好きだなんて二度と言うな


★高専

「ごめんね、夏油君とは付き合えない」

何度も何度も聞いたその台詞に、私は「そう」と気のない返事をした。日が暗く、ゆるやかに傾いている。橙色に輝く夕陽に、ほんの少しの紫が混じった。オレンジに染まった芝生の上に、私はずるりと座り込む。人通りの少ない河川敷。しゃがんだ向こう岸のグラウンドで、子供が戯れる声が響いていた。重い頭を川岸に向けると、赤い野球帽を被った幼い子供が気まぐれにバットを振っているのが見えた。

このやり取りにはすっかり慣れた。繰り返す度にダメージは減る。怪我をした皮膚が厚くなるように、私はどんどんと図太く、そして図々しくなってゆく。こういう所がダメなのかもしれない。そう思えど、今更態度を改める気にはなれそうにもなかった。

可哀想な私は、彼女が音もなく去ってゆくのをただただじっと見つめるばかり。手に持った薔薇の花束も、きちんと着込んだスーツも、今や滑稽なだけだった。

「連続失恋記念おめでとう傑」
「煩いなあっち行きなよ悟」

煙を長く吐き出しながら、声の主の方を見た。面白半分で見物に来ていただろう悟がぽん、と私の背を叩いた。「通算何回目?」という軽口に「数えてないよそんなの」と返事をする。数えてないんじゃない。それこそ馬鹿馬鹿しくなって、数えるのはやめてしまったのだ。

紫煙がゆるりと上ってゆき、悟の髪を燻している。「夏油君はまだ子供だから」と君が言うから、とりあえず身なりだけは整えた。中身はそのうち伴うだろう。誰だってそんなものじゃないか。この世の中の大人は、一体いつ大人になったんだ。ある日を境に突然大人になんてなるわけないだろう。格好のつかない言い訳は、自身が子供であることをより色濃く写してるようで何とも惨めだ。

「何だよそのカッコ。傑、スーツなんて持ってたの?」

悟がゲラゲラと笑った。抑揚を付けずに「葬式用」と正直に告げると、尚可笑しそうに声を上げて笑った。

「葬式用で告るなよ」

とうとう腹を抱え、ひいひいと引き攣った呼吸をして苦しむ親友に、私はついつい足が出た。普段なら突っかかると喧嘩になるところだが、今日は虫の居所が良いらしい。

馬鹿みたいだって言いたいんだろ。分かるよ、私も馬鹿みたいだと思う。早く大人になりたかった。見かけだけでも、大人と同列になりたかった。だから似合いもしないスーツを着込み、紳士よろしく薔薇と共に愛を伝えた。馬鹿だろ。自身の影から這い出てきた呪霊がむしゃむしゃと旨そうに貪っているのは、先ほど散った赤い恋だ。ほんの一瞬詩的な感傷に浸ったが、いいやまだ散ってはないさ、と自嘲気味に笑い、花を一本毟って捨てた。

12本あった花は、毟られ齧られ気が付いたら9本にまで減っていた。花屋の店員によると、薔薇の花束は12本で『付き合ってください』という意味合いになるらしい。9本だと何だろうか。何だっていい。どうせこの花もゴミ同然だ。

「売れてねえ芸人みたいだ」と話を発展させている悟は今、芝生の上でごろごろと転がりながらコンビ名を考えていた。

「あ、“祓ったれ本舗”なんていいんじゃね?」

「いいね」と私は呟いて、花束を河川に放り投げた。緩く半円を描いて飛んでいった花束は、ぷかぷかと間抜けな姿を晒しつつ、どんぶらこと河下へ流れていった。

全く、お後がよろしいようで。





『あ、もしもし夏油君? 今暇かな。いやさ、この子酔っ払って寝ちゃってさ。そうそう、居酒屋で飲んでたの。私たち二軒目行くから、迎えにきてやってもらえない? あ、本当? ありがとうね。うん、場所は新宿の……』

時刻は11時を少し回ったところだった。私は古い木製の椅子を部屋の窓際に引っ張って、月明かりを頼りに本のページを捲っていた。金曜日の夜。明日は任務も授業も無い。任務が無いということは、彼女に会える可能性がこれっぽちも無いことを意味していた。

彼女は二級の呪術師だった。術式の相性が良いため、私は先輩にあたる呪術師の中では彼女とバディを組むことが多かった。

電話口の向こうから『よかったね、迎えにきてくれるって』という声が漏れている。彼女の声は聞こえない。寝てしまったのは本当なのだろう。

私は椅子に読みかけの本を置いて、身体を伸ばし立ち上がった。長く座っていたために、ぱきぱきと節々が音を立てる。私は首を前後に曲げた。

もう寝ようかと思っていたところだったので、髪はだらりと解いていた。寝巻き同然の黒いスウェットの上に、買ったばかりのパーカーを羽織った。彼女に会うのだ、少しはまっとうな身なりでいたい。けれど気合の入れ過ぎに見えるのは避けたい。難しい。なんとも絶妙な匙加減だった。

とりあえず清潔感はと思い、解いていた髪をざっくりと纏める。時間は余りなかったが、電車を乗り継いでも新宿までは20分とかからないだろう。別に終電の時間でもない。私はサンダルを突っかけて、財布だけ尻ポケットに突っ込んだ。古いブリキ玩具のような青い扉が、静かな廊下にガチャンと重たい音を響かせた。

積極的に、それこそ誰から見ても分かるほどにアピールをすることに対する利点は、彼女の友人や同輩という外堀をすっかり埋めることができるという点にこそある。“夏油傑は彼女にゾッコン”という事実は、彼女に余計な虫が付き纏うのを防ぐ牽制にもなる。そして何より、有事の際にこういったお呼び出しがかかるのだ。酔い潰れた彼女の送迎に呼ばれたのは、これで三回目のことだった。

少しの優越感とともに、鋭い絶望が胸に刺さる。侮られているのは明白だった。脅威とも見做されていない。それこそ、彼女の友人からでさえ。結局のところ、私は彼女らから見て“ほんの子供”に過ぎないのだった。だからこうやって何の躊躇いもなく送迎を任される。『夏油君は彼女に対し、性欲を剥き出しにすることはない』と、勝手に看板を立てられていることに反吐が出た。

そして、それらを甘んじて受け入れている自分自身にも。



「じゃあ、家まで送ります」
「わざわざ呼び出してごめんね。これ、タクシー代。鍵はいつものポケットの中だと思うよ」
「分かりました。それでは」

居酒屋の中は薄暗い。私は、一番奥の席ですやすやと気持ちよさそうに眠りこけている彼女を横抱きにして店を出た。眠っている人間はあたたかい。彼女の友人らに便利屋のように使われようと、この権利を他人に譲る気はさらさら無かった。誰か他の男がこれを担うなら、私は永遠に便利屋でいい。馬鹿みたいだ。本当に。

彼女の住んでいる小さなマンションは、タクシーに乗っても15分とかからない場所にあった。大きな駅からは歩いて20分ほど。治安はあまり良くなかった。私は二度の送迎のうち一度だけ、部屋の中にまで入ったことがある。とても悪いことをしている気になって、その日はさっさと部屋を出た。浮かれるよりもまず先に、女性らしい飾り棚の片隅に置かれていた呪具が、部屋の雰囲気に似合わないと思ったことを覚えている。

バックミラーにぼんやりと映る男女の虚像は、タクシーの運転手には恋人同士に見えているのだろうか。肩に彼女の体重を感じる。彼女の身体は運転手の急ブレーキでずるりと落ちて、私の膝上に倒れ込んだ。

「すみませんね」
「いえ」

彼女の目は覚めない。私はよく熟れたさくらんぼのような唇を食んだ。これくらいの駄賃を貰うことについては、妥当だろうと思った。



私は彼女の部屋に着くなり、後ろ手で玄関の鍵をかけた。寮とは違う、軽い金属音が静かな部屋にカチャンと響いた。

彼女から貰った“交際お断り文句”は、私の心を削ってゆく。子供だから。何も知らないから。気のせいだから。歳の差があるから。聞くたび毒のようにじわりと広がる痛みは、私の底の方の感情を暗くゆっくりと支配する。

子供と大人の境なんて、今更それを私に求めるのか。毎日のように命のやり取りをしている呪術師に、子供も大人もないじゃないか。同じ土俵に立たせたのは、他でもない君達“大人”だというのに。

何をもって子供と大人を分けるのだろうか。

無防備そのものといった様子で眠り続ける彼女を、そっとベッドの上に横たえた。白いマットレスが音もなく沈む。シーリングライトが眩しくて、6畳のワンルームを照らしていた灯りは消してしまった。首の上まで詰まったシャツは、眠るのに息苦しそうだと思った。私は他意はないと自らを言い聞かせ、ボタンを3つほど外してやった。

白い首元に顔を寄せると、彼女の甘い香りと、居酒屋でついた煙草の匂いが鼻腔を擽った。彼女に纏わりついて離れない他の誰かの残り香に、私は醜く嫉妬した。そして嫉妬するほどに育ちきった恋心に、大きくため息を吐いた。

最初はそう、想いを伝えるだけで良かったんだ。私の気持ちを知ってもらうだけで。けれどすぐ、それでは足りなくなってしまった。欲望の器の底には大きな穴が空いている。満たしたそばからすぐ、欲は滴り落ちてゆく。もっとたくさん欲しい。もっと濃いものが欲しい。欲を注ぐ悪魔が嗤った。私は悪魔の手を取った。

本当は、何もせずに送り届けて帰ろうと思っていたんだ。今だってそう思ってる。

でも、でもさ。私だってひとりの男なんだよ。

ぎゅうと握られたパーカーの裾に、私の喉はごくりと鳴った。理性の鎖が撓んでいる。

『夏油君のそれは恋じゃないよ。身近な年上の異性に憧れるありふれた感情。わたしにもそういうの覚えがあるよ。それに、きっと誰でもよかったんだよ。わたしでも、そうでなくても。周りに異性が少ないもんね、この仕事をしていると。だから私に執着するんだよ。大丈夫、きっとすぐに目が覚めるよ』

かつて彼女に告げられた言葉に、そんなことはないと憤った。もしもそうなら、未だこの胸の奥に燻る気持ちは何だというのか。何度断られても尚、絶えることのないこの痛みは何だ。

夏油傑はまだ子供で。だから彼女に無体を働くこともないだろう。彼女や彼女の同輩はそうやって私に鎖をかける。私もそれに応えようと、自身を頑丈な鎖で戒めた。

眠っていた彼女が身じろいで、薄く瞼を開いた。

「げとうくん?」
「違うよ」

アルコールのせいで意識がまだはっきりとしない彼女が、掠れた声で名前を呼んだ。“夏油”は確かに私だが、私はそれを否定した。

「傑」
「すぐる」
「そう、傑」
「すぐる」

孵ったばかりの雛鳥のように、彼女は単語を繰り返した。アルコールは判断能力を著しく鈍くする。殆ど呼ばせただけの形だ。そこに彼女の意思はない。けれどいつも『夏油君』としか呼んでもらえなかった私は、にわかに浮き足立っていた。夏油君ではなくて、傑。まるで彼女が私を受け入れたかのような錯覚に陥る。

彼女はきっと花だった。だから私は、甘い香りに誘われた。抗えなかった。否きっと本当は、抗おうと思わなかっただけだろう。

「傑って呼んで。もっとたくさん」

すぐる。すぐる。頭の中が痺れるような甘い声で満たされる。けれどすぐに足りなくなる。もっと欲しい。もっと君を私にちょうだい。

燻ったこのあつい気持ちを愛と呼ぶのなら、私は甘んじて呑み込まれよう。でもひとりは嫌だ。君と一緒に呑まれたい。

白い首筋に花を散らした。我慢できず柔く噛むと、彼女の身体が小さく跳ねた。耳朶を丹念に舐ると、吐息の混じった声を漏らした。

ねえ。子供と大人の境なんて、実に些細なことだと思わないかい?

彼女の頬を優しく包み、私は唇を貪った。はやる気持ちを抑えつつ、ゆっくりとシャツのボタンを外して脱がせた。少し指が震えている。彼女の口内は甘かった。

責任とやらは私が取るよ。赤い花が咲き誇った首筋に、もうふたつほど花を増やす。鮮やかな色合いの内出血は、あの日捨てた薔薇のようだ。薔薇は河下に流されて、やがて湾に出たのだろうか。そのままゆっくり、海底に沈むことができたのだろうか。

私は獣を飼っていた。獣は時々手に負えなかった。だから幾重にも鎖をかけ、錠前でしっかりと閉じ込めていた。明日の朝が待ち遠しい。彼女は一糸纏わぬ姿のまま、私を瞳に映すのだろうか。

「子供だと侮っていた相手に無体を働かれる気持ちって、どんなのだろうね」

私は随分我慢した。我慢して我慢して我慢して、そろそろ限界を感じていた。

私には諦める気など、毛ほども無い。

「好きだよ。そろそろ諦めて、私のものになってよ」



ゴトンと重たい音を立てて落ちたのは、理性か、それとも本能か。







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