなかったのはわたしの落ち度であるから、仕方ない。「ひと口あげようか?」と、どこまでも太々しい傑にぶつくさ文句を言いながら、わたしはプリンをひと口貰った。やっぱり大したことはない、ただのプリンだったことを覚えている。

それからというもの、わたしは自分のものには全てしっかりと名前を書くようにしている。

別に、傑にプリンを食べられてしまったことをずっと引きずっているわけではない。ただ、これはわたしのものですと所有印を残すことに、案外悪い気はしなかった。名前を書き記すことで、世の中に無数とあるもの達が、明確に“わたしのもの”と“そうでないもの”に区別される。そんな些細な習慣は、わたしが高専の事務で働くようになってからもずっと続いていた。


傑が使っていた部屋は、綺麗に片付けられて跡形もない。もう十年近く経っているのだ。当たり前といえば、当たり前だった。古い高専の学生寮の片隅に、わたしたちがいた痕跡はすっかり無くなってしまっている。ほんの少し寂しく思えど、それは仕方のないことだった。

傑は、わたしにはお別れの挨拶をしなかった。


わたしは今、出払っている教員の代わりに、寮の見回りをしている。ぎしぎしと音を立てる古い木造の床は、あの頃からちっとも変わっていない。

「あの子たち、またゴミ出しっぱなしで」

低いローテーブルに、たくさんのお菓子の残骸が転がっている。アイスクリームに、キャンディ。ポテトチップスと、コンビニのプリン。かつてわたしが傑にプリンをとられてしまった場所に、奇遇にも再びあのプリンがあった。…もう誰かが食べた、残骸だったけれど。

「…あれ、ソファの下にも何か落ちてる」

白い紙切れを視界の端に捉えた。よくよく見なければ見落としてしまうであろう、小さな紙切れだ。わたしは身を眺めてゆっくりと拾い上げる。乾燥してカサついた用紙が、パリパリと乾いた音を立てていた。

それは、年季が入って褐色に黄ばんだ、四つ折りの小さなメモ用紙だった。何だろう、と開いた瞬間に、ばちんと大きな音を立てて紙が爆ぜた。静電気に触れたようにぴりぴりと痛む指先から、黒いインクが滲んでいる。

「痛っ、」

黒いインクは、まるで滝を遡る鯉のようにするするとわたしの身体を遡上して、あっという間に服の間に消えてしまった。チクリと左胸が痛んで、わたしは慌てて洗面所に入った。

何かしらの呪術を受けてしまったらしい。高専に忍び込むなんて、大したことない呪いだったとしても、嫌な予感がする。少しばかり冷や汗を掻きながら、わたしは生徒たちがいないのを良いことに、姿見の前で大きく服を開けた。そしてごくりと唾を飲み込んだ。鏡の前に映るわたしの左胸、まさに心臓の上にあたる場所に“夏油傑”と美しい筆跡が刻まれている。

それは学生時代に何度も見た、彼の几帳面な筆跡そのものだった。

わたしは傑のことがよく分からなかった。傑はわたしよりもずっとずっと呪術師として優秀で、この特殊すぎる世界の中でも、特に上手に立ち振る舞っているように見えた。

傑はわたしにだけ、ずっとずっと遠慮が無かった。悟や硝子とは違って、弱いし貴重価値もない術師だったから、そうなのかなってずっと思っていた。だからわたしにだけ、最後すら会いに来なかったのだとばかり思っていた。

仲が良いと思ってた。

友達だと思ってた。

友達以上になれたら、と思ってた。

若い初恋は、わたしの中でよちよちと育って、そして十年前のあの日から、そろそろと萎んでその実を枯らしていた。

黒い文字をゆるりと撫ぜる。

呪術というよりは、呪いの類になるだろう。きっとこれは、害悪があるものでもない。

傑の想いの切れ端はあの日、決行を決める前にはすでに、この紙切れに封印されてしまっていたらしい。“夏油傑の想いそのもの”は、この小さなメモ用紙の中でひっそりと息絶えようとしていた。彼の内に秘めた何がしらの執念が消失を拒み、十年もの歳月をかけてゆっくりとわたしに近づいてこようとしていたらしい。

じんわりと熱を持つ文字に、言葉こそなくても意思がある。


「傑のばか。もっと早く言ってよ」


果たしてその選択を突きつけられたとき、わたしは傑の手を取ることは出来たのだろうか。

そんなことを考えて、すぐに無駄だと考えを吐き捨てた。それは存在もしなかった選択肢だ。わたしも、傑の中にも。

わたしは傑を知らなかった。あれから何年も経って、すっかり大人になった傑を。だから「名前を書いておけばよかったのに、」と宥めるように口を窄めた、いつまでも変わらない二年生の頃の傑の顔しか思い出せなかった。







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