酒は飲んでも呑まれるな!


(ナマエ視点)

どうしてこんなことになってしまったのか。わたしは、まるで頭蓋に一本一本丁寧に釘を打ちつけられるような鋭い痛みを感じながら、ゆっくりと記憶の糸を辿っていた。四肢は錆びた鉄くずのように軋み、胸はむかむかして、喉のすぐそばまで胃がせり上がったと錯覚するほどのひどい心地だ。それに、昨日散々食べて飲んだはずなのに、とてもお腹が空いている。腕に、見覚えのない青痣がふたつ。カラカラに乾いた喉を煽るように、心臓はばくんばくんと忙しなく波を打っていた。

「うう…」

そんな状況にも関わらず、わたしの喉元から飛び出したのは、掠れてほとんど音にもならないうめき声だった。薄く間が開いたカーテンの向こうから差し込む日光が、もうすっかり夜は明けたことを告げている。チュンと囀る小鳥の声に混じって、どこか遠くでクラクションが鳴った。今は何時、今は何曜日。今、わたしは何処にいるの。見覚えのない広いベッドのシーツは、恐ろしいほどに肌触りが良い。重たい腕を持ち上げて、いつ買ったのか分からないシャツの裾を引っ張った。腕も肩も余っている。シャツは、わたしが着るにはあまりにも大きすぎるものだった。

側にもぞもぞと動くわたしのものではない体温を感じ、背中にひやりと汗が滴った。

考えたくないけれど、考えなければならない。考えて考えて、どうにかこうにかしなければならない。何故なら、わたしは大人なので。



ハタチ、二十歳。日本では二十歳を境に、個人の扱いが子供から大人へと変わる。たとえば、合法的に喫煙が可能となる。馬券をはじめとする公営競技の投票券が買えるようになって、犯罪を犯すと実名で報道されるようになる。ついでにいうと、親の同意なしでも結婚ができるらしい。大人と子供の境目は実に曖昧で、不明瞭だ。けれど、それでは困るようなことはたくさんあって。だから法律は年齢で線を引いて『ここから先は大人ですよ。だけど、ここまではまだ子供です』と、分かりやすく大別している。

二十歳の誕生日を来月に控え、わたしは浮き足立っていた。それは二十歳になったら、どうしてもしたいことがあったからに他ならない。喫煙じゃない、結婚でもない。もちろん馬券を買いたいわけでもない。

わたしはずっとずっと前から、お酒を飲んでみたかった。

お酒。大人たちがこぞって愛するあの飲み物。泡がたくさんあって、しゅわしゅわと喉越しが良いらしいビールに、フルーティーという噂の日本酒。ルビーを煮詰めたような深い色合いのワイン。それに何といっても、宝石のように鮮やかで色とりどりのカクテル。大人は皆一様に、仕事に疲れながら「お酒飲みたーい」と取り憑かれたようにぼやいている。あくまで一説ではあったが、アルコールは仕事疲れを吹っ飛ばすとても素敵な作用があるらしい。わたしもお酒を飲みたい。お酒を飲んで、ほろほろと酔う未知の感覚を味わってみたかった。

「君はただ、大人のしている行為に憧れを持っているだけですよ」と、学生時代からお世話になっている補助監督の伊地知さんは呆れたように言うけれど、「伊地知さんだってこのあとキンキンに冷えたビールありますって言われたら嬉しいでしょ」と返すと気まずそうに黙ってしまった。ほらね。やっぱりお酒、好きじゃないですか。

大人はみんな、お酒が好き。家入先生だって「お酒はいいぞ〜」と日が高いうちからお酒の良さを語っていた。それに、缶ビールのCMは爽やかで美味しいことを煽るような内容だし、お店に陳列している缶チューハイのラベルは可愛いしお洒落だし。

生中、居酒屋、飲みニケーション。大人の嗜み、お酒の席のお付き合い。

正直なところ、全部全部羨ましかった。大人たちがわたしの居ないところでこっそり親睦を深めていると思うと、むっつり嫉妬してしまう程度には。

でも日本では、飲酒は二十歳の誕生日を過ぎてから。法律で決まっていることは、わたしとてしっかり守らなければならない。

「五条先生は居酒屋とか行くんですか?」
「まあたまには行くかな」

職員室にある仰々しい椅子にどっかりと腰掛けながら、五条先生は書類をあっちそっちに仕分けていた。おそらく伊地知さんによって懇切丁寧に揃えられていた書類は、ホッチキス留めしてあるにも関わらずビリビリと遠慮なく引き千切られ、たまに大きく縦に裂けているものすらある。書類を関連する事案ごとに揃えるのは結構大変なお仕事なので、無秩序にバラバラにされているのを見るのはとても心が痛んだ。

「なに?お酒が気になるお年頃?」
「ずばり、とっても気になってます」

四年で高専を卒業して、新卒で補助監督になった。わたしと五条先生とは学生時代から付き合いがある。五条先生は先生だけど、あまり先生っぽい人じゃない。でも偏屈な人が多い呪術師の中では、とりわけ話しやすい呪術師だとは思う。まあ無理難題がちょっと、多いけど。

「いいよ、オマエ来月ハタチだろ。連れてってやるよ、このスーパーイケメン上司がさ!」

ええと、そう。確かそんな感じ。そんな感じで先月のわたしは五条先生と一緒に、初めて居酒屋を訪れる約束をしたのだった。それで確か昨晩が、わたしの誕生日だったはず。そう、今日は誕生日の翌日の朝。



身体がだるいのはもちろんのこと、軽い吐き気がわたしを襲った。太ももから腰にかけてじんじんと熱を持っていて、ヒリヒリとした擦れた痛みすら感じる。これが俗に言う“二日酔い”だとすると、とても辛いものだと思った。大人はみんな、こんな辛い症状に耐えて尚お酒を飲んでいるのだろうか。それって結構、苦行なのではないだろうか。見覚えのないこのベッドは、考えてみたけれどやっぱり知らない。昨晩何が起こったのか、記憶のピースを揃えるのが怖い。白紙のまま、もういっそ全部全部忘れてしまいたい。

「おはよう、身体大丈夫?」

ぬっと長い腕が伸びて、当然のようにわたしを抱き寄せた五条先生が柔らかい唇を頬に落とした。まだぼんやりしていて少し眠たそうな表情は、当たり前だが初めて見る。シーツに溶けてしまいそうなほどに白い肌は、いつも黒い服に覆われているのに今日は剥き出しで。剥き出しな、わけで。

「痛くない?昨日はちょっと無理させちゃったね」

はい、全身隈なく痛みを感じております。でもそれを告げるのは、何故だかとても野暮な気がするのです。わたしが答えあぐねていると、布団を被ったままの五条先生がわたしをすっぽり腕の中に閉じ込めた。整った顔がゆっくりと傾いて、青い瞳を瞑った五条先生の唇が、わたしのそれと重なった。ぬるりと湿った舌先が唇を軽快にノックしている。困って閉じたままだったわたしの唇は、結局のところ1分もせずに強い力でこじ開けられた。五条先生の長い舌が、口の中をいっぱいにして好き放題に暴れている。歯列をなぞり、上顎をくすぐった後、舌と舌はいつの間にか繋がれている指のように隙間無く絡んだ。まるで舌ごと食べられてしまいそうな錯覚に陥るほどの激しいキスは、わたしの脳から酸素が足りなくなるまでしつこく続けられた。ぐちゃぐちゃに混ざって、もうどちらのものか分からなくなってしまった唾液は、飲み込みきれず唇の端を伝って、ひんやりとわたしの首を濡らしている。

ぼんやりし始めた視界の隅で、ようやく離れた舌先から銀色の糸が垂れるのが見えた。

大人の階段とやらを一段どころでなく、三段四段と勢いよくすっ飛ばしてしまったらしいわたしは「これからよろしくね」と微笑んでいる五条先生に何と声をかけるのが正解なのだろうか。

酒は飲んでも呑まれるな。後悔先に立たず。腹水、盆に帰らず。

震えながら「五条先生、」と紡がれた掠れ声は、昨晩わたしたちの間に何があったんですか、と続くことはなかった。何故なら、「悟って呼んで」とむくれた五条先生が、再びわたしの唇をぱくりと勢いよく塞いでしまったからだった。


──


(五条視点)

僕は自室のトイレで、便座を前に膝を三角に立てて、どっかりと座り込んでいた。膝の間に座っている彼女はこの一時間ほど、すっかりしっかりと大人の洗礼を受けている。

僕は、呻き声を上げながら便器にひしとしがみ付き、嘔吐を続けている彼女の髪が汚れないよう片手で押さえた。彼女はずびずびと泣きながら「おさけはもういやだ」と、譫言のような愚痴をしきりに繰り返している。そりゃ、それだけ飲んだらね。嫌いにもなるよね。僕は飲まないから知らないけど。

「ほら全部吐いて」

吐瀉物はすっかり水だけになったので、先ほど食べたものたちはほとんど身体から出て行ったのだろう。可哀想だけど、身体中を隈無くまわったアルコールが抜けるまでは1日程度じゃ足りないかもね。こんなことなら、ハイボールを三杯煽ったところで止めておくべきだった。まあ、意識はあるし後悔もしているようだから、似たような失敗を繰り返すことも少ないだろう。

僕は「きもちわるい、たすけて」と、舌ったらずに助けを求めている彼女の背を優しくさすり、「お水飲みな」とミネラルウォーターのペットボトルを手渡した。彼女は覚束ない指先でフラフラそれを受け取って、従順に僕の指示に従った。ごくり、と喉が上下して、未だ冷たい水が彼女の体の中に吸収される。ぐったりと僕の胸に背を預けた彼女は、涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、こちらをじっと伺った。

「なあに、大丈夫?」

開いたままのペットボトルから水が溢れてしまわないよう、僕は彼女の右手からそっとペットボトルを攫って蓋を閉めた。まだもうちょっと飲ませておきたい。ペットボトルを手の届くところに置いて、彼女の顔を拭ってやる。「お水いっぱい飲めて偉いね。お酒はもうほどほどにしなよ」と慰めながら、胸元に顔を埋め、ぎゅうとしがみ付く彼女の背に手をまわした。すっかりアルコールに溶かされてしまい、くたくたになった身体は、なんとも温く柔らかい。

彼女は合間合間に嗚咽を漏らしながら、「ごめんなさい、もうおさけのみません」と何かに対しての懺悔を続けている。彼女と一緒に居酒屋を訪れて数時間。酔っ払って居酒屋で寝てしまったけれど、僕は彼女の家なんて知らないし、かといって元教え子をホテルに連れ込めるわけもなく。放置なんて尚更無理だ。とはいえ家に連れ帰ってくるのも、正直どうかと思うけれど。

「五条せんせい?」
「そうだよ。おはよう」

やっとちょっと現実の世界に帰ってきた彼女が、僕の名前を呼んでいる。そうだよ、僕だよ。二十歳になったばかりの元教え子を、下心剥き出しで飲ませて酔わせてお持ち帰りしてしまった教師だよ。一応、僕の名誉のために弁明するけど、勿論無理矢理飲ませたわけではない。止めなかったというだけだ。

彼女は僕が肯定すると、ワッと勢いよく顔を歪めた。僕の胸に顔をぐりぐり押し付けながら、うう、と苦しげに呻いている。終いには涙まで流しながら、「ほんとに五条せんせいなの?うう、やだ…さいあくだ…」と何かにひどく悲しんでいた。

そんなに嫌?ものすごく傷つくんだけど。そもそも、誘ったのオマエだよね。こんなに誠心誠意介抱してるのに、何で僕が嫌がられてんの。僕は昨日まで未成年だった彼女を、吐くまで酔わせてお持ち帰りしてしまったことに対して、耳かき一杯ほどの申し訳なさは感じていたのだが、ぐすぐすと涙を流し嫌々と愚図る彼女に、罪悪感はフッと煽られて吹き飛んだ。

理不尽なモヤモヤが込み上げてくる。真っ白い和紙に黒いインクがよく染みるように、僕の中にじわじわとした悪い気持ちが広がってゆく。

「なんでそんな嫌がってんだよ。ほら口開けろ、あーんしな」
「う、ほんとに五条せんせいですか…?」
「そうだって言ってるだろ。開けろ、早く」

渋る彼女の口に、僕は遠慮なく指を突っ込んだ。胃液やら唾液やらでぐちゃぐちゃになった口内は柔らかく、そしてとても熱い。手伝ってやるよ、吐き出すの。僕はちょっとだけ笑いながら、喉の奥をくすぐって、舌をゆるく引っ張りながら、しがみつく彼女の背を摩った。

さっきまで吐いていたんだもの。そりゃ、喉の奥を触られたら出るよね。でももう水だな。ぐちゃぐちゃになった顔がさらに歪んで、可哀想だがちょっと可愛い。僕は、うえ、と嗚咽を挟みながら泣きべそをかいている彼女の目元に唇を寄せた。ぼろぼろと流れる涙はしょっぱくて甘い。海水にも似たその滴を舐めると、海に行きたいなあという馬鹿みたいな気持ちがむくむくと膨らんだ。水着着せてさ、一緒に泳いだら楽しそうだよね。沖縄もいいけど、どうせならハワイがいいな。優しい僕が、綺麗にデコレートされたパイナップルのお酒を飲ませてやるからさ。

「五条せんせい」
「なに?」
「わたしのこと、嫌いにならないで…」

嫌いになるわけないでしょ。嫌いな奴に、僕がこんなに丁寧に介抱するわけないでしょ。彼女の細くてか弱い腕が、僕の背にぎゅうとまわった。体重が全部全部、僕の胸にのし掛かっているにも関わらず、彼女はとても軽かった。

ねえ、それってちょっとは期待しても良いってこと?壊れたおもちゃみたいに「嫌いにならないで」と繰り返す彼女に「ならないよ」と返事をしながら、僕は誘われるように唇を重ねた。噛みついた唇は、アルコールのせいだか胃液のせいだか、ふにゃふにゃとしていて柔らかい。抵抗という抵抗もないので、僕は無理やり舌をねじ込んだ。彼女から香るアルコールの濃い匂いで、僕まで酔ってしまいそうだった。

きっと、キスだって碌に経験が無いのだろう。ふうふうと荒い呼吸の間に、ごくんと唾を嚥下する音が響く。くぐもった声が狭い個室に反響して、とても“イケナイ”ことをしている気分になってくる。いやまあ、これについてはもう、どうやっても弁解出来ないところまでは来ているんだけれど。

「ねえ、ベッド行こうか」

それは、もしかすると「もう寝なさい」といったニュアンスで彼女の耳に届いたのかもしれなかった。昨日の今日までお子様だったこの女の子は、お酒を飲んで酔い潰れて、男の部屋に転がり込むという行為の真意を、本当の意味で知るはずがない。

ぎゅうと背から首にまわった細い腕は、同意と取られても仕方ないよね。依然として苦しそうに唸る彼女の頬を優しく撫でて、涙を拭って、僕はヨイショと立ち上がった。処女だと痛いかもしれないけど、アルコールがまわっているからきっとちょっとはマシなはず。大丈夫大丈夫、僕ってすごく優しいし。

朝びっくりして逃げられるくらいなら、いっそこの夜をホンモノにしてしまっても良いだろう。嫌いにならないで、ということは少なくとも好きという感情を僕に向けているのだから。

まあ万が一他に好きな男がいたとして、その想いが叶ってないことは明白だ。どうも流されやすい彼女のこと、僕で上書きしたところで問題のひとつも有りはしない。

「おさけって、こわいですね…」
「そう?」

加減を違えることなんて、いい歳した大人でもよくある事なんだから。大丈夫僕が隣にいるし、ゆっくり覚えていけばいいよ。また失敗してもこうやって介抱してあげるからさ。

据え膳食わぬは男の恥、だっけ。僕って恥かくの、嫌いなんだよね。

僕は立ち上がったままタンクレストイレの流すボタンを中指で押して、彼女を抱えて寝室へと足を運んだ。無機質な機械音と共に、ざばざばと勢いよく水の流れる音がする。

未成年に手を出したら犯罪だけど、彼女は昨夜0時をもって未成年を卒業したのでセーフ。まあ“真摯なお付き合い”ならお咎めは無いみたいだけど。そこん所はきちんと弁えてるんだよ、僕。


何せいい歳した大人なので。







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