「ビッチちゃん、ビッチちゃんたら」
「……え?」
「どうしたの、ぼおっとして。ボクと一緒に居るのに上の空だなんて、誰の事を考えていたんだか」

 翠色の瞳に、自分の顔が写っていた。ああ、そういえば、ライトくんが私の部屋に突然遊びにきたんだっけ。同じベッドに座るライトくんは首を傾げている。上の空だったのは、目の前に居る人と、一度しか目にした事のない女の人の事を考えていたからだ。
 ライトくんから、お花のような甘い香りがする。男の子には凡そ似合わないような、甘あい香り。私の平常心を打ち崩そうとするように、それがちくちくと攻撃をしてくる。香りを嗅ぐと、忘れたい事も、たちまち思い出してしまう。この香りは、あの夜、ライトくんが声をかけた女の人から香ったものに、よくにている。
 あの夜から、ライトくんは度々、あの女の人のところに出掛けているようだった。ライトくんは何も言わないけれど、この甘い香りが勝手に鼻腔に忍び込んできては、嫌というほどに私に現実を教えてくれる。いったい何をしたら、こんなにも香りが移ってしまう事になるのだろうか。頭の中で、いけないと思いつつも想像をしてしまう。二人は、付き合っているのだろうか。ライトくんはあの人の事も、私にするように扱うのだろうか。

「もう、ビッチちゃん、まーた聞いてないんでしょ? 無視ばかりするなんて、いけずなんだから」
「あっ、ご、ごめん」
「ほら、これ」

 ぐるぐると考えていると、こつん、何かが指先にあたった気がした。視線を下にずらせば、ライトくんが小さな瓶をこちらに差し出しているところで、真っ赤な色をしたそれが私たちのあいだで艶々と光っている。

「これ、ライトくんの買ってくれた……?」

 デートへ行こう。少し前、ライトくんがそんな信じられないような提案をしてくれた。その日のライトくんは普段の彼からは信じられない程に優しくて、逆に少しだけ怖かったくらいだ。ライトくんに贈り物をされる日なんて、来ないだろうと思っていた。ドレッサーのほうに視線をやれば、やはり置いていた筈の場所に、それは置かれていなかった。ライトくんはそうだよ、と親指と人差し指で摘まんだ赤色を持ち上げる。

「だから、さっきから言っているでしょ。今日はボクが、ビッチちゃんがキレイになるお手伝いをしてあげるんだって。ビッチちゃんも女の子なんだからさ、たまにはお洒落をしてもバチは当たらないと思うよ」
「お手伝いって」
「ほら、指をだしてごらん。せっかくのプレゼントをつまらない置物みたいに飾っておくだなんて、勿体ないでしょ」

 ぴりっ、と音が聞こえた。まだ真新しいネイルエナメルのキャップをおおうビニールを、ライトくんが長い指先で剥がしているところだった。もしかして、ライトくんが塗ってくれるという事なんだろうか。ようやく理解した私は、戸惑いながらも、右腕を持ち上げる。指と指の間を適度に開き、おずおずとライトくんの方へ。

「え、えっと、お願いします」
「はいはーい」

 すかさず伸びてきた彼の手にうやうやしく手を取られ、ちゅっと指先に軽くキスを落とされた。

「……!」
「んふ、指先より先に頬が真っ赤にそまっちゃったねぇ。可愛いよ、ビッチちゃん。もっと可愛くしてあげるからね」

 にやにやと笑いながら、エナメルのキャップを捻るライトくん。独特の鼻につく香りが途端に上ってきた。私ですらあまり好ましく思えない匂いだから、ヴァンパイアには辛いものがあるのだろうか、彼の眉間にできた僅かなしわを見逃さない。そんな辛い思いをしてまで、なんでまた今日はこんな事を言い出したのだろう。腕を軽く引かれ、それから爪の先へのお化粧が始まった。

「動かないでね」

 作業を開始したライトくんの手つきは滑らかなものだった。まるでもう慣れきっているというように、ライトくんの操る刷毛が迷い無く爪の上を滑ると、私の爪が毒々しいほどの赤に染まる。僅かふた塗り程度でムラなく一つ目を染め終えると、刷毛を瓶の中に押し込んで、持上げる時には瓶の縁に擦り付けるようにして余分な液を落としている様だった。初めから決められている動きを繰り返すようにして、手慣れた手付きでそれを繰り返すライトくん。慣れてる。男の子のライトくんが、どうしてこんなにも手慣れているのだろうか。何故だか分からないけれど、面白くない。

「次、左手を出して」

 なんて思っていたら、指先ばかりに注がれていたライトくんの眼差しが、私の顔を見つめていた。私は少し、むっとした顔をしていたのかもしれない。ライトくんの口の端が、僅かにつり上がっている。途端に自分の気持ちを見透かされたような気分になって、慌てて笑顔を取り繕うと、言われた通りに左手を差し出し、右手を引っ込める。折角ライトくんが綺麗にしてくれた、まだ乾いていない爪を汚してしまわないように、細心の注意を払いつつ、ライトくんの動きを追う。左手を染め上げる時の彼も、やはり手慣れた手付きだ。

「うーん、こんなものかなぁ」

 爪の上で踊る刷毛の動きを見つめている時間はなんだかむず痒いというような印象だったのに、終わってみればあっという間だ。私は少しだけ、心地よさすら感じていたのかもしれない。心臓が、どきどき言っている。ぐいっと左手を引き寄せて仕上がりの程を確認していたライトくんは、私の指先にふうっと息を吹き掛けた。ぞわりとした擽ったさが、指先から上ってくる。

「……っ」

 思わず何も考えないまま衝動的に腕を引っ込めそうになって、ライトくんに制止された。

「こーら、駄目だよビッチちゃん。折角ボクがキミを綺麗にしてあげたのに、乱暴に扱ったら剥げちゃうでしょ」
「あっ、ごめんなさい……」
「全く、キミは本当に考えなしなんだから。いい、乾くまでの間は、絶対に動いちゃダメだからね?」
「う、うん……」

 そうだ、これは、折角ライトくんが私のためにしてくれた事なのに、それを無下に扱ってしまうなんて、そんな事は出来ない。ごくりと唾を飲み込んで、慎重に頷く。ライトくんはいい子だね、と言って、再び私の指先に息を吹き掛けはじめた。いつも私の肌の上を好き勝手に滑っているあの形よいくちびるから押し出される吐息が、私の指先を優しく包み込む。それだけで心臓がどきどきと、痛いくらいに鼓動を刻む。

「ら、ライトくん……くすぐったいよ……!」
「ほらほら、いくら気持ちいいからって、腕を引っ込めようとしないの。乾くまでお人形さんみたいに座ってるってのも、退屈でしょう? ボクはただ、早く乾くように協力してあげてるだけなんだから」
「き、気持ちは嬉しいけど、あまり、意味は無いんじゃないかな……」
「んふ、それなら、乾くまでの間の“暇潰し”のほうに付き合ってあげたほうがいいのかな?」
「……えっ」

 ぱちり、と瞬きをする。僅かに目蓋が視界を覆っている間に、それはおこったみたいだ。息を吐き出し続けていたライトくんのくちびるから、赤い舌がこちらを覗いている。舌がぺとりと手の甲に着地した時の、ぬるりとしていて酷く冷たい感覚。ひ、と悲鳴を上げそうになる。またしても衝動的に引っ込めそうになった腕は、ライトくんががっちりと強い力で掴んでいて動かしようも無かった。上目使いでこちらを見上げながら、ゆっくりと、ゆっくりと、舌を上下に動かすライトくん。その瞳は僅かに細まっていて明らかに私の反応を楽しんでいると分かるのに、それでも私は動揺に声を震わせて、彼を更に楽しませてしまう。

「や、やだ……離して」
「どうして? そんな気持ちよさそうな顔してるのに、遠慮なんかしなくてもいいから。ビッチちゃんが何処まで堪えられるのか、見物だね」

 舌を押し付けたまま発されたライトくんの声はくぐもっていて、息がかかるだけでぞわぞわと肌が粟立つ。そのまま舌が指と指の間に滑り込んで、丹念になぶりだした。ライトくんに掴まれた左手、自由な右手、両方の手をぎゅっと握りしめてしまいそうになる衝動にたえて、顔を下に反らし、ちゅぱちゅぱとわざと音を鳴らして指を舐めているライトくんを視界から追い出す。それだけじゃこの恥ずかしさは消えてくれそうもなくて、顔が熱い。

「んふ、やっぱりビッチちゃんの肌は、舐めるだけで甘いねぇ。……ん、はあ、おいし。でも、生殺しにされてる気分、かな。喉が乾いてきちゃったよ」
「……っ」
「ねえ、ボク、散々ビッチちゃんの血にそっくりなこの毒々しい赤色を見せつけられてさ、気分が酷く高揚していたところだったんだ。だから、さ」

 いいよね、の言葉に、だめ、と返す暇さえ与えてはくれなかった。親指の端に移動したライトくんの口が、思いきりかじりついてきた。ぷつん、何かが弾けるような感覚と共に、頭の中でも何かちかちかしたものが弾けたような感覚。今までとは比べ物にならない程の鋭利な衝動が、左手の先から全身に、一気に駆け巡っていった。肩を跳ねさせ、悲鳴をあげ、それでもなんとか拳を握り締めそうになるのだけは堪え、ライトくんを見る。彼は突き刺した牙を抜き、吸血を開始しているところ。こくこくと喉が鳴る度に、ざわりとした快感がのぼってきて、身を捩る事で何とか耐える。

「……っ、ん」
「んん、はあ。おいしい。ビッチちゃんの小さくて可愛い爪が、ビッチちゃんの血のような毒々しい赤に染まっているのを、こんな風に間近で見つめながら、ビッチちゃんの甘い血を啜る。最高だよ、ビッチちゃん。頭がおかしくなっちゃいそう」

 キミもでしょ? と囁いたライトくんに、再び牙を突き刺され、頭がじいんと痺れてきた。目の前がぐにゃりと歪み、なにも考えられなくなる。ただ、てのひらだけは動かさないように、必死になって堪える。ライトくんは赤に染まる私の爪を、うっとりと見つめているようだった。

「とても、似合ってるよ、ビッチちゃん。赤なんて大人っぽい色、ビッチちゃんには似合わないんじゃないかって心配していたんだけど、杞憂だったみたい。酷く似合ってる。ビッチちゃんにも、ね」
「……私、に、も?」

 ぼんやりとし始めた頭を、鈍器で殴られたような気分だった。冷たいものが、脳の中に広がってゆく。途端に、ぐにゃりと歪んでいた視界が正常に戻り、形を取り戻す。視界が開けてくる感覚。親指にかじりついているライトくんの、にやにやとした目許が、よく見える。
 ビッチちゃん“にも”似合ってる。
 どきどきと、胸がうるさい。胸が痛い。ああ、そうだ。考えないようにと頑張っていたけれど、現実を突きつけられた気がした。どうにか必死になって追い出そうと頑張っているのに、いつまでも追いかけては鼻腔に忍び込んでくる、甘い香水の香り。酷く手慣れた手付きで刷毛を操る、ライトくんの指先。私には不釣り合いな、大人の色をした爪の先。全てがパズルのピースのような形をとって、頭の中で組み立てられてゆく。残った最後のピース。わたし“にも”似合ってる。

「それって」
「んふ、どうしたのかなぁ、さっきまであんなに気持ちよさそうにしてたのに、泣きそうな顔しちゃってさ」
「……っ」
「もしかして、名前の事を気にしているの?」

 名前、あの夜に出会った女の人の名前だろうか。ライトくんは心底愉快そうに、くつくつと喉を鳴らしながら、その名前を呼んだ。咄嗟に、私は立ち上がる。シーツの上に放り投げられていた、ライトくんのプレゼントしてくれた真っ赤なネイルエナメルが、その拍子にごとりと床に投げ出された。衝撃はすぐに絨毯に吸収され、しいんと静寂が戻る。絨毯を踏み締めた私は、絨毯に惨めに転がったそれを見下ろしながら、どうでもいいというような気持ちになっていた。ドレッサーの上に大切に飾って、毎日、毎日、うきうきとした気分で、ライトくんの贈り物を眺めては、あのデートの日のライトくんを思いだし、淡い息を吐いていた自分が、酷く滑稽に思えてくる。

「なあに、いきなり立ち上がって」
「…………出ていって」

 自分でも驚くくらいに、落ち着いていて、冷めきっていて、それでもどこか感情がむき出しになった、妙な声色だった。出ていって。ライトくんがそんな言葉に、大人しく従うわけもない。そもそもここは本当の私の部屋でもない。
 けれどライトくんは、一瞬だけ驚いたような顔で私を見上げ、それからすぐに立ち上がった。そして、扉まですたすたと歩き、扉をあけ、廊下に出て、こちらを振り向き、肩を竦める。これで満足? と、確認をするような眼差し。
 かっと血液が上へと集結する。私は扉を思いきり閉め、ライトくんを視界から追い出した。ばたん、乱暴な音が、部屋に虚しく響き渡る。

「……もしかしてビッチちゃん、怒ってるの?」

 扉の向こうから、少しくぐもったライトくんの声が聞こえる。怒ってる。私は、ライトくんに、怒っているのだろうか。私は、ライトくんの餌。何度も何度も言い聞かされた事だし、思い知らされた事だし、自分自身、それ以上になれないっていう事は、分かっている。こんなの、今更だ。それなのに、何を私は怒る必要があるのだろうか。ぎゅっと拳を握りしめる。乾きかけのネイルカラーが、まるで血が滲んだように、てのひらを醜く汚した。酷く滑稽だ。

「……怒ってるよ」
「へえ、怒ってるんだ! ねえ、どうして怒ってるの? 何の資格があって、ビッチちゃんが怒ってるのかな? キミはまだ自分の身の程を弁えていないみたいだね」
「分かってる、私はライトくんの餌、分かってるよ! だったら優しくなんかしなければいいのに、プレゼントなんか、してくれなくてもよかったのに」

 扉の前で、ライトくんはくすくすと可笑しそうに笑いながら、「そっか、怒ってるんだ」と、そればかりを言っていた。耳障りな笑い声を運ぶ無慈悲な扉を見つめながら、こんな事が前にもあったな、と考える。前にライトくんを部屋から追い出した時、ライトくんは私の部屋の扉の前で、誰かとメールのやりとりをしていた。その相手が誰なのか、私はぐるぐると想像をしてしまっている。扉の向こうから断続的に、何度も、何度も響いてくる着信音に、耳を塞ぎたいような、情けない気分になった。
 今はけたたましく響くライトくんの笑い声が聞きたくなくて、部屋の中をどすどすと乱暴な音をたて移動すると、ベッドの脇に転がっていた小瓶を拾い上げ、閉ざされた扉の方に投げる。かつん、と音がして、弾き返され、再び絨毯に転がる。笑い声はまだ止まない。今度は枕を掴み、投げつける。ぼすん、鈍い音。それからは、ベッドに飛び乗って、布団の中に深く深く潜り込んだ。どうしてこんなにも憤りを感じて、どうしてこんなにも切なくなるのか分かる。
 私は、ライトくんの事が、好きで好きで仕方がないから。

「……ライトくんの、馬鹿」

 目の前に落ちた柔らかな暗闇のなか、目蓋を下ろし、私は自分の中に生まれてしまったこのどうしようもない感情と、正面から向き合う決意をした。

   
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