「『……怒ってるよ』、だって。ほんと、ビッチちゃんは可愛いよ!」

 出そうと自ら意識した訳ではない笑い声が、自分のくちびるの間からこぼれ落ちてゆくのが分かった。目の前の席に姿勢よく座っているいつもより少しお洒落をした名前は、露骨に眉を潜め、理解出来ないっていう顔でボクの事を見つめている。ああ、いい顔だ、興奮しちゃうね。

「それはさ、」
 少なくとも人間たちがこぞってめかし込んで集う、この無駄に気取ったレストランでするにはそぐわない表情の名前は、早速抗議を申し立て始めた。
「ビッチちゃんだって怒るに決まってるよ。他の女にしてやった事、自分にもされたんでしょ? そういうの、女の子は一番傷付くと思うけど」

 わたしがビッチちゃんだったら今頃顔を真っ赤にして怒ってるよ、なんて名前は語尾を荒げ言葉を募る。名前はタローくんに面と向かって抗議をする勇気なんか持ち合わせていないくせに、口だけは一人前らしい。
 ――わたしたち、そろそろデートでもしてみない?
 名前に電話でそう告げられたのは、つい数時間前の話だった。ボクと名前はこの日初めて、あの薄暗い密室以外の場所で待ち合わせをした。名前がボクを案内したのが、このレストラン。
 ドレスコードだなんだと面倒な物こそ無いものの、ピシッと一ミリの歪みもなく設置されたテーブルクロスや、背筋を伸ばしてそつの無いサービスを提供する店員、店内に響くゆったりとしたクラシックなど、何処か城での食事を彷彿とさせるものがある。この嫌みったらしく気取った排他的な雰囲気は、今でもあまり好きになれない。

「ああ、キミもタローくんに、そうされた口だもんね」
「わあ、そこ突っ込んできちゃいますか。でもね、最近は彼、凄く真面目になったの。わたしに対しても凄く優しいよ」
「ふうん」

 このデートもきっと、名前のタローくんに対する復讐の一部なのだろう。なにせメニュー表に視線をやっている名前は、“いつもの事”とでもいうように慣れきった顔をしているのだから。
 やがて名前は店員を呼ぶと慣れた様子で料理の注文を始めた。無駄に長い料理名を噛まずにすらすらと読み上げていく様子を見るに、名前は多分この店に来るのは初めてでは無いのだろう。もしかしたら彼女の舌はこの店の味なんかとうの昔に覚えきっているのかもしれない。

「もしかしてタローくんって、女の子とデートする時、同じ店ばかり連れていくタイプ?」

 注文の最中に割り入って言ってやると、名前は意地の悪い笑みを口許に含み、こちらを一瞥だけした。店員も流石に教育が行き届いているらしく、名前と同じくこちらを一瞥しただけで、表情を崩す事はなかった。
 他の女にしてやった事、自分にもされたんでしょ、か。本当に、名前は口だけはよく回る。嫉妬の憎悪に取り入られた名前は、もうすっかりこちら側の住人だった。

「食事と共に、飲み物は如何でしょうか」
「あ、えーと」

 一通りの注文を終えたのち、店員が付け加えた問いに、再び名前がこちらを見た。人間の食べ物には興味が無いから好きに注文したらいいよ、と、先に言ってある。飲み物だって、ボクには美味しい血さえあればそれで十分なのだ。

「じゃあ、ペリエで」

 畏まりました、の言葉を残し店員が立ち去るのを見届けてから、名前の顔を覗き込む。

「もしかして名前、妊娠でもしてるの?」
「…………はい?」

 寝耳に水とばかりに、彼女がひとつ瞬きをする。付け睫毛か、マスカラか、やたらと長い睫毛がばさりと揺れた。
 いつかは顔を真っ赤に腫らしていた名前も、今日は完全武装モードだった。くちびるの上のつやつやのグロスが店内の照明を反射させているし、目元を彩るアイシャドーは、普段の物よりも幾分か色合いが華やかなような気がした。

「こーんな素敵な場所で、そんなにめかし込んでさ、ボクっていう素敵な浮気相手と“デート”をしているっていうのに。アルコールの入ってないただの炭酸水をオーダーするだなんて、随分と無粋な事をするんだなぁと思って」
「あー、違う、違うから。ライトっていう素敵な浮気相手とデートをしているからこそ、だよ」
「えー?」
「流石のわたしも未成年の前でアルコールを注文するような非常識な人間ではなかったって事」
「んー、精神年齢的には、ボクのほうが名前よりよっぽど大人だと思うけどなあ?」
「でもライト、高校生なんでしょ」
「まーね。ビッチちゃんと同じ学年。どうせならビッチちゃんとクラスも一緒だったらよかったのにね」
「確か三つ子の――アヤト? くんがビッチちゃんと同じクラスなんだよね」
「んふ、よく覚えてるね」
「ま、そういう事だから我が国の法律に基づいてライトに飲酒させるわけにはいかないのですよ」
「名前のくせに偉ぶられると、何だか納得いかなーい」
「今日はわたしの勝ちって事で」

 いつもはわたしがライトに馬鹿にされっぱなしだから、と肩を竦め、くすくすと笑った名前。それから少しこちらに身を乗り出して、秘密事を語るかのように少し潜めた声で言葉を吐き出す。

「ねぇ、それで、これからどうするの?」

 どうにも頬が緩むのを抑えきれないといった感じの名前は、完全にこの衆人監視の状況を楽しんでいるようだ。いつもは密室内で二人きりの“逢瀬”を重ねているだけなのだから、無理もない。けれど、ボクは名前の下らない遊びに付き合ってやるつもりは更々なかった。特に声を潜める事も無く、隣の席の客に聞かれるのも気にしないといった感じで「これからって?」と問い返す。
 名前はちょっとだけつまらなそうな顔をした。

「そんなの、決まってるじゃない。ビッチちゃんの事!」

 それで名前も内緒話モードを解除したらしく、半ば叫ぶように言う。近くで食事をしていた上品な身なりをしたマダムが、名前の口から飛び出た「ビッチ」という単語にぎょっとしていたのが見物だった。

「ライトの話を聞くに、どうもライトは何かを企んでいるようにしか見えないんだよね」
「んふ、だからボク、前に言ったよね」
「言ったって?」
「“ボクはビッチちゃんに、飴を与えすぎたと思うんだ”ってね」

 これぞ正しく、共犯者の真骨頂。名前の言う「これから」とやらを語るのだとしたら、名前には存分に働いて、その存在価値を証明して欲しいものだ。

   
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