コーヒーを口に含むより


先週初めから、タークスの仕事──とりわけ、ツォンの仕事だが──は多忙を極めていた。タークスの人手不足は尋常ではなく、彼は文字通り寝る間も惜しんでデスクに齧り付き、毎日毎晩遅くまで業務に勤しんでいた。

決して徹夜ではないが、2時間余りの睡眠時間では満足に体力も回復しない。これが連日続くとなると、流石のツォンの体力にもジリジリと限界が近づいていた。

体調の不良は彼の機嫌を急降下させ、普段もさして良いとは言い難い目付きは、目の下の青黒いクマや谷底を思わせるほど深くなった眉間の皺も相まって、彼の部下曰く“視線で人を殺せそうな”ほど悪くなっている。──もっとも彼の不機嫌の最たる理由は、連日の多忙さに加えて提出された『任務時に使用したヘリコプター故障についての始末書』だったのだが。

無人のオフィスでマグカップに手を伸ばしたツォンは、中身がすっかり空になっていることに気が付いた。そしてつい15分ほど前の自分の怠惰に軽く舌打ちをして、コーヒーを注ぎ直す為にオフィスを出たのだった。

〇〇


給湯室の中に恋人の姿を見つけて、ツォンはぴたりと歩みを止めた。別にやましいことはしていない。単に仕事が忙しかっただけなのだが、彼はもう1週間も彼女に連絡をしていなかった。スマートフォンのメッセージも、ツォンの既読無視──結果的にそうなってしまっただけだと弁解はしておく──で終了している。

彼女は怒っているかもしれない。いや、呆れているかも。……最悪、気持ちが冷めていてもおかしくはない。

いつもそうだ。タークスの構成員として多忙を極めるツォンの交際関係が長続きしたことはない。大抵関係を持ち出すのはツォンではなかったが、別れを告げるのもまた、ツォンではなかった。

きっと今回もよく似た結末に行き着くのだろうと、どこか諦めに似た気持ちになる。ただ今回ばかりは簡単に割りきれそうにもないな、とひとり自嘲した。──駄目だ、疲れた頭で考えることではない。そう結論付けたツォンは、踵を返して別のフロアへと向かおうとした。

「あの、もう空きますよ…ってツォン?」

靴音を聞きつけたのであろう彼女が、給湯室からひょっこり顔を出した。彼女は予想だにしなかった訪問者を目の前に、分かりやすく驚いている。まるくて大きな目をさらに広げて、彼女はツォンをじっと見つめた。ツォンは何と言えば角が立たずに済むか、疲れた頭で必死に考えていた。何か言わねばと思えば思うほど、何を言えば良いのか分からなくなった。そんな様子のツォンを知ってか知らずか、彼女は笑って声をかけた。

「忙しそうだとは思ってたけど、本当に大変そうだね。コーヒーいる?淹れようか?」

これっぽっちも怒ってなさそうな彼女に拍子抜けして、ツォンはさらに言葉を失った。今までなら“忙しくても連絡くらいできるはず”などと抗議の声が飛んできて、そのまま喧嘩にすら発展することもしばしばだった。少なくとも、1週間も放置した後に、にこにこ顔でコーヒーいる?などと聞かれた事はない。

「…ああ、頼む」
「任せて、美味しいの買ったばかりなんだ」

戸惑いがちに差し出したマグカップを取り上げると、彼女は軽い足取りで給湯室に戻った。つられるようにしてツォンも給湯室へ入る。体格の大きいツォンが入ると、給湯室は少し窮屈に感じた。ドアをそっと閉めて、ツォンは彼女の背後にぴたりと引っ付いた。

小包装されたドリップコーヒーバッグは、彼女推奨のメーカー品だった。それを丁寧に開封して、さっと洗ったツォンのマグカップに取り付ける。一連の動作を眺めながら、ツォンは彼女の腹に両手をまわした。

「甘えるなんて珍しいね? 主任さん」
「…疲れたんだ。本当に」

鼻腔をくすぐるコーヒー豆のこんがり焼けた香りに、陶器を叩く小さな水滴の音。そして彼女の柔らかい感触と、柔軟剤が混じったシャンプーの香り。まるで幸せな日曜日の朝だな、とツォンは思った。ーー実際には、ツォンの勤務時間はまばらであるし、日曜日にこのような光景を見ることは稀であった。けれど、彼の中の“幸せな日曜日”は、大抵この光景から始まる。
 
普段、社内で交際関係を匂わすようなことを一切行わないツォンが、人が居ないとはいえ公共の場で身体を寄せるので、相当参っているのだと彼女は感じていた。節の目立つ無骨な手に、華奢な指を躊躇いがちにそっと重ねると、すぐに大きな指が絡み付いた。疲労に喘ぐその手は、彼女の手よりも随分冷たい温度をしている。

何かを閃いた顔をした後、笑みを向けた彼女が口元に手を当てた。ツォンは彼女の内緒話をしっかり聞き取れるよう、顔を近づけて耳をそば立てようとした。ふいに、ぐっ、と強い力でネクタイが引っ張られて、身を屈めたツォンの唇に柔らかいものが触れる。軽いリップ音と共に離れた彼女が、悪戯っ子のような顔をしていた。

「……“ケアル”、なんてね」
「足りないな」

そう言うが否や、ツォンは彼女の体を背後の冷蔵庫へぐっと押し付けて唇を重ねた。驚いて半開きになった唇の中に、自身の舌を遠慮なく差し入れる。給湯室には湿った水音と、彼女のくぐもった声、あとはコーヒーが抽出されて落ちるひたひたとした音が響いているだけだ。ツォンは逃げる小さな舌を難なく捕らえて、久方ぶりにその感触をたっぷりと味わった。

「…これくらい、必要だ」

腰が抜けてしまった彼女を片手で支えて、真っ赤な頬に唇を寄せる。これ以上は流石に自身が“もたない”ので、彼女がしっかり立ったことが分かるとそっと身体を離した。

「今夜、空けておいてくれ」

ツォンは彼女がこくりと頷くのをしっかりと見届けた後、抽出終えたコーヒーを片手に給湯室を出た。廊下の向こうから、人が歩いてくる音がする。ツォンはタイミングが良かったな、と自身の幸運を喜んだ。


〇〇


「ケアルどころか、“フルケア”だな」

誰もいないオフィスに、ぽつりとツォンの独り言が響いた。名残惜しい感触を思い出して、コーヒーを啜る。酸味の少ない苦いコーヒーは、疲れた体に丁度良い。

ツォンは大きく伸びをしたあと、手元にあった『任務時に使用したヘリコプター故障についての始末書』に“否認”の判子を押して、桃色の付箋を貼り付けた。

──付箋には几帳面な文字で“具体的に書くこと”と書き記されている。

給湯室へ向かう前より、ペンを持つ腕が軽い。か細くなったコーヒーの湯気が、暗いオフィスをゆらゆらと漂っていた。




ツォンがオフィスに戻ってから少しした後、彼女のスマートフォンがメッセージを受信してぶるぶると震えた。淡白なメッセージに添えられた柄にもない冗談に、疲れているにも関わらず彼の機嫌は不思議と良いことを知る。

『コーヒーありがとう、美味かった。だがお前が回復魔法を嗜んでいるなんて、少し意外だったな』


──夜までは、あと4時間ほど。







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -