私以外の誰かと幸せになんてならないで



悟からメールが届いた。内容はとても端的で『傑がいた、新宿に。』だけだった。わたしは何も返信せずに、気が付いたら江ノ島行きの電車の中で揺られていた。

心地よい振動に身を任せながら、ぼんやりと灰色の街並みを眺める。平日の午後、人はまばらだ。がたんがたんと、規則正しく列車が揺れている。差し込む日差しが、誰も座っていないオレンジ色の座席を、より一層鮮やかに照らしていた。

傑に会いたくなくて、新宿から遠く離れたいと思った。けれど勢いで関東を出る勇気はなくて、結局わたしはまだ神奈川にいる。

片瀬江ノ島駅には、観光を楽しむ人たちの笑顔で溢れていた。賑やかな商店街を抜けて、わたしはじゃりと砂混じりの石畳を辿る。江ノ島に来るのは、随分と久しぶりだった。

こんな時間帯にもサーファーが居るんだ、とほんの少し感心しながら海岸に降り、連なっている石で出来た階段に腰をかけた。

風が強い。塩分をたっぷり含んだ風は、べったりと独特の重みをもって江ノ島を吹き通っていた。高専の、緑溢れた里山のさっぱりとした風が恋しくなる。

夏油傑は、わたしの同級生だった。たった先日、ほんのついさっきまでは。






「やあ、こんな所に逃げたの」

聞き慣れたはずのその声は、今一番聞きたくなかった声だったのに。柔らかい声色は、あの日からちっとも変わっていない。もっとずっと、低くて怖い声になっていれば良かったのに。傑だなんて気が付かないくらいに。

「何しに来たの」
「君に会いに」

わたしは会いたくなかったよ、傑。そう言えば、彼は少しだけ悲しそうに目尻を下げて、けれど悲しげな雰囲気などひとつも感じさせない振る舞いで、わたしの隣に腰掛けた。制服は脱いで、黒いスウェットのようなものを身に纏っている。飛んでゆきそうなほど軽々しい態度の傑は、わたしに「ねえ」と話しかけた。

わたしは返事を返さなかった。傑のゴツゴツとした大きな右手が、わたしの左手にそっと触れた。

傑は、突然変異を起こして何もかも変わってしまった訳ではなく、いつも通りの傑のまま、変わることを選んでしまったようだった。少しやつれた彼の頬を、湘南の風がそよと撫でる。

「最後になるかもしれないから、どうしても言っておきたかったんだ」

わたしはやっぱり、返事を返さなかった。丸く整えられた傑の爪の先に力が篭り、ほんの少しだけわたしの手の甲を引っ掻いた。

「聞きたくない」
「じゃあ、言わない」

わたしは昔から雨女で、大事な時はいつも大雨が降っていた。学校の入学式、遠足、そして卒業式。今、江ノ島は憎らしいほどの晴天だ。雨が降るならこれ以上に無いほどのタイミングだというのに。ああ、頬を伝ったあつい滴は、潮風に攫われてきた海水に違いない。

いつの間にか捕らえられた指先が、傑のきれいな口元に運ばれる。わたしはそれを、どこか遠くの出来事のように眺めていた。まるでスクリーン越しに観ている映画のようだった。現実味も、温度も、何ひとつそこにはない。

ガリ、と鈍い音がして、骨に響くような鋭い痛みが走った。そこで漸くわたしはハッとして、指を自身の方へと引っ張った。傑の並びの良い白い歯が、わたしの左薬指を引きちぎらんばかりに強く強く噛んでいる。

「やめて、痛い、傑!」

わたしが止めてと訴えると、傑はすぐに身を引いた。「悪かったよ」と形だけの謝罪をしてパッと離された薬指には、赤黒い歯形がくっきりと付いている。

ぼこぼこと凹凸になったそれを、自身でゆるりと撫ぜていると、傑はようやく重たい腰を上げた。

「じゃあ、」

またね、また明日ね。また明日の授業でね。そんな言葉が続いてしまいそうなほどいつも通りに、傑がわたしに手を振った。わたしはとてもじゃないけれど「またね」と返せるはずもなく、雑踏に消える傑の背を見つめていた。

ずっと、ずっと。

日が落ちて、心配した硝子や悟が鬼のように電話をかけてくるまで、ずっと。



「ぼーっと突っ立って、やっかいな呪いかけられてんじゃねえよ」

悟は眉を潜めて、チッと大きな舌打ちをした。眉間には強く皺が寄っていて、ひどく機嫌が悪そうだった。

傑にかけられた呪いは、わたしの指に堂々と居座っている。強い呪いのようだった。残穢どころか、呪い自体が放つ傑の気配に、時々ぶるりと身震いをするほどだった。

それは、わたしの命に関わる呪いではないものの、異性、とりわけ悟に触れると歯形は激しく痛んだ。ギリギリと、まるでわたしを咎めるかのように強く、激しく。

傑が最後、わたしに何を伝えようとしたのかはついぞ分からぬままだった。

あれからもう、何年もの月日が経っているにも関わらず、わたしの指から傑の歯形が消えることはなかった。何をしても、薄くもならず、硝子もすっかりお手上げ状態だ。


『最後になるかもしれないから、どうしても言っておきたかったんだ』


わたしの瞼には、ほんの少しだけ悲しげに歪んだ、あの日の傑が強く強く焼き付いていた。







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