最終的な原因はいつだって自分にあるけれど、引き金に指先をつっこむのはいつだって自分じゃない他の誰かなのだ。それは全くの他人だったり、家族だったり、恋人だったり、それから、主人だったり。
 早く帰ってこい。日が落ちるまでには必ず戻れ。早く帰ってこい。日が落ちるまでには必ず――。
 代わりばんこに頭に響くルキくんのその絶対的な言いつけが、今日の私にとっての引き金となっていたのは紛れもない事実なのだから。



「……はぁ、困ったな」

 街のど真ん中で独り言を呟くなんて完全におかしな人間だと思われたかもしれないけれど、これは独り言も吐かずにはいられない。
 メモに綴られた買い物の量は思いの外多くて、全てを買い終える頃には、日はすっかりと傾いて、もう少しすればこの街にも等しく闇の帳が下りるだろうという頃合いになっていた。私は指を引きちぎりそうな重みの買い物袋を両手にぶら下げ、すっかり困りはててている。ルキくんの言いつけを破り、オレンジ色の夕日が燃えるような赤に変わり、やがてすっかり色を失う前に屋敷まで帰れなかったら、きっと彼は私が、監視の目がないのを良いことに逃げ出したと判断するかもしれない。そうしたらまた、彼の機嫌を損ねてしまい、優しいルキくんが何処かに消えてしまうだろう。

「……どうしよう」

 オレンジに染まるアスファルトに映る自分の影が、足だけは必死に動かしているのが見える。来た道を戻りながら、どうしよう、どうしようとそればかりを呟いていた。考えたってどうしようもない事かもしれないけど。
 暫く行くと、交差点に差し掛かった。横断歩道の向こうに見える信号は赤色に輝き、危険を知らせている。目の前を高速で通りすぎて行く何台もの自動車。ここを渡らなくちゃいけないのに、困ったな。焦れったくて買い物袋を握り直す。ああ、早く青に変わらないかな。
 ――早く帰ってこい。
 頭に響く、ルキくんの声。その時ふと、頭の中で何かが弾けたように、少し前の出来事を思い出した。
 たまに、学校から無神家に歩いて帰る事がある。その時、交差点を曲がらずに道を右に折れて、ちょっと行ってすぐの所の更に右、寂れたような小道に入ると近道が出来るんだよ、とコウくんがあの独特の明るい口調で教えてくれた事がある。道が入り組んでいるので、普段は使わないのだとか。
 ――日が落ちる前には必ず戻れ。
 再びルキくんの声が脳内で私の意識をちくちくと刺激する。そのたびに自分の指の先が焦りでぴくぴくと動いた。
 入り組んでいるという事は迷ってしまって更に帰りが遅くなる可能性だってあるだろう。だけど、それこそこんな場所で突っ立って迷っているのは大幅なタイムロスではないのか。横断歩道に設置された信号はまだまだ赤。自動車が目の前を高速で通過する。青に代わるような気配は微塵も感じられない。どのみちこのまま進んだところで、今からじゃ日が暮れる前に帰れる確率はゼロに近い。上手いこと近道を見つけられたら、少なくともゼロではなくなる。

「こ、こうなったら、一か八かの賭け!」

 私は道を右に折れると、少し行ってすぐに見つけ出した、まだ足の踏み入れた事もない寂れた道を突き進む。大きくカーブを描く道は、地面のアスファルトにいくつものひびがはいり、穴が空いているようなところもある。つまづいて買い物袋を落としたりしないよう、慎重に、足早に進む。今のところ一本道のようだった。




 ――早く帰ってこい。
 再び頭の中で例の言葉が反響する。脳味噌に刻まれたしわの一つ一つにまで染み込んできそうな、強い言葉だ。何もない道を歩いて暫く、私は第二の試練に直面していた。
 寂れた道を黙々と進めば、道の脇に三角の屋根が見えてきた。それは小さな古い協会のようで、正面までやって見上げれば、壁の白は煤でくすみ、蔦が巻き付き酷い有り様だった。今はもう、使われていない教会だろうか。こんな場所に教会があるなんて、私でも知らなかった。何となく、彼らがこの道を通りたがらない訳が分かった気がする。彼らは逆巻の皆と違い昼間にも普通の生活をするし、食事もする。ほとんど人間らしい生活をしているけれど、教会を見るのは流石に気分が悪いのかもしれない。
 なんて、時間にしたら数秒で思考を巡らせてから、私は袋を握り直す。
 ――日が落ちるまでには必ず戻れ。
 頭でルキくんの言葉が暴れまわる。与えられた選択の時。本来ならばこんな場所で選択を迫られている場合じゃない。頭に響くルキくんの言葉に従って、少しも迷いはせず、聖母マリアを背に、帰路を急ぐべきだろう。
 けれど人間というのはなんと罪深い生き物だろう。
 頭にルキくんの声が響けば響くほど、駄目だと思えば思うほど、この古びた教会に足を踏み入れてみたい、と、そんな欲求に足を引き摺られてしまいそうになる自分がいる。折角一人で外に出られたのだから、少しくらいは、自由な時間が欲しい。ヴァンパイアなんて生き物の存在さえ知らなかったあの頃を思い出させてくれる、この古びていても尚神聖な雰囲気を醸し出す建物を前に、そんな思いが頭から離れない。
 ――早く帰ってこい。
 響く声。ルキくんを取るか、神をとるか。いや、私はどちらも、取りはしなかった。正直に生きなさい、清く、正しく、約束を守り、礼を尽くし、そうお父さんに厳しく言い聞かせられ育った私は今や、ヴァンパイアに毒され過ぎたのか、正直になんか生きられそうもなかった。もはや神様もなにも関係ない。禁じられれば欲しくなるこの好奇心を満たすためだけに、私は教会に向け足を踏み出していた。




 教会の扉を押した途端、床に溜まっていた分厚い埃がいっぺんに舞い上がり、差し込んだ夕日に照されて、視界を真っ赤に染め上げた。やっぱりここは、捨てられた教会みたいだった。
 口許を押さえ、ごほごほと咳き込みながらも、私の好奇心は尽きないみたいだった。導かれるように簡素な内装の教会中に足を踏み入れ、歩きだす。中は外よりも状態が酷く、爪先がめり込んでしまうほどの埃を踏み締めて一歩歩くたび、今にも崩れてしまいそうな天井からぱらぱらと何かの屑が降ってくる。

「……きゃっ」

 一歩、二歩と恐る恐る進んだところで、足を置いた床が突如として陥没した。いや、埃が敷き詰められていて分からなかったけれど、そこに窪みがあったみたいだ。足を取られ、床に転がり、埃で出来た絨毯の上に倒れ込む。がさりと買い物袋が叩きつけられ、漸く落ち着きつつあった埃がぶわっと一気に舞い上がり、扉から差し込んだ夕日に照らされて、再び辺りが赤に染まる。
 今にも朽ち果てそうな建物に、人一人が転んだ衝撃が伝わってゆく。ばき、ばき、上から不吉な音がした。

「……!」

 慌てて上を見上げたら、ぴし、ぴし、といくつもひびが入っている天井に、新たなひびの数々が、物凄い勢いで描き入れられている瞬間だった。特に、私が倒れている場所のちょうど真上の天井のひびは酷く、一度崩落したこともあるのか、黒い小さな穴がぽっかりと空いている部分すらある。素早く首を動かして横を見れば、舞い上がる埃の中、天井の一部のような破片が転がっているのが伺えた。もしかしたら、私が足を取られたこの穴は、天井の崩落により作られたものかもしれない。
 これはまずい、そう思ってもすぐには動けなかった。
 床に放り出された買い物袋を、再び手繰り寄せなければならなかったからだ。ルキくんに任せられた仕事を途中で放棄するなんて許されない。幸いな事に中身は飛び散っておらず、身を乗り出すようにしてすぐに袋の持ち手に指を引っ掻ける事も出来たけれど、立ち上がる前に物凄い音がした。

「……っあ!」

 上から何かが降ってきた気配を、背後から感じた。それが崩落した天井だということと、私の足のすぐ横に落下しという事も、すぐに分かる。くだけ散った破片が飛び散り、そのいくつかが足にぶつかって、目がちかちかするような激痛が走ったからだ。
 もくもくと舞い上がる埃には夕日の赤が映っている。足元を見れば、それよりももっと色濃い赤が見えた。破片で、足を切ったらしく、視界が悪いなか、埃で灰色に汚れた足からは、どくどくと血が垂れ流れている。

「……うっ」

 逃げなくちゃ。ずきずきと痛みが足元から這い上がってきたけれど、我慢すれば何とか立ち上がれたので、私はすぐに教会から飛び出した。はあはあと、肩で息をする。扉の向こうを振り返って暫く眺めていたけれど、それ以上の崩落は起こらなかった。
 自分の手元を見下ろしたら、両手にはちゃんと、買い物袋が握られていた。ぱんぱんに膨れ上がった買い物袋の中身は、ひとつだって落としてきては無いみたいだ。見下ろしたじんじんと痛む自分の両足は打ち身と切り傷とそれから埃とで、物凄い色になっていた。引き摺るようにしてだけれど、なんとか歩けるのが幸いだ。空は沈む夕日で赤く染まっている。早く帰らなくては。
 今となっては、なぜこんな見るからに危険だと分かる教会に入りたくなってしまったのか、自分ですら不思議だ。




 足を引き摺りながらやっとで教会の敷地内から道路へ帰ってくると、向こうから犬のリードを握った散歩中らしき中年の男性が歩いてきている事に気がつく。埃だらけの私の姿を見てぎょっとした顔をしていた。

「あんた、まさかこの教会の中に入ったのか」

 彼は目玉をくりくりと見開きながら、私を上から下まで見回した。

「……は、はい……」
「なんてこった、そんな怪我をして。この教会は老朽化が酷く、今週にも取り壊される予定だったんだがね」
「取り壊される……?」

 かつては神と人が神聖な時を過ごしただろう場所が取り壊されるだなんて、少し寂しいような気がした。

「ああ、この前にも子供が入り込んで怪我をするという事故があって、問題になったのさ。その時から、ここは立ち入り禁止になってたんだけどね。入り口にちゃんと、チェーンがしてあっただろう。なんでまたあんた、そんな場所にわざわざ」
「チェーン……?」
「なんだいその顔は」
「チェーンなんて、されてなかったですけど」
「勝手に入ったやましいところがあるからって、嘘はいけない。私は毎日こいつの散歩でここを通っているが、昨日見たときは――」

 リードで繋がれた犬を一瞥した後、彼は教会の入り口に目を向ける。そして彼はぽかんとした顔になってしまった。そこにはやっぱり、チェーンなんて存在しなかったからだ。よくよく見たら壁にはナイフか何かで削られたような、真新しい傷まである。

「――なんだ、誰かがもっていったのか? たちの悪い悪戯だ。あんたも運が悪かったね、チェーンさえあれば、こんな場所入らなかっただろうに」












「……呆れたものだな」

 帰宅早々、私は久しぶりにルキくんの“本当に救いようの無い愚か者を見る時の目”と対面する事となった。出会った頃に随分目にした懐かしい表情だ。
 あの道は本当に近道だったらしく、足を引き摺りながら歩いていたらすぐに屋敷にたどり着いた。だから彼の言いつけを守り、日が暮れるギリギリまでには無事帰ってこれた訳だけど、もはや問題はそんなところには存在しない。

「俺は家畜に簡単な仕事を与えただけと記憶しているが、お前は一体何の指示を受け取った?」
「……あの、言われた買い物は、ちゃんと間違いなく、ここに……」
「足にこんなものを作ってこい、と、そんな事まで命令をされたのか」
「…………ごめんなさい」

 溜め息を吐いたルキくんは、すぐさま私に、屋敷を汚す事の無いようにバスルームで埃だらけの身体と汚れた傷口をきちんと洗い流してこいという、きつーい言いつけをした。
 蛇口を捻り、シャワーから流れ出た冷水を足にかける。こんな日に限ってシャワーが壊れているらしく、私は冷水を浴びる羽目になった。罰が当たったのかもしれない。流石に冷たくてぞわりと鳥肌が立ちっぱなしだった。
 表面の血が乾きかけていた傷口を流すのは酷く染みて、まとわりついていた埃を綺麗にしたら、また血が滲んできた。膝は打ち身で青く染まり、小さな傷口だらけの足。今こうして歩けている事自体、奇跡なのかもしれない。そう思ったら、急に恐ろしくなってきた。一歩間違っていたら、崩落した天井が足に直撃していたら、私の足の骨は無惨に打ち砕かれ、もう一生歩けないような体になっていたかもしれない。それどころか、生きてすらいなかった可能性だってあるのだ。どうしてあんな事をしてしまったんだろう。やっぱり私にも分からなかった。

 ルキくんはバスルームから出た私を部屋に連れていくとベッドに座らせ、手当てをしてくれた。溢れ出た血を丹念にガーゼで拭い、消毒液をふりかけ、包帯を巻いた。

「……何か言うことは?」
「え?」

 ぐるぐると、包帯を巻き付けながら、ルキくんは私を上目使いに見上げる。今度は、全てを見通すあの瞳になっている。どきりと胸が鳴る。

「その、……ありがとう、ルキくん。優しくしてくれて」

 彼の言いたい事は何となく分かっていたけれど、まずはお礼を言わなければならないと思った。苦言を呈しながらも、手当てをしてくれる手付きは酷く優しい。ルキくんはもしかしたら、私を心配して、こうしてくれているのだろうかって、また勘違いしてしまいそうになる。
 ルキくんは少しだけ手を止めて不愉快そうな顔をしたけれど、再び包帯を巻き始める。

「他に、言うことは?」
「……ルキくんの言いつけを無視して、勝手に寄り道をしようとしました。ごめんなさい」
「お前のこの傷は、いうなればそれに対する罰、という訳か」
「……ぁっ」

 ぎゅっと包帯を締め上げられ、僅かに痛みが走る。でもルキくんはそれ以上はなにも言わず、優しい手つきに戻り、通常通りの手当てを施してくれた。普段ならばきつい罰を与えられても、仕方がないような事をしたというのに、ルキくんは、やっぱり最近妙に優しい。それこそ、人が変わってしまったようだった。
 胸に僅かばかりの不安感が芽生えるのを感じた。あの日から、ルキくんは私から血を飲むこともしなくなった。
 無意識に、自らの首筋へと指を這わせる。ぼこぼこと、幾つもの牙の跡が浮かび上がっている。まるで、首を食いちぎろうとでもしているかのように、乱暴な吸血痕。アヤトくんに吸われたそれを、覆い隠すようにルキくんが吸った痕だ。あの日から、ルキくんは――。

「人間の考えは目を見たらすぐに分かるが、特に浅ましさについてはそれが顕著だな。面白いくらいだ」
「…………え?」
「そんな物欲しそうな顔をして、こっちを見るな。卑しい思考が筒抜けだ」

 手当てを終えたルキくんは私の血で真っ赤に染まったガーゼを持ち上げると、口角を吊り上げた。全てお見通しというような瞳に見つめられ、声を失う。私が秘めたいと思っている事柄を、いつだって彼は暴き出してしまう。そんなところは、普段通りの彼だ。

「俺が、お前を罰する為に、この傷口から吸血をするとでも思っていたか」

 つ、と包帯の上から膝から脛にかけてを軽くなぞられただけで、熱をもった傷と打ち身がずきずきと悲鳴をあげる。私の眉間に刻まれているだろう皺に、ルキくんは満足そうに目を細めると、血塗れのガーゼを自らの目線の高さまで持ち上げて、まじまじと見つめた。

「お前が、俺の所有物でありながら勝手に血を流したという点は不愉快だが、その品の無い醜悪な傷口から吸うほど、俺は餓えてはいない。そもそも、家畜がどんな傷をつくってこようと、俺には関係がない話だろう。お前は言いつけ通り、日暮れ前までには屋敷に辿り着いたんだ」

 それをわざわざ罰する必要が何処にある? と吐き出したルキくんの声色は冷えきっていた。
 暫く眺めた後、ルキくんは手にしたガーゼをゴミ箱に投げ入れる。指先についた僅かな血は新たなガーゼで拭い、それもゴミ箱へ。そちらに彼の眼差しが注がれる事は、僅かも無い。

「先日も言った筈だ。思い上がるな、身の程を弁えろ、自分が特別であるとは、間違っても考えるな」

 黒い瞳で真っ直ぐにこちらを見つめながら、低くて落ち着いた声でゆっくりと、暗示をかけるように言い聞かせられる。私はルキくんにとっての特別にはなり得ない、特別ではない、特別ではない、特別ではない――。木霊のように、頭で思考がぐるぐる回る。新たなピストルの引き金に再び、彼のすらりと長い指先が、突っ込まれた気がした。

20131118

   
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