浮雲



家柄、術式、呪力の有無。呪術師という世界はとにかく狭く、生き辛い。

お見合いという古めかしい儀式を強要されたのは、実はこれが初めてだった。いつまでもふらふらと遊び歩いてばかりおらず、いい加減に籍を入れろという実家からのご通達だ。御三家とまでは行かずとも、わたしの家も由緒正しき呪術師の家系だった。

──とはいえ、家は壊滅寸前だったが。

相伝の術式がここ何十年と産まれていない。産まれるのは、ささやかな呪力と相伝とは似ても似つかぬ術式を有した子供ばかり。近年に至っては呪力を持たぬ者も多い。これがいわゆる呪いや縛りの類ならば、多少の諦めもついただろうに、別に天与呪縛というわけでもない。原因ははっきりとしなかった。

原因ははっきりしないけれど、我が家の術師としての血脈は間も無く途絶えようとしていた。つまるところ、空前絶後の大ピンチというわけだ。

それらを踏まえ、此度の見合いの話は来た。写真を見るに、相手の男は薬にも毒にもならないような容姿だった。第一印象は悪くない。何度か電話をして話を聞くと、どうも彼は呪力や術式を持つ家の者ではないようだった。また、彼自身が他に特別な力を身につけているわけでもなかった。

往々にして、持たぬ者は持つ者を羨むというもの。術式を持たぬ非術師である男は、当然呪力も無いに等しい。ひょんなことで術師や呪霊の存在を知った男は、自身には無いその特別な力を強く求めた。男には大層、金があった。

術師や非術師を問わず、多くの人間が良く知るような大企業に勤め、それなりの地位を持つ男は家柄を欲した。力も欲した。没落寸前の我が実家は財産を欲していた。つまり、わたしは金で売られたのだ。別に珍しい話じゃない。この薄暗い世界には、とても良くあることだった。わたしが子供を成して、その子が優れた術式を持てばまさに万々歳というわけだ。駄目でもまた次に繋げばいい。男と婚姻を結べば、しばらく金にも困らない。それは決して悪くない計画だった。

実家からの後押しもあって、わたしはこの見合いを断ることは出来ないだろう。

何度でも言うが、男は悪い印象ではなかった。だから、きっと大丈夫。きっと男を好きになれる。わたしはそう強く意気込んで、見合いの会場を訪れた筈だった。



白く清浄なティーカップに、小さく金の縁模様があしらわれている。ひとつの汚れもない美しい茶器の中に、紅色の液体が注がれた。ガーネットを思わせる深い赤色は、ゆらゆらと静かな水底を揺らしている。まるでいっとう素晴らしい宝石のような紅茶を、男がゆっくりと飲み下した。飲み下す男もまた、一等級の男だった。

「飲まないのかい?」

都内某所の高級ホテル。そのラウンジ。素敵なテーブルの上には、食べ切れないほどのお茶菓子が並んでいる。当然わたしの目の前にも、紅茶を注がれたティーカップがあった。わたしは勧められるがままに紅茶を口元へ持ってゆき、たったひと口だけ喉の奥に流した。

──

先に会場のラウンジへ着いたのはわたしの方だった。相手の男は、仕事の都合で少し遅れているらしい。わたしはそれを気にも留めなかった。待つのはそれほど苦にならない。

豪奢に飾られた店の中。案内されたのは一番奥の席だった。とはいえ、客は他に誰もいない。あまり人気のない店なのかも、と思ったが男が人払いを済ませたと考えた方が妥当だった。

高い階層にあるラウンジなので、大きな窓から青い空がよく見える。ぷかぷかと浮かぶ白い雲をしばらくぼんやりと眺めていると「お待たせしたね」と声がかかった。わたしは「いいえ、そんなことは」だの「たった今しがた来たところです」だの、そんなありふれた返事をしようと口を開いた。

「久しぶり、四年ぶりかな。元気にしてた?」

その声にはとても聞き覚えがあった。だからわたしは、自身の耳を三度も疑った。まさかそんな筈はないと、三度きっちり聞き返した。男は「もしや忘れてはいないだろうね」と訝しげにこちらを見た。

見合いの写真とは似ても似つかぬ男が、こちらに手を振って微笑んでいる。男は長い黒髪をハーフアップにしてゆったりと結び、濃紺の着物を身に纏っていた。品の良いらくだ色の帯は、着物の古臭い印象をものの見事に打ち消して、彼の佇まいを“お洒落で少し個性的”と呼べるようなものに変えていた。

男は着物と揃いの色をした羽織を脱いで、流れるような所作でわたしの前に着席した。

「さて、お見合いを始めようか」などと楽しげにのたまっているこの男のことを、どうして忘れることなど出来ようか。男はゆっくりと紅茶を飲んだ。わたしは男に勧められ、ろくに味もしない紅茶をたったひと口だけ喉の奥に流し込んだ。


──夏油傑。まるで真夜中のような着物を身に纏って、涼しげに紅茶を飲んでいるこの男の名前だ。夏油傑は学生にして、すでに特級の位を持っていた。彼は才能、術式、呪力の全てが申し分ないほどに素晴らしく、あまり余ってお釣りが出るような優等生。また見目麗しく、品行方正。後輩や教師からの信頼も厚い、まるで絵に描いたような人物だった。

そしてにわかに信じがたいことであるが、学生時代のわたしは彼と交際関係にあった。

「げ、とう」
「酷いな。前みたいに“傑”って呼んでくれよ」

困ったように眉を下げて、男は小さく肩をすくめた。

「勝手に紅茶にミルクを入れないで」
「ストレートよりも好きだろう」

わたしたちが三年生になった秋のこと。小さな村を丸ごと消して、夏油傑は消息を絶った。そしてそのまま呪詛師になった。だからわたしと彼の関係はそれきりだ。

わたしは慌てて鞄を身体の近くへ引き寄せた。華奢な椅子を押し退けて、さっさと逃げてしまおうと考えた。この場に長居して事態が好転するとはとても思えない。傑の目的が何であれ、どうせ碌なものではない。彼は敵だ。わたしはそう思わなければならない。

「おっと、逃がさないよ」

慌てて席を立とうとしたわたしの脚を、ぬるりとした“何か”が捉えた。黒々として、ところどころが斑点模様のそれは蛸の足にとてもよく似ていた。傑がすいっと指揮者のように指を振るうと、蛸はわたしの脚にぬるぬると絡んだ。おおかた、彼の操る呪霊だろう。テーブルの影から這い出た蛸足は、ぎゅうとわたしを力強く縛めた。

「何のつもりなの」
「さあ。なんでしょう?」

長い足に無理矢理縛りつけられるようにして、わたしは再び椅子に戻った。

「本当のお見合い相手はどこ?」
「だから、私がそうだって」
「ふざけないで」

かつての傑は、人を適当にあしらうような軽薄な笑みを浮かべることはなかった。行儀悪く足を組み替えた傑は、皿に乗った焼き菓子をひとつ鷲掴んでがぱっと大きく口を開けた。

「君の家が持っている呪具が欲しい」

そのままばくんと焼き菓子を豪快に飲み込んで、傑はつらつらと言葉を続けた。

「それとこれに、どういった関係があるの?」
「そんなことを説明しなければならないほど、君は馬鹿ではないはずだ」

わたしはぐっと押し黙った。

呪具。わたしの実家が辛うじて威厳を保つことが出来たのは、たったひとつだけ“特級”の位を冠する呪具を所有していたからに他ならない。どんな呪具か教えてもらったことはない。長い棒のような形をしたそれを、小さい頃に握らされ、バチンと強く弾かれてからは見てもない。実子といえど、能力の全貌は殆ど不明だ。それもそのはず、家宝である特級呪具を使いこなせるような人間は、ここ数十年現れていなかった。

「あの呪具は、術式も途絶え、もう金を得るしか手段の無い君の家に唯一残った財産だ。……ああ、術式といえば君も財産に違いない。けどまあそんなに大した術式でもない」

その呪具をどうするつもりだ、と彼に尋ねることはしなかった。用途は火を見るよりも明らかだ。もちろん、使うつもりだろう。

つまりわたしは人質というわけだった。呪具と引き換えに身柄は解放されるだろう。しかし結婚の話が無くなれど、家が呪具を手放す選択をするだろうか。解放の期待値は限りなく低い。

わたしはじっと傑の方を向いたまま、まだ自由の効く手でスマートフォンを起動した。傑に気付かれる前に、何とかして助けを求めなければならなかった。ひとりで現状を打破出来るほど、わたしは優れた術師ではない。呪具と引き換えになった今、実家の助けは期待できない。

「ばれてないとでも思った?」

ずるんと背後の壁から勢いよく飛び出た魚のような呪霊が、わたしの手からスマートフォンをさっと拐った。傑の使う呪霊操術は実に手数の多い術式だ。あっけなく奪われた四角い電子機器を、傑は忌々しげに睨みつけた。

「悟か。まあこの状況において最適解だけど……妬けるね」

五条悟。彼もまた、わたしたちの同級生だった。最強の名を欲しいがままにする特級呪術師。彼は夏油傑の、たったひとりの親友だった。

「君、相変わらずだね。爪が甘いって通信簿にも書かれてただろ」

妙にテンポを崩されてれてしまうのは、彼がかつての恋人だからだろうか。そんなことを書かれたような記憶はない。大きく腕を伸ばし、食って掛かろうとしたわたしの視界はぐにゃりと不自然に歪んだ。世界がゆっくりと暗転する最中、伸ばした腕を傑が優しく掴んだのが分かった。


「敵だと認識したのなら、そいつの目の前で飲み食いするのはやめた方がいいよ」





薄ぼんやりとしていた意識がはっきりと覚めた時、部屋には誰もいなかった。わたしは六畳ほどの狭い和室に、転がされるように寝かされている。もちろん見覚えのない部屋だ。痛む身体に鞭を打って起き上がると、ようやく少し状況を飲み込むことができた。

いぐさの香りがふんわりと広がる。

傑とわたしは恋仲だった。それを今更どうこうしようと思うことはない。傑はわたしに何も言わず、呪術師の世界から姿を消した。永遠に。

悟は最後に会ったそうだ。硝子も会ったと言っていた。わたしだけは、去り際の傑をひと目見ることも叶わなかった。彼と最後に交わした会話は、任務に出る直前の「いってらっしゃい」だけだった。

傑は長らく、何かに深く思い悩んでいるようだった。わたしはそれを知っていた。けれど、それでいて最適な言葉をかけることは出来なかった。それは多分、何にも変え難いほどの大罪だったに違いない。

床の間でそっと炊かれていたお香が、蛇のように長い煙を燻らせている。白檀のふくよかな香りが、いぐさの香りに織り混じった。なんとも例え難い不思議な香りは、今の“夏油傑”によく似ている。

彼の姿はここにはなかった。床の間以外何も無い小部屋に、わたしはひとり佇んでいる。おそらく助けは来ないだろう。わたしは深いため息をついた。

狭い和室は、床の間を除いた三方向を、天井まで続く大きな障子の壁に囲まれている。障子の枠のありとあらゆる場所には、隙間なく呪符が貼られていた。格子や錠の類は無いが、呪符がその代わりを果たしているのは想像に難くない。当然のように、わたしは財布も鞄も、スマートフォンも持ってない。武器になり得るものは全て、鞄の中に入っていた。

「呪符が一枚でも剥がれればいいんだけど」

傑はいない。もしかすると、二度とわたしの前には現れないかもしれない。ならば今のうちに脱出の算段を整えておくのが良いだろう。呪符からはビリビリとした強い呪力を感じる。がりがりと削るように爪を立てて呪符を剥がそうとすれば、呪力の棘がわたしの指に鋭く刺さった。

今の今まで、最後の最後でも良いからもう一度傑に会いたいと思っていた。何も言わずに去ってしまった優しい恋人との終わりを、わたしはずっと悔やんでいた。

ただ、会って何かが変わったとでもいうのだろうか。

呪詛師の傑は呪術規定九条に基づき処刑対象となっている。万一異変に気付いた誰かがわたしを助けに来たとすれば、彼はどうなってしまうのだろう。傑は簡単に死ぬような人間ではない。救出を試みた術師は、十中八九返り討ちにあうだろう。ああでも、だけど。

ポタポタと人差し指の先から垂れた血が、真新しい畳に赤い染みを作った。いつの間にか怪我をするほど障子の枠を引っ掻いていたらしい。呪符は剥がれるどころか、擦れるような気配もない。

そんな折、ぴくりともしなかった障子をガラガラと乱暴に大きく開け、背後から部屋に入り「あー!」と大きな声を上げたのは、他でもない夏油傑その人だった。

「ちょっと間に合わなかったか……」

見慣れない着物──僧衣を見に纏った傑は、ばたばたと慌てた物音を立てて、未だ諦め悪く呪符を引っ掻いているわたしの隣にどっしりと座った。

「その呪符は剥がれないよ。君程度じゃ」

当たり前だろとでも言いたげに、傑はわたしの手を取った。そしてあーあ、と呆れ声を上げながら、傷だらけの指先を睨んだ。ぽりぽりと親指で眉間を掻く仕草は、学生の頃から変わらない彼の癖だった。

「もう少し寝てると思ってたんだけど。ごめんね、起きてひとりじゃ寂しかったよね。でも怪我するまで引っ掻く? 普通」

彼の後ろからずるずると這い出た呪霊が、オエッと嘔吐いて四角い箱を吐き出した。箱はぬるぬるの粘液らしきものに覆われている。良く見ると上蓋には赤い十字架が刻まれていた。

呆然とそれを見ていたわたしを膝の間に座らせて、傑は救急箱から脱脂綿と消毒液を取り出した。背後からのそりと覆い被さって「ちょっと沁みるよ」と言いながら、血塗れの指先へ丁寧に応急処置を施している。

「指が無くならなくて良かったね」
「指が無くなるような呪符をべたべた壁に貼らないでよ…」

わたしはもちろん、傑も反転術式を使えない。怪我は当然自然治癒力で治すしかない。消毒を終えた傑は、ぺたぺたとわたしの指に花柄の絆創膏を貼った。

「何、その絆創膏」
「可愛いのじゃないと嫌って言う子がいてね」

ふうんと素っ気なく返事をすると、「あれ、妬いちゃった?」と顔を覗き込まれた。妬いてない。この状況でやきもちを焼くわけがないでしょうが。大量殺人犯の元彼に人質に取られているというのに、どうも調子が狂ってしまう。

「わたしを人質にしたところで、たぶん呪具は手に入らないよ」
「そうかもね。なら君は一生私の人質だ」

人質らしく縛って転がしておこうか? なんてね、と朗らかに笑う傑はどこまで本気か判別がつかない。

「わたしをどうしたいの?」
「どうされたいの?」

聞いたことにすらまともな返答が返ってこない。振り返って彼の瞳をじっと見た。最後に見た時よりも、ずっと穏やかな表情をしている。

わたしを抱き枕のように抱え込み、傑はごろんと畳の上で寝転んだ。わざとらしく耳元で「どうしようかな」と囁いて、傑はわたしの肩に顔を埋めた。

「好きだよ」

弾むような声の調子に、思わずごくりと喉が鳴った。緊張で強張った肩に、くすくすと楽しげな吐息が掛かった。

傑が勝手にさよならをしてからずっと燻っていた気持ちに、チリチリと炎が灯される。長い間ずっと止まっていた鼓動が、熱を持って再び動いた。

「それ、絶対おかしいよ」
「おかしくないよ」
「だって傑はわたしに何も言わなかった。会いにも来なかった」
「なんだ、会いに来て欲しかったの?」

そんなことない、とは言えなかった。会いに来て欲しかったのかもしれない。さよならくらい、きちんと言いたかったのかもしれない。もしかすると、一緒に行こうと言われたかったのかもしれない。言われたところで、一緒に行くことは叶わなかっただろうけど。

口を噤んでしまったわたしに構わず、傑は「私はね、」と言葉を続けた。

「もう自分の心に嘘をつくことはやめたんだ。あの日から、ずっとね。だから欲しいものは手に入れるし、気に入らない猿は殺す」

ぎゅうと強く力を込める傑は、あらゆる柵から解放されて、まるで憑き物でも落ちたかのようにすっきりとしている。

「それでもまだ、あの時ばかりは、君が幸せならいいよだなんて思う程度に私は狂っていたんだよ」

ふあ、と大欠伸をして「私はこの後また仕事だ。少しここでだらだらしてから行くとするよ」と呟いたきり、傑はもう何も言わなかった。

宣言通りだらだらを始めた傑は、ぷかぷかと浮かぶ浮雲のように自由だった。







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