彼氏が浮気をしていた事を知った。
 あの男は、わたしを好きだと言ったのと同じくちびるで他の女にキスをおくり、わたしの身体をいいようにまさぐったてのひらで他の女を撫で回していたのに、わたし一人を愛しているようなふりをして、にこにこと偽物の笑顔を振り撒いていたのだ。裏切られたと思った。わたしの胸に宿ったどす黒い感情は、寝ておきてごはんを食べてまた寝ておきても、消える事はなかった。何事もなかったみたいな顔で再びわたしに触れてくる彼が許せない。触れられただけで何も言えなくなって、彼を責められなくなる自分が、なによりも許せない。復讐をしてやる。そう思った。



「ねえねえ、そこのセクシーなお姉さん。ボクと遊ぼうよ」

 ぬるい炭酸飲料のような声だと思った。やけに甘ったるく感じる中に、抜けきっていない炭酸の弾けるような刺激。きらびやかな夜の繁華街において、一つの違和感もなく溶け込んだ声だ。来た。わたしはなるだけいい女に見えるよう取り澄ました顔をして、ゆっくり、ゆっくりとふりかえる。甘い蜜をたっぷりと蓄え、蝶を誘い込むのだ。
 振り向いた先にいた男はにたにたと口の端を吊り上げ、わたしを見ていた。すらりと背が高く、整った骨格をした男だというのが、まず第一印象。男の顔が世の中の平均レベルよりも随分上だという事も、本来ならば帽子の落とす影に沈んでしまいそうなその瞳の美しい翠も、眩しいばかりの夜の光りが照らし出す。整った顔のなかにたりと不吉を描き出すくちびるだけが、こんな時間の繁華街を彷徨いている男が、爽やかなだけの男な訳がないという事を物語っている。
 好都合だ。

「わたしの事?」
「もちろん。ボク、今、すっごく退屈してるんだよね。キミみたいに可愛い女の子と楽しいコトがしたいな」
「うん、いいよ」

 んふ、よかった、と笑った男の上下する肩の向こうで、不安気な顔をした女の子が一人、こちらを伺っているのが見えた。なにかを言いかけ、口をつぐみ、再び言いかけ、を繰り返す。こんな場所には似合わない、いかにも純粋そうな大きな瞳をした少女。こんな時間にも関わらず、何処かの学校の制服を着ているから、悪目立ちをしている。この辺りに確か、夜間学校があった筈だから、彼女はそこの生徒なのかもしれない。と、そこまで考えたところで、男の腕が首に回り、ぐいっと引き寄せられる。男は一度も背後に眼差しをやる事はなかったけれど、少女の顔が糸で引っ張ったようにひきつったのが、わたしには見えた。なんとなく、男にも背後のそれが見えているかのようだと思った。歪んだ笑顔が男の口許に張り付いているから。

「さあ、行こうよ」

 わたしは抱き寄せられた男の身体に腕を絡め、それらしく見えるよう彼に寄り添って、歩き出す。背後の彼女は今、どんな顔をしているのだろう。少しして角を曲がり、先程の場所から完全に遠退いた場所まで来てから、見た目よりも逞しい胸に埋めていた顔を上げ、男を見上げる。

「……そろそろ聞いていい?」
「なあに?」
「さっきの女の子はあなたの彼女さん?」

 男は立ち止まり、きょとんとした顔でこちらを見下ろした。

「……彼女?」
「さっきの、あなたの後ろでこっちを見てた彼女。凄く泣きそうな顔をしていたけど、いいの?」
「ああ、ビッチちゃんのことか。んー、あの子はね、いうなればボクの“エサ”ってところかな?」
「……餌? ずいぶんとアブノーマルなプレイをしてるんだね」

 んふ、と、彼は心底嬉しそうな笑みを浮かべる。彼は彼女のことを語るとき、とても愉快そうな顔をするらしい。彼女との関係は間違えようのない事実に思える。お互いの事をペットやご主人様と呼びあう特殊な嗜好のパートナーは見たことがあっても、彼のようなひとは初めてだ。

「ボクとビッチちゃんの関係なんてさ、キミには関係の無い事じゃない。今はボクとキミとで楽しんでいるんだし。違う?」
「そうだね。ただ、少し気になっただけ。あなたが彼女にやきもちをやかせるためにわたしに声をかけたのか、それとも別の目的があってこうしているのかって」
「……」

 彼は再びきょとんとした顔になったかと思うと、首に回していた手を外し、腹を抱え、けたたましく笑いだした。大きく肩を揺さぶる彼の笑い声は繁華街の喧騒に消えて行く。

「ククッ、アハハハハ! キミって面白い女の子だね。頭が悪くて尻の軽そうな女に声をかけたつもりが、ずいぶんな変人に声をかけちゃったみたいだ。そこまで分かっててほいほいとボクについてくるなんて」
「なにかおかしい?」
「すごくおかしいよ! 女の子っていうのは、男から自分一人が愛される事を望んでいて、そしてそれが当たり前の事だと信じて疑わない愚かで可愛い生き物だ。それを、他の女のために利用されているんだと分かった上でついてくるなんて、よっぽどプライドがないお馬鹿さんなのか、身体さえ気持ちよくなれたらいいっていう本物のビッチちゃんなのか」
「……好きなひとに自分だけを見ていてほしいって思うのは、おかしい事だとは思わないよ。わたしだってそうだもの。けれど別にあなたはわたしの好きな人じゃないし、あなたがわたしを利用しようとしているように、わたしもあなたを利用しようとしているから、その意味でいったらおあいこなんじゃないかなって」
「ふうん、なにか事情がありそうだね」

 彼は興味のないような顔をしていたけれど、一応聞いてくれる姿勢をとってくれるらしい。

「……彼に、浮気されたの」
「へえ。つまりキミは、他の女に目をやったコイビトに復讐をするために、夜の繁華街をさ迷って、相手をしてくれる男を探し回っていたってわけか。そうして彼の気持ちを繋ぎ止めたい、自分だけを見てほしい、って、酷く自分本意な思惑を抱きながらさ」
「そう、あなたの言う通り」

 にたにたと笑いながら、彼は核心を的確につく一言を吐く。わたしは勘違いをしていたようだ。こんな風に軽々しくナンパをしてくる男なんて、頭が悪い男ばかりなんじゃないかと思っていたけれど、彼はどうやらそうではないらしい。クローゼットの中から一番丈の短いスカートを引っ張り出してきて、下着が見えないぎりぎりまで持ち上げて穿いた。アイラインをいつもより一ミリ太くひいて、強めの発色のリップグロスをたっぷりと蜜を流し込むようにくちびるの上に乗せ、普段は使わない甘ったるい香りの香水で仕上げを施した。そんなわたしの醜くて滑稽な努力が、彼には鮮明に見えているみたいだ。

「陰湿で性根の腐った女だって幻滅した? それとも、利用するために声をかけた女がそんな女で安心したかな」
「まさか。ボクはね、キミみたいに必死に頑張る、愚かで滑稽な女の子はね、凄く可愛いと思うよ。何をしなくても自分は愛される資格があるんだって考えているような女の子よりも、ずっと、ずっと、ね?」

 くすくすと笑ってから、彼はすっと長い指先でわたしの輪郭をゆっくりとなぞった。随分と冷え込んでくる時間帯だけれど、彼の指先はそれよりももっと低い温度で、ぞくりと背筋に寒気が走る。

「キミの言う通り、ボクはビッチちゃんに見せつけるために、キミに声をかけた。ボクはね、ビッチちゃんの嫉妬に狂った顔や、ビッチちゃんの絶望に染まった顔、ビッチちゃんの様々な表情が見たいんだ。そんなビッチちゃんの顔を見ていると、ボクはね、たまらなく興奮するんだよ」

 両目を瞑りはあ、と溜め息を吐き出した男は、どうしたらそんな表情が出来るんだと考えてしまうほどの恍惚をたたえている。彼と“ビッチちゃん”の関係はわたしが考えているよりもずっと深く、複雑なものかもしれないけれど、彼はきっと、彼女の事を自分でも気付かないくらいに好きなんじゃないかな、なんて思った。

「もっともっとビッチちゃんを絶望と快楽の坩堝に突き落として、もう他のものなんて見えないってくらいに、なにも考えられないくらいに、ビッチちゃんをぐちゃぐちゃにしてあげたい。その果てにあるものを想像するだけで、ボクはイケちゃいそうなんだ」
「……あなたって、想像よりも遥かに性格が悪いんだね」
「んふ、復讐のために男漁りをするようなキミには言われたくないけどね」
「さっき、それが可愛いって誰かが言っていたような」
「そうだよ。ビッチちゃんも早く、キミくらいどろどろに染まってくれればいいのに。ああ、でも、何もかも思い通りにいったら、それはそれでつまらないからね」

 頬をなぞっていた指が離れる。彼はわたしの手を引いて、再びぎらぎらと眩しいほどの繁華街を歩き始めた。深い深い闇の中を落ちてゆくように、そのなかに散りばめられた光を手探りで見つけるように、ただひたすらに歩く。

「今日からボクらは共犯者だ」



   
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