春のにおいを届けにきた
★高専
好きな人がいる。けれど、これがどうして彼との接点はないに等しい。どうにかこうにか接点を作りたいけれど、中々機会も訪れない。彼はふたつ上の学年だが、任務が同じになったことはない。決して貶しているわけではないが、彼は取り立てて特徴のない人だった。呪術師として、抜きん出ているわけでもない。見た目だって、すごく普通。好きになったきっかけなんて、ちっとも思い出せないし。それでもわたしはもう何ヶ月もの間、先輩のことを好いていた。
ずっと好きでいるということは、とても簡単なことだと思っていた。勝手にバイブルだと崇めている少女漫画も、散々泣いた恋愛ドラマも、ヒロインの女の子は何年も何年も長い片想いをしていて。だから想いが通じなくても、わたしが一方的に恋をし続けることはとても簡単なことなんだと、そんな風に思っていた。現実はちょっと違うと知ったのは、つい最近のことだった。
ラブレターを出そうと思ったのは、いつまで経っても背中をじっと見つめ続けることに嫌気がさしてしまったから。わたしはこんなに好きだというのに、彼はわたしのことをちっとも知らない。名前だって、把握してないかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなくなった。連絡先の交換でもよかったのに、わざわざラブレターを選択したのは、知らない子から突然告白されたりしたら意識せざるを得ないのではないか、というみっともない下心に過ぎない。好きな人に認知されたい、そんな感情は知らなかった。けれどいざ知ってみると、非常に人間らしい欲だとも思った。
わたしは先輩の靴箱に、ラブレターを突っ込んだ。『好きです』という気持ちと『月×日、放課後に自販機前で待ってます』と今日の日付を書いておいた。返事がもらえなくなることは、これで防げたはずだった。
放課後、寒い自販機前。春の訪れは未だ遠い。わたしはさっき買ったばかりのカフェラテの缶で暖をとりながら、先輩がこの場所に来るのを今か今かと待っていた。期待値は低いけど、もしかすると、もしかするかもしれないし。そうやって三十分ほど待ったころ、現れたのはとても以外な人物だった。
夏油傑。同級生の特級呪術師。長い髪の毛を後ろに結び、前髪を一房だけ垂らしている独特なヘアースタイル、加えて制服のボトムをボンタン(というらしい。わたしは最初鳶職の人の制服だと思っていた)にカスタム済み。十人中十人が口を揃えて不良と言うような風貌だが、物腰はとても柔らかい。校内屈指のモテ男の登場に、わたしはにわかに動揺した。夏油のモテっぷりたら凄まじくて、同じく特級呪術師の五条も勿論モテるのだが……なんというか種類が違う。俗な言い方をすれば、夏油は“ガチ”でモテるのだ。造形が整っている五条は、どちらかといえばミーハーなモテ方をする。でも夏油は、トラブルを招くような好かれ方をする。任務の先々でラブレターを貰うような男だ。しかも律儀に返事を書いているらしい。羨ましくないといえば嘘になる。けれど、わたしは不特定多数にモテたいわけではないのだし。たったひとり、好きな人から好かれればそれで十分だ。
わたしはベンチに座ったまま、夏油の方から視線を逸らした。夏油が自動販売機に来ることは別に、変なことだとは思わない。高専にある自動販売機の数は少ない。しかし夏油は、自動販売機には目もくれず、わたしの前で足を止めた。ベンチに座りたかったのだろうか。しかしここに居られるのはまずい。そろそろ先輩が来るかもしれないのだし。
「夏油、何か用?」
何か用事があるのなら、さっさと済ませて欲しいと思った。夏油はただの同級生だから、先輩がわたしたちを見たとしても、勘違いするようなことはないだろう。でも純粋に邪魔なので、早々に御退場を願いたかった。
夏油はにっこりと笑ったまま、おもむろに懐へ手を突っ込んだ。そして白い封筒をひとつ取り出して、あろうことか読み始めた。
「本日は、お日柄も良く……」
「ちょっと、待った!」
夏油の手の中にあるのは、先ほど先輩の靴箱に入れたラブレターに間違いない。赤いハートの可愛いシールは、わたしが悩んで選んだものだ。何故夏油それをが持っているんだ。どうして夏油は当たり前のようにそれを読み上げているんだ。次から次へと疑問符が湧いて出てくるが、とにかく手紙を取り返さないことには始まらない。夏油は「スピーチかと思ったよ、長い」などと失礼すぎる文句を垂れながら、つらつらと手紙を読み進めている。
「ずっと前からあなたのことが……」
「駄目! ほんとに読まないで!」
なんとかして手紙を取り返すべく、わたしは手を夏油に手を伸ばした。しかし夏油はひらひらとそれを避けるばかりで、手紙は指先にも掠らない。とうとうわたしの手が彼の肩を掴んだ時、夏油は一歩下がって微笑んだ。
「靴箱、間違ってたよ」
「でしょうね! わかった、悪かったから! その手紙を返してよ!」
体温が急激に上昇し、身体が沸騰してしまいそうなほどだった。顔はおろか、耳の後ろまで真っ赤になっているに違いない。なんて極悪非道な人間なんだ。こいつがモテるだなんて、何かの間違いに違いない。
「どうしようかな。私の靴箱に入っていたのだから、これはもう私のものだよね」
「そんなわけないでしょ!」
夏油は相変わらずひらひらと手紙を弄んでいる。本当なら今頃、この手紙は先輩の手元にあったはずなのに、わたしってばどうして靴箱をしっかり確認しなかったんだろう。純粋な力も術師としても格が違うわたしでは、夏油から手紙を取り返すことが出来ない。
夏油がこうやってわたしに直接会いに来たのには、おそらくわけがあるはずだ。何かしらの交渉をするために、わざわざここへやってきた。彼の条件を呑むのは少し抵抗があったが、そうも言ってはいられない。夏油がラブレターを五条に見せたが最後、噂話はあっという間に学校中に広がるだろう。考えるだけでもおそろしい。
「どうしたら、返してくれるの?」
わたしが渋々尋ねると、夏油は「物分かりが良くて助かるよ」と答えた。やっぱりな、と思ったがそこは口にしなかった。
「映画を一緒に見て欲しいんだ。見たい映画があるんだけど、実はホラーが苦手でね」
わたしは、この嘘つき、と思ったがこれも口にしなかった。
◯
夏油が指定したのは、それから三日ほど経った土曜日の夜。映画はレンタルをしてきたDVDだった。「君の部屋でも良いなら、そっちでもいい」と彼は言ったが、わたしの隣は硝子である。夏油が出入りしているところは見られたくない。夏油の隣は五条だが、五条は今日明日は任務で居ない。先輩に見られでもしたら、どんな言い逃れもできないだろうけど、そこは大丈夫だと夏油が太鼓判を押したので信用することにした。
コンコンとドアをノックして、夏油の部屋に上がり込む。「どうぞ」と声がかかったので、手土産のお菓子を片手に、彼の部屋の扉を開けた。
「夏油〜お菓子もってきた、けど……」
上裸の夏油が、いや正確には今まさにスウェットを着た夏油が、ベッドの上で寛いでいた。少し湿った髪の毛は、いつものように束ねられておらず、肩より下でウロウロしている。
「“どうぞ”って言わないでよ!」
「見えた?」
「見えるに決まってるでしょ! 部屋からドアまで何メートルだと思ってるの?!」
「はは、えっち」
「帰る」
こいつがモテるだなんて、やっぱり何かの間違いなんだ。硝子はクズだって言ってたし。
「帰ったらラブレターは返さないよ。ほら、映画見ようよ。お菓子食べながら」
人質のことがなければ、すぐにでも帰ったのに。わたしは手招いている夏油の隣に腰掛けて、買ってきたポテトチップスの大袋を開けた。「私もうすしおが好きなんだ。同じだね」という夏油の言葉をスルーして、わたしは黙って再生ボタンを指で押した。
話題になっていた割に、映画の内容はありふれた怨霊ものだった。良くある呪霊の被害を、呪霊が見れない人間が聞き齧っただけの知識で脚本したような内容。確かに演出は怖いけど、夏油がこれを怖がる意味がわからない。それなのに、ガタンという物音がすると、「怖いね」と呟きながら身を寄せてくる。その度わたしは彼から距離を置くので、そろそろ背もたれにしていたベッドから身体がはみ出てしまいそうだ。大袈裟なバッドエンディングに言葉を失っていると、夏油がすっと立ち上がった。
「珈琲、おかわりいかが?」
「いい。食欲失せた」
「だよね。……次なんだけど、ここに行こうか」
当然、この映画が終わればあの手紙は返ってくるとばかり思い込んでいた。わたしは「話が違う」と異を唱えたが、夏油は涼しげに笑っている。空になったマグカップをシンクへ運びながら、夏油は楽しそうに口を開いた。
「私は映画を見たらすぐにラブレターを返すとは言ってないよ」
半ば脅しのような文言に、わたしはひとり絶句した。
◯
流行りのカフェ、露店のタピオカ。中華街──夏油が観光客に、現地の人と間違えられていたので少し笑ってしまった──での食べ歩き。水族館に、そして今は遊園地。デートコースというデートコースをあらかた網羅しても、夏油は手紙を返さなかった。「次なんだけど」という文言は、もうすっかり当たり前のようになっていて。わたしも「ここ行こうよ」などと提案をするくらいには、この関係に慣れきっていた。
観覧車で夜景を見ることなんて、自身には縁のないことだとばかり思っていた。宝石をばらばら巻いて光らせたかのような、雑多な光は結構好きだ。任務でも何でもないような日に、誰かと見るのは悪くない。とても小さな遊園地だ。夏油とここを巡るのは楽しかった。彼もそう思ってくれているなら、嬉しいけれど。
ところで。明かりのひとつも灯っていない室内だと、夏油の顔は良く見えなかった。いつもそれとなく饒舌な夏油が、珍しく黙り込んでいる。気分でも悪いのかもしれない。わたしは夏油の顔を良く見ようと、彼の方に身を近付けた。
「次なんだけど」
座ったまま遠くを眺めていた夏油が、ようやく口を開いたのでわたしは少しホッとした。解散の前に次の約束をするのは、今までと変わらないパターンだ。
「どこに行くの?」
夏油は細い目をもっと細めて、唇にゆるりと弧を描いた。そして懐に手を突っ込んで、少しくたびれた封筒を取り出した。
「返すよ、おしまい。悪かったね。色々連れ回してしまって」
わたしの手に持たされたのは、あの日間違えて夏油の靴箱に入れてしまったラブレターだった。予想外の返却に、わたしは言葉を失ってしまった。夏油はクスクスと笑っている。
「解放してあげる」
「うん」とか「わかった」とか「ありがとう」とか。夏油には確かそんなことを言ったと思う。観覧車が地上に降りてしばらくしても、わたしと夏油はじっと座ったままだった。
係員のお姉さんに退出を促されるまで、互いに会話は交わさなかった。
◯
結局、夏油が何を目的としていたのかについては分からずじまいだった。羞恥の結晶であるラブレターは、潔く全文を書き換えて、今ふたたびわたしの手元に生まれ変わった。
夏油とわたしは、仲の良い同級生という関係に戻った。いつも鋭い硝子には「夏油とデキてなかったんだ」と意外な顔をされたけれど、わたしは曖昧に肯定した。
先輩は相変わらず素敵な人だった。教室の窓から見かける姿は、以前とちっとも変わりない。それに、この間は廊下でわたしの荷物を代わりに持ってくれた。「重そうだね」と優しく声をかけながら。知られていないとばかり思っていたけれど、彼はわたしの名前も知っていた。嬉しいなんてものじゃない。少し前のわたしなら、天にも昇る心地だった。ルンルンと楽しげにスキップをして、そして硝子に報告して……。
なのに、素直に喜べないのはどうしてだろう。
わたしは自動販売機の前にあるベンチで、ひとり座ってぼんやりとしていた。ジュースを買いに来たはずだが、いざ自販機を前にすると何故か買う気が失せてしまった。ラブレターは手元にある。今度こそ間違えなければ、先輩にこれを渡すことだってできるだろう。わたしは貴方を好きですと、知ってもらうことができるだろう。──どうしてわたしは、それを躊躇っているのだろう。
ジャリジャリと砂を蹴っていると、ひとりの男が現れた。
「どうしたの、お腹でも痛い?」
声をかけたのは先輩だった。わたしが焦がれる、好きな人。だというのに、気分は晴れない。暗く重たい気持ちが、わたしの中を渦巻いている。わたしは「大丈夫です」と返事をして、すぐにその場から離れた。先輩のことが好きだったはずなのに、わたしはこの場に現れた人物が先輩であったということに、ひどく落胆している。
先輩は追っては来なかった。当然だ、彼とわたしは“先輩と後輩”以外のどんな関係でもないのだから。少し前はそのことがとても嫌だった。でも今は、それよりもずっと嫌なことがある。わたしは少し校舎から離れた場所にあるベンチに腰を下ろした。走ってきたから、少しだけ息が上がっていた。
「なんで逃げちゃったの? 仲良くなるチャンスだったのに」
「夏油、見てたの?」
あげる、と差し出された珈琲は、彼が飲むには甘すぎる銘柄だ。
「言えば良かったのに。あの人、君のこと気になってるよ」
「うん。……そうかもしれないけど」
夏油が隣に腰を下ろした。彼の手元にある缶珈琲は、苦味の強いブラックだ。わたしは彼に貰った缶のプルタブを開けて、ひとくちだけ飲み込んで話を続けた。
「なんか、なんで好きだったのか分からないんだよね。わたしこそ、きっと名前くらいしか知らなかったのに」
「……私とデートしてから?」
「もしもそうだって言ったら?」
ボトン、と大きな音がして、わたしは夏油に顔を向けた。夏油の足元に、スチール缶が転がっている。幸いなことにプルタブはまだ開けていなかったらしい。珈琲は一滴も溢れていなかった。大きな手で顔を覆った夏油が、「こっちを見るな」と呻いている。
「な、なんで夏油がそんな顔してるの」
「君、ずるいだろ。それは……」
ずるいのはどう考えたって、夏油だ。あれだけ勝手に人を振り回して、それであっさり「これでおしまい」だなんて終わらせて。大きなピアスが付いている耳たぶは、すっかり真っ赤になってしまっているが、髪や手のひらでは隠しきれていない。
「夏油、ライターかしてよ」
「え、吸うの? 君、煙草なんて吸ってなかったろ。喫煙者が言うのもなんだけど、できれば吸わない方がいいよ」
「とにかく、かしてよ」
奪うようにして夏油からライターをとって、わたしはラブレターに火をつけた。白い手紙に、茶色が広がる。燃え広がるのが思ったよりもずっと早くて、わたしは「ひゃっ」と手紙を落とした。
「な、何をしていてるんだ!」
照れて顔を真っ赤にしていた夏油が、今度は顔を真っ青にして勢いよく手紙を踏んでいる。「馬鹿!」と声を荒げながら、手紙に砂をかけている姿が可笑しくて、わたしは思わず声をあげて笑ってしまった。
[newpage]
自慢じゃないけど、私は人に好かれる方だと思う。だというのに、彼女の視線の先にいるのは自分ではない。彼女の視線を独り占めするのは、取り立てて特徴のない男だった。
彼女が誰を好きになろうが、それは彼女の勝手だろう。そう分かっていたけれど、どこか腑に落ちない自分がいるのもまた事実で。性格の悪い話だが、さっさと告白でもなんでもして、さっさとフラれてしまえばいいとすら思っていた。男は彼女を気にも止めない。私ならすぐに彼女の視線に気が付いて、彼女の想いに応えるというのに。
白い封筒が自身の靴箱に入っていた時、柄にもなく心臓が跳ねた。その封筒は、先刻まで彼女が大切そうに握りしめていたものだったから。そんなはずはないと思いつつ、期待してしまうのは人間の性だ。はやる気持ちを抑えつつ、私は手紙をそっと開いた。あとは、まあ。お察しというわけだ。
あろう事か、彼女は私の靴箱と男の靴箱を間違えた。そんなミスをする奴がいるか? と思ったが、彼女はそんなミスをする子なのだ。うっかり屋さんのおっちょこちょい。そういうところが憎めなくて。そういうところが、好きなんだ。
私はこのラブレターを人質に、彼女と少し仲良くなった。怖くも何ともないホラー映画を一緒に見て、流行りのカフェに足を運んだ。水族館にも行ったし、中華街にも、遊園地にも足を運んだ。そしてようやく気が付いたのだ。この行為に何の意味もないということを。自慢じゃないが、私は人に好かれる方だ。でもたった一人、好きな女の子を手に入れることすら出来やしない。彼女は男に「好きだ」と誠心誠意伝えようとしたのに、私といえばどうだ。男らしさのかけらもない。
「解放してあげる」と言ったのは他でもない私だったのに、彼女が少しでも落ち込んでいればいいと思った。最近では、彼女から「次はどうしようか」と提案することさえあったから。期待しない方が、難しかった。もしかすると、自分のことを少しでも好きになっているかもしれない。もう先輩のことなんて、ちっとも好きじゃないかもしれない。そんなみっともない期待を幾度ともなく繰り返しては、自身の小狡い手腕に胸を痛めた。
──自動販売機の前に足を運んだのは、本当にただの偶然だった。彼女は男と二言三言ほど言葉を交わしたあと、逃げるようにしてその場を去った。敵に塩を送ってやるなんて、本当に自分らしくない。でも私は自動販売機で缶珈琲をふたつ買って、慌てて彼女の後を追ったのだった。