飼い犬に手を噛まれる


恵なんて、どうせキスの経験も浅い。彼はまだほんの子供で、高校生程度でしかない。まあ、だとしても、伏黒恵はいっとう素晴らしい恋人だった。

歩く時は車道側を絶対に譲らない。荷物は必ず持ってくれる。恵はとてもやさしくて、尊敬ができる男の子だった。考え方が大人びていて、かといって変に理屈っぽいわけでもない。年相応に照れるし、年相応に困ったりもする。少し年齢の離れたわたしと付き合うにあたって、精一杯背伸びをしているらしい彼は、まさにグーグルで調べた“理想の彼氏”を体現せんと日々努力を重ねている、可愛らしくも素晴らしい彼氏だった。

なればこそ、なればこそだ。わたしとて、素晴らしい彼女でありたいわけで。見目麗しく、容姿端麗。長い睫毛は、鉛筆が三本乗るが如し。努力家で一途、ちょっと口が悪いけど、それを有り余ってお釣りが来るほどに、彼氏として、否男性として素晴らしい恵を相手に、わたしが遅れをとって良いはずもない。このままでは、いずれ社会という大海に旅立ってゆくであろう恵に、置いていかれてしまうのが関の山というやつだ。それはだめ。絶対だめ。それだけは、必ず避けなければならない事態であった。

ならばひとつ。とても短絡的な考えではあったけれど、わたしが彼に勝ることといえば経験に他ならない。歳の差というものは、決して埋まるものではない。それこそ、わたしがブラックホールに吸い込まれでもしない限りは。

「キス、しようよ」
「は?」

いつものようにわたしの部屋で、いつものように映画を見ていた。いつものように談笑を重ねて、いつものように手を繋いだまま。けれど、いつものように“またね”と告げるのをやめた。いや、やめたわけじゃないけれど。ちょっとキスを挟もうと思っただけだ。

恵なんて、どうせキスの経験も浅い。わたしは恵とキスをしたことなど無かったけれど、まず間違いなくそうだと踏んでいる。だって、彼はまだティーンエイジャーだもの。いくら伸び代が5メートルもある素敵な彼氏だとしても、恋愛経験はそこまで多くはない、はず。かつて恵は初めての彼女がわたしだと、顔を真っ赤にしながら教えてくた。だから絶対、キスはこれが初めてに違いない。

「いいですよ」

ほんの一瞬、目を大きく見開いた恵は、けれど次の瞬間にはわたしの唇を奪っていた。彼はちう、と薄い唇の皮膚を優しく吸って、べろりと長い舌を這わせた。ぐら、と大きく傾いたわたしの身体は、いつの間にやら毛足の長いカーペットの上に横たわっている。長くてしなやかな指先が、わたしの耳をゆるりとなぞって遊んでいた。ピアスのキャッチをカリリと掻いて、そして、するすると髪に指を潜らせて。

……押し倒されている。
それもあまりに、手慣れた手順で。

「まって」
「待ちませんよ」

待ての制止をかけたため、硬く閉じていたわたしの唇はふんわりと開いた。「目、閉じろ」と目を細めて笑った恵に、どうしても素直に従うことができない。ふるりと首を振ったわたしに、恵は呆れた視線を送った。そして、髪を梳いていた手を止めて、あろうことか、目を覆い隠すようにわたしの顔に手を被せた。恵、手が大きいね。きっともっと身長伸びるよ。犬とか、そうじゃん。手足が大きいと大きくなるよね。

……いや、わたし。そうじゃない。
そうじゃなくて。

「これで何も見えませんね」と耳元で囁いた恵は、再び「まって」と声をかけたわたしの唇を、やっぱり遠慮の欠片もなく塞いでしまった。じゅる、と湿った音を伴って、恵の舌がわたしの口内に押し入った。まって、本当に。恵、すごく手慣れてる。重なったあつい舌は、戸惑って逃げるわたしの舌を抑えて、ねっとりと絡んだ。重なって、擦って、そして吸って、また重なる。互いの唾液が合わさって混じり合って、口外に溢れてカーペットを汚した。どちらともつかない荒い呼吸が、静かな室内に篭った音を響かせている。覆い被さった手は、わたしが手を重ねても解かれることはない。わたしは、視覚を無理やり奪われたせいか、キスの感触をいつもよりずっと敏感に感じていた。

ようやっと恵が唇を離した時には、わたしの腰は情けないことにすとんと抜けてしまっていて。べろりと艶かしく唇を舐めた恵が、にやりと口角をあげてこちらを伺った。

「舐めてかかると、噛まれちゃいますよ」

こういう風にな、と言葉を続けた恵は、きっと伸び代5メートルどころの騒ぎではない。わたしは、当然の如くキスを続けようとする恵に、ちょっとした恐怖を覚えていた。「逃げんな」と退路を断つ恵は、とてもじゃないが可愛い男の子と呼べる雰囲気ではない。大人しく目を瞑ったわたしに気を良くした恵が、そっとわたしの服に手をかけた。

まった。それはまだ、全然心の準備が出来ていないんです。

あの、ところでそのキスどこで覚えたの、恵。







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