「うん、分かってる」

 そう言いながら頷いたときの名前の瞳は、どろどろと何かが滴り落ちて来そうなくらいに濁りきった色をしていて、ああ、ついに目の前のこの女の子も狂い果ててしまったんだなと思った。酷く魅力的な色をした狂者の眼差しに敬意をひょうし、にこりと笑いかける。
 真っ赤に腫らせた顔、目尻と口の端には絆創膏、おまけに利き腕は包帯でがっちりと固められている。そんな姿で新たな待ち合わせは場所であるホテル前に現れた名前に、一応は驚くポーズをしておいてあげたけれど、ボクにしてみたら欠片も驚く要素なんかなかった。予想通りの展開、予想通りの結末。歯車がかちりと噛み合うように、落ち着くところに落ち着いた。名前もそれを喜びとして享受している。予定調和すぎて退屈とすら思う。
 どろどろとした色を覗き込みながら、盗み出したタローくんの番号に電話をかけた時のことを思う。通話ボタンを押して暫く、六コールたっぷりと待たされたあとに出た、名前が盲目的に愛を捧げる男は、ぶっきらぼうな声で「誰だ」とだけ言った。ボクは「キミのお友達だよ」と答えてやった。

「正確には、キミのお友だちというよりも、キミの彼女のお友達かな。ねえ、キミの彼女が昨日何処に居たのか、誰と居たのか、何をしていたのか、教えてほしい?」

 名前は護身が何よりも大切で、自虐で身を守っている哀れな女だけれど、あの時のタローくんの動揺丸出しの声と共に齎された滑稽な反応を一から十まで全て教えてやったら、そこから何を見出だすのだろうか。ボクがそこまで親切な男でなかった事を、名前は感謝するべきだ。少なくともボクは、名前の口から語られるのとは別の印象を、彼から受けとった。
 あまり認めたくはないけれど、名前とボクは同じタイプの人間だ。まあ、便宜的に人間と表現したけど、ボクは人間じゃないけどね。でも、決定的に違う部分が明白になった。

「だってね、彼がわたしの事を好きじゃなかったら、こんな風に怒らないでしょ。これって彼が嫉妬して、わたしを必要としてくれてるって事だよね……」

 なんて馬鹿馬鹿しい、思った。ビッチちゃんはボクに、一度も怒った事がない。ボクは見せつけられる事に、一度だって怒りを覚えたことなんかない。ボクはビッチちゃんがボクに対して、人間が抱く愛や恋とか言う下らない感情に似たものを錯覚しているという事を知っている。それは名前やタローくんが互いに抱く感情と、よく似ている。ほんとうに、人間はこんな馬鹿馬鹿しい事に、よくもこんなふうに必死になって藻掻いたり、足掻いたり出来るものだ。





「それで、ライトの方はどうだったの?」

 話題転換のきっかけを作るためにか、包帯に覆われた手を軽く持ち上げて、名前が言った。その頃には名前の瞳からどろりとした色が消えていて、恋の噂話に興じる事を生きる上で何よりも大切と思っている女の子のそれに様変わりを果たしている。聞きたくて聞きたくてうずうずしていた、といった具合に、身を乗り出しながら再び口を開く名前。

「ビッチちゃんとのデート、行ってきたんだよね?」
「どうして勝手に決定事項にされてるのかな?」
「あれ、違うの?」

 ここで正直に答えてやる義理も無いけれど、名前を相手に嘘をつく必要はもっとない。軽く頷いた瞬間に、ふにゃりと緩む名前の目尻は、デート中にビッチちゃんの浮かべていた笑顔とそっくりだ。

「行ってきたよ、デート。ビッチちゃんは始終にこにこした間抜けな顔をしていたかな」
「いいなあ、幸せそうで。ねえねえ、何をしたの? 遊園地? お買い物?」

 まるで自分の事のようににこにこと顔を綻ばせながら、うんうんと相槌を打ちつつ、名前はボクの話を聞いていた。
 ビッチちゃんはデートの日、普段よりも随分とおめかしをしてボクの前にあらわれた。それを褒めてやると彼女は、何処か照れくさそうに、嬉しそうに笑った。小さなてのひらにボクのてのひらを重ね、五本の指を絡ませあいながら、手を繋いで家を出た。隣に並びながら歩いた。向かう先はショッピングモール。女の子が好きそうな店舗がたくさん並んだモール。

「ビッチちゃんの好きそうなものが置かれた店ばかりを見て回ったよ」

 純白のレースやパールが敷き詰められたひらひらふわふわとした服が並ぶ洋服屋で、天使でも飛んでいそうなその内装に凡そ不似合いなヴァンパイアという異端が、女の子のために似合いの服を見立ててあげていたなんてことは、あの場にいた営業スマイルの店員のお姉さんや、三人だけしか居なかったお客は少しも気付きはしなかっただろうし、その次に立ち寄った雑貨屋でオルゴールに目を輝かせていた女の子が極上の血の持ち主だという事も、誰も知らないボクらだけの秘密だったし、その次に下着売り場に連れていこうとしたら、真っ赤に顔を染めたビッチちゃんが断固拒否をしたという事だってボク以外は知るヤツも居ないし、その次に入った可愛らしい見た目の化粧品が並ぶ店でビッチちゃんに買ってあげた、深い深い血のような赤色をしたネイルエナメルに、どんな意味が込められていたかなんてことは、ビッチちゃんですら知らない。手を繋いで様々な店を見ている間、ボクとビッチちゃんは逆巻ライトと小森ユイでしかなかった。

「へえ、プレゼントをあげたんだ」

 にこにことして聞いていた名前は、そんな事を呟いて、ベッドの下に転がしていた鞄をひきずりあげ、中を漁り、ポーチを取りだした。ファスナーあけ、中身をざらりとシーツの上に放り出す。色とりどりのエナメルがつまった小瓶が、シーツの上にぽとぽとと落ちる。

「どんな色? 女の子に贈り物をする時ってね、その色によって様々な意味になるんだって」
「んふ、ビッチちゃんの血の色みたいにどろどろとしている、これ、かな」

 カラフルに彩られたシーツの上、赤を親指と人差し指で摘まみ上げた。指先に伝わるつるりとした手触りに、僅かな重み。ブランドは違うみたいだけれど、隣でビッチちゃんが見守る中手に取ったものと、同じ手触り、同じ重み、同じ色。この色がどんな意味であるかなんて、ボクの中ではもう決まりきっている事だ。

「女の子ってそんなものまで持ち歩いてるんだ」
「いつもじゃないよ。今日は後で塗ろうと思っていたから、たまたま持っていただけ」

 そう言った名前が、再び包帯だらけの利き手を持ち上げる。普段は奇抜な色で馬鹿みたいに染めあげられている爪も、今日ばかりはピンク色だった。

「貸して」

 ボクは名前の手から瓶を奪い取ると、不思議そうな顔をしている名前を横目に、キャップを捻る。途端にきつい香りが上ってきて、眉を寄せた。

「さ、手を出してよ名前」
「え?」
「ボクが塗ってあげるから。怪我をしているから自分じゃ塗りづらかったんでしょう?」

 だから、ボクとの待ち合わせに間に合わなくて、爪のお洒落は断念した。そんなところだろう。名前はぱちんと瞬きをして、腕をさする。

「びっくり。よく分かったね。ライト、モテるでしょ?」
「んふ、まあね。今はビッチちゃんにしか興味がないけれど」
「ごめんね、迷惑かけて」
「いいよ。後で、お礼にいつもの香水を貰うから」
「ああ、あれね」

 理解したような顔で差し出された名前の右手の人差し指に、刷毛にたっぷりと乗せたネイルエナメルを置く。予想以上に刷毛に絡み付いていたらしい赤色が、だらりと爪の上からはみ出して、まるで指先から出血しているみたいになってしまった。

「ああっ、それは乗せすぎだよ」

 だめだめ、と言いながら、名前は慌ててボクからキャップを奪った。最初にベースコートを塗らなくちゃ、なんてよく分からない事を言いながら、ボクの乗せた赤色をコットンで拭っている。それから自由がきくほうの左手と言葉で、ネイルアートのなんたるかを、ボクにご親切にレクチャーし始めた。馴れた手付きでキャップを瓶に突っ込み、持ち上げてから、瓶の口の周囲に刷毛を二三回、円を描くように擦り付けて、それから持ち上げる。そうすると適切な量になるから、と、得意気な顔。
 たっぷりと講習をうけ、名前の指先が赤に染まる頃には、すっかりボクはネイリストにでもなれそうな気分になっていた。名前からの“お礼”を受け取りながら、独り言のように呟く。

「ねえ名前」
「うん」
「――多分ね、ボクはビッチちゃんに、飴を与えすぎたと思うんだ」

 吐き気がしそうなエナメルのきつい香りの中、手中の香水瓶が甘い香りを空中に放った。

   
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