優しい人


「五条さんが優しい人?そんなわけ無いでしょう。夢を見るならもっとマシな夢でも見たらどうですか」と辛辣にも七海君が告げたのは、2ヶ月ほど前のことだった。まだ毛糸のカーディガンでもちょうど良いような、10月末。たしか、秋真っ只中の暗い夜。

秋雨がだらだらと長く続いていて、みんなずっと憂鬱だったから、その月は呪霊が少し多かった。わたしも七海君も休み無く西に東に駆け回って、やっと全ての仕事を終えた夜だった。わたしは、一杯飲みたいと駄々をこねながら、気乗りがしていない七海君のスーツの袖を引っ張って、ほとんど無理矢理に彼を居酒屋へと連れ込んだ。

路地裏にある古い居酒屋は、みかんジュースのように鮮やかな色合いをした電球が、ぼんやりと薄暗い店内をロマンティックに照らしていた。琥珀色した低いグラスを揺すりながら、ウイスキーを飲んでいる七海君と、芋焼酎のお湯割りをちびちび舐めるわたしは、頼んだチーズや枝豆を摘みながら楽しくおしゃべりをしていた。歳の似通ったふたりであるので、どうしても「最近肩こりが酷くて」やら「昔ほど体力が回復しない」などの湿っぽい健康の話題が多い。

しかし階級は異なれど、わたしと七海君は呪術師同士。ならば当然、話題は次第に呪術関連の話へ移るのは自然の道理というもので。その日の話題の矛先は、我らが尊敬すべき上司先輩である“五条さん”へと向いていた。五条さんは、わたしと七海君の先輩にあたる呪術師で、現存する呪術師の中では最強の称号を欲しいがままにしている人だ。自由奔放で勝手気儘。五条家の他の面々はおろか、彼に逆らえる人間はとても少ない。

「貴女は碌に後輩をやってないからそんなことが言えるんです。あの人は自分に見返りの無いことはしませんよ」

決してね、と念を押す七海君に、確かわたしは「そりゃそうか、まあ誰だってそんなもんか」と適当に話を流して、次の話題に移ったのだった。七海君はそれ以降五条さんについて何も触れることはなく、またわたし自身も彼について再び話題を振ることはなかった。



わたしは今、そのときの七海君の言葉を、今更になって思い出していた。あの日七海君は『五条さんが優しい人なわけがない。夢を見るならもっとマシな夢を見ろ』と言った。

確かに、そうかもしれなかった。わたしなんかよりずっとずっと五条さんと長い付き合いの七海君が言うのだ。今この絶望的な状況を前に、わたしは五条さんの本質とやらをすっかり見抜けていなかったことを思い知る。

広島まで遥々足を運んでいたという五条さんから『出張のお土産あげるから家に寄っておいでよ』と連絡が来たのは、お昼過ぎのことだった。五条さんはよく、出張に行ったあとに小さなお土産をくれる。今日はもみじ饅頭かな、と土産の中身を考えながら、彼のマンションのベルを鳴らしたのがつい10分ほど前。小さな紙袋を片手に持った五条さんが「上がっていきなよ」と声をかけたのが、たぶん7分ほど前。それを「申し訳ないですが、今日はちょっと」と断ったのが、ついさっき。

今、わたしはジリジリと距離を詰める五条さんを避けに避けていた。けれどわたしの後ろは無限でなく、また無下限を発動していない五条さんとわたしの距離も無限ではない。

一歩後退すればまた一歩。それを何度も繰り返せば、当然背中に壁が付く。何の染みも汚れもない五条さんの部屋の廊下の壁は、冷たくてぞわぞわと鳥肌がたった。時に、窮鼠は猫を噛まねばならぬ。けれど、此度の窮鼠は竜を噛まねばならなかった。噛めるわけがない。わたしはごくんと大袈裟に唾を飲み込んだ。

距離を詰め始めたときから、五条さんの視線は、わたしの目ではない別のところをじっと射抜くように見据えている。

「それ、なあに」

それ、とはわたしの左薬指にある華奢な指輪のことだった。五条さんの大きな手が、わたしの指をしっかり掴んで、ぎりりと強い力を加えていた。

『指輪です。特に意味もなく、左薬指に付けていました』などと笑って言い出せる雰囲気では勿論無く、普段の二倍は大きく見えるほど、強く威圧し、不機嫌を露わにしている五条さんを前にして、わたしはぶるぶると身を竦ませていた。

五条さんはいつもの目隠しを外していて、クラシックな丸いサングラスをかけている。着ている服も仕事着にしているマウンテンパーカーではなく、ゆるいスウェットのようなものをだらんと着ているだけだった。オンとオフでいえばすっかりオフにも関わらず、五条さんの纏う雰囲気は、呪霊を前にしたそれと同じくらいにピリピリとしていた。

薄いグラス越しにかろうじて見える冷たい瞳は、一見すると氷のようであったけれど、ゆらゆら揺れる瞳孔は、まるで高温の炎のようにも見えた。いつも弧を描いている大きな口は、ピンと引き絞った弦のように張り詰めている。耐えきれず再び飲み込んだ唾の音が、静かな室内にごくりと大きく響いた。

五条さんは優しい人だ。それは、本当のことだと思う。七海君はああ言っていた上に、今目の前にいる人は、おおよそ優しさと無縁のように思えるけれど、でも。

たとえば五条さんは、わたしが落ち込んでいる日はいつも隣で話を聞いてくれていた。呆れもせずに「うんうん」と軽い相槌を打ちながら。アドバイスは突拍子もないものばかりで、とことん参考にはならなかったけれど「僕はいつだって味方になるよ」と笑う五条さんほど頼もしい人はいない、とわたしは思っていた。

たとえば五条さんは、わたしが『あそこに行きたい』『あれが食べたい』などと何気なく呟くと、必ず連れて行ってくれた。特級呪術師で、高専の先生をしている五条さんは決して暇な人間ではない。それでも、たった数十分だったとしても、五条さんはわたしのわがままを聞くために貴重な時間を割いてくれていた。

ほかにも、重たい荷物を代わりに持ってくれたりだとか、疲れている日に甘いコーヒーを買ってくれたりだとか、数え出したらきりがない。

そんな親切の積み重ねを繰り返して、わたしは五条さんは“優しい人”だと思っていた。高専ではほとんど関わることのなかった、五条さんのことを。

「答えてくれないと分かんないよ、僕」

分かんないよ、と言いながら、五条さんはわたしの指から指輪を抜いた。華奢なゴールドの指輪は、結婚指輪とは程遠い安価な素材で出来ている。それはわたしの手の中にあっても小さいと感じる指輪なので、五条さんの大きな手の中にあると殊更ちっぽけに見えた。五条さんはその小さな指輪を、まるで汚いものでも摘むかのように親指と人差し指できゅっと挟むと、側から見ても分かるよう、強く強く力を込めた。手首の筋がはっきりと浮き出て、ぶるりと小刻みに震えている。ミシミシと軋むような酷い音を立てて、わたしの指輪は大きく歪んだ。思わず「あっ、」と声をあげたけれど、地を這うような低い声が「なに」とわたしを制したので、わたしは両手で口を押さえた。さっきまでは確かに輪の形をしていた金色のアクセサリーは、あっという間に鉄屑になってしまった。それを五条さんはぽいっとその辺に、まるでゴミのように投げ捨てて、わたしの方に向き直った。

「僕、すっかり忘れてたことがあったんだよね」

わたしの指輪がぐちゃぐちゃになったからか、五条さんは少し機嫌が良くなったようだった。への字になっていた口元は少しだけ綻んで、いつものように流暢に言葉を紡いでいる。置いてけぼりのわたしは、にわかに楽しそうな五条さんをじっと見つめたまま、何を言えばいいのか分からないでいた。

「七海から聞いたよ。オマエには僕が“優しい人”に見えてたみたいだね」

そうだ。五条さんは、優しい人だ。わたしは小さく首を縦に振った。それを見て五条さんは、あろうことか笑い出した。楽しそうなのに笑い声は乾いていて、まるで他人事のようだった。

「“優しい人”って、恋愛対象から一番遠いところにいるんだってね。こんなことなら、もっと初めからこうしていれば良かったよ」

いまだ口元を押さえ、覆い隠していたわたしの両手に、五条さんの手がゆっくりと重なった。長い指は、わたしの口元でもつれて硬く結んでいた手を、ゆっくりと解きほぐすよう密に絡んだ。

「無償の愛って知ってる?」

五条さんがわたしに尋ねた。絡んだ手と手は、まるで想い合う恋人同士のように繋がっている。五条さんの手は、しっかりと感触を味わうかのように、何度も何度もゆるく力を込めていた。合わさった手のひらから、五条さんの高い体温を感じる。何でも見透かしてしまう六眼に見つめられて、わたしはこのまま石にでもなってしまうかもしれない。そんな馬鹿みたいな錯覚を感じるほどには、わたしは彼に怯えていた。

「僕はね、そんなものは無いと思ってるよ。見返りを求めない人間なんて存在しない」

何も答えないわたしを、てんで気にすることもなく、五条さんは話を続ける。まるで彫刻のように整った顔が、ぐっと目の前に近づいた。弧を描く唇から伸びた薄い舌で、べろりとわたしの耳殻を舐めた後、五条さんは耳元にふう、と息を吹きかけた。狼煙のように立ち上るぞわぞわとした感覚に、わたしは背筋が凍る思いだった。おそらく五条さんには、ぴたりと隙間なく重なった身体越しに、ドクドクと大きく波打つわたしの心臓の音が聞こえているだろう。縮こまった首に吸い付く唇から、ちゅ、ちゅと場違いなほどに可愛らしい音が響いていた。

「そんな簡単なことを忘れるくらいに、僕はオマエに狂ってたのかもしれないね。上手いこと立ち回ったね。安いワインみたいにさ、僕をクルクル回して楽しかったでしょ?」

五条さんは「らしくないったらないよね」と呆れたように吐き捨てた。

「誰かのものになっちゃうならさ、もっと早くこうしていれば良かったんだよ。自由気ままに泳がせて、それが愛情なんて幻想だ。オマエは僕の知らない場所で、僕の知らない男とハッピーエンドだっていうのに?それに引き換え、オマエを大事に大事にしてた僕はひとりぼっちだなんて、そんなの許せるわけないだろ」

わたしの耳元で遊んでいた五条さんの指先が、思い出したかのようにサングラスを外した。五条さんの目元をずっと隠していたサングラスは床に打ち付けられ、とても呆気なく壊れてしまった。カシャン、と鳴った高い音が、静かな廊下で寂しく反響していた。

「第一なんで分かんないのかな?男が女に優しくする理由なんて、下心のほかにある?」

凪いだ海のように穏やかな瞳は、彼の激しい感情をより一層引き立てているように思えた。五条さんは「ああ、そうやってすぐ“自分は何も悪くない”って被害者みたいな顔するだろ。そういう所だよ」と、ため息をついた。

「たとえば、オマエが落ち込んでいる日。たとえば、オマエがどこかに行きたがっている日。たとえば、オマエが困っている日。僕は喜んで手を差し伸べた。これからも、僕はきっとそうするよ。僕はオマエを大事に思っているからね。何からだって守ってやるよ。どこへだって連れて行ってやる。でもそれは、僕だけに許してよ。僕だけの特権だ」

五条さんは優しい人だ。けれど五条さんの優しさは、無償のものではない。見返りを期待せずに誰かに優しくする人なんて、もしかするといないのかもしれない。稀にはいるかもしれないけれど、きっとここまで優しくない。五条さんの親切が恋人にするそれと同じだと、どうしてわたしは気が付かなかったのだろう。

「さて、ここで問題です。五条悟の好きな人は、誰でしょう」

わたしの口から答えが出ることはなかった。

それは答えを告げる前に、間抜けに開いた唇がしっかりと塞がれてしまったからだった。暗転。







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