「やあ、こんな場所にいきなり呼び出すなんてどうしたの、名前ちゃん」
自分で呼び出しておいて何だけど、ライトくんがあまりにも平然と女子トイレに現れたので驚いた。かといって店内でカナトくんに見られる危険性が一番低いのは女子トイレしかないので、ライトくんが素直に呼び出しに応じてくれたのは助かる。
わたしはライトくんの顔を見るなり食って掛かった。
「どうしたの、じゃない! なんなんですか、さっきから! 呼び出されたと思ったら、カナトくんが居るし!」
「お陰でカナトくんとデートが出来るんだから、感謝して欲しいくらいだね」
「それに関しては本当に感謝してるけど、どうしてこんなところまでついてくるんですか!」
「別にいいじゃない、減るものじゃないんだし。名前ちゃんの幸せそうな間抜け顔を思う存分眺めてやろうと思ってね」
「な……っ」
反論をしようとした所で、こつんこつんと廊下からヒールの音が響いてきた。わたしは咄嗟に、ライトくんの腕を引いてトイレの個室に隠れる。ライトくんの口を両手で塞いで、どきどきしながら待つこと数秒、足音は遠ざかっていった。どうやらトイレに用事があった訳ではないらしい。はあっと安堵の息を吐きながらライトくんに押し付けた手を外したら、ライトくんはにやりと笑った。
「こんな所にボクを引き込むなんて、なあに名前ちゃん、カナトくんというものがありながら、ボクを誘ってる?」
「そんなわけないないじゃないですか!」
「どうかな〜? デート中にカナトくんを放っておいて、他の男と逢い引きなんて、んふ、本当に名前ちゃんてアレだよねー」
「……!」
確かに、デート中っていうのは間違ってるにしても、カナトくんを放っておいてライトくんと会っているというのも、失礼な話であるかもしれない。わたしにはカナトくんに対する誠実さが足りなかったみたいだ。憧れのカナトくんがわたしみたいなのと一緒に過ごしてくれているというだけで凄い事なのに。しかし、ライトくんに覗かれているのを知っていながら、それを放置しておくってのもいかがなものか。
「とにかく、もう帰ってください」
「なんで?」
「なんでって、わたしが嫌だからですよ」
他にももっと言いたい事はあったけど、早くカナトくんの元に帰りたかったので、それだけ言うと個室から出ていこうとする。瞬間、ライトくんに腕を掴まれて、ぐいっと引き戻された。
「キミは自分の立場が分かっていないようだから言っておいてあげるけれど、いい、名前ちゃんにはボクに指図する権利なんて最初から無いんだよ。優しーいボクの恩情で、こんなにもキミたちのコト応援してやってるって言うのに、調子に乗るのも大概にしろ」
突然、ライトくんの声が一オクターブは低くなった。壁にぐいっと押し付けられて耳元で囁かれた低温に、ぞくりと背筋が冷える。怖い、そう思った。背中からはタイルの冷たい温度が伝わってきて、じんわりと汗が出てくる。それは、普段の軽薄な様子からは想像できないような姿だった。
「ボクは別に、キミとカナトくんの仲をずたずたに引っ掻き回してやってもいいんだ」
既に引っ掻き回されてます! と言いたかったけれど、冷ややかな瞳を前に喉がひきつっていた。するとライトくんは、何かを閃いたみたいにくちびるを歪める。
「ああ、いい事を思い付いたよ」
ライトくんの指先がわたしの襟元にかけられる。ライトくんの指はカナトくんに似て、細く、すうっと長く、綺麗な形をしていた。首でも絞められるのかと息をのんだ瞬間に、ぷつり、ぷつりとシャツのボタンを順に外されていった。上から三つ目の所まで外されてから、やっとで事態を把握して悲鳴を上げそうになる。ライトくんの長い指をくちびるに押し当てられ、それは叶わなかったけれど。
しっ、とライトくんがわたしの耳元で短く囁く。キィッと扉が開いた音と、パタンと閉まる音。それからこつんこつんとヒールの音が響き、それがだんだんと近くなる。先程通り過ぎた女性が、やっぱり引き返して来たのかもしれない。
開きかけていた口を固く閉じると、溢れでてきた唾液を飲み込む。ライトくんはにやりと笑ってわたしのくちびるから指先を外した。
それから女性は鏡の前で立ち止まったようだった。お化粧を直したり、髪型を整えているのかもしれない。
ライトくんはわたしのはだけた首もとに顔を埋めると、鎖骨の少しだけ下あたりをぺろりと舐めあげた。再び飛び出そうになった悲鳴を何とか飲み込む。目を白黒させるわたしにライトくんは再び笑うと、今度は同じ場所に、がぶりと噛みついてきた。
「……ぃっ」
あまりの痛みに飛び出しそうになった声を、手を握りしめる事によって何とか噛み殺す。肌に、なにか鋭い物が、押し込まれたような感覚だ。ただ噛まれているだけじゃなく、何かに貫かれたような、裂けるような痛み。涙が溢れてきて、目の前の白い壁がぐにゃりと歪む。痛くて、とにかく訳がわからない。
暫く耐えていると女性がやっとで出ていった気配がしたので、わたしはライトくんを思いっきり突き飛ばした。狭い個室の中、ライトくんが反対側の壁にぶつかった乾いた音がする。
「いったあ、なにするのさ、いきなり突き飛ばすなんて」
「な、何するのも痛いもこっちの台詞! いったい何を――っ」
自分の胸元を見て、驚いた。真っ赤な血が、じわじわと染み出してきて、今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。血が出るほどの力で噛むなんて、いったい彼は何を考えているんだ。ぷるぷると震えるわたしにお構い無しのライトくんがわたしの血を指で拭いとると、ちゅっと音を立ててその指を舐めた。
「……なっ!」
「んふっ、おいしい。キミの白い肌に真っ赤な噛み痕が映えて、綺麗だね」
「い、い、意味が、全く、わからないんですが!」
「ほら、そんな興奮してないで、こんないやらしい傷口、隠して隠して」
ライトくんはそう言うと、三つ目のボタンを片手で素早く止めた。手慣れた手付きだった。噛まれた位置は丁度見えるか見えないかの位置に隠れてしまったので、傷口がどうなっているのかは分からなくなった。
「さ、キミはそろそろ行った方がいいよ。カナトくんがお待ちかねだろうしさ」
錠が開けられ、個室から押し出される。振り返ったわたしに、ライトくんは鎖骨の下のあたりをトントン、と指差してにやりとわらう。
「こんな場所に噛み痕だなんて、すっごくエッチだよね。服の下に他の男の痕をつけながらデートに戻るなんて、ほーんと、名前ちゃんって変態さん。でも、そういうの、興奮しちゃうでしょ?」
かっと顔が熱くなって、慌ててシャツのボタンを全て止めようとしたら、自らも個室から出てきたライトくんに止められた。
「ああ、だめだめ、ボタンはそのままで。この、見えるか見えないかの瀬戸際がいいんだから。せいぜいカナトくんに見つからないように気を付けながら、デートを楽しむんだね」
ライトくんは笑顔を浮かべていたけれど、その瞳だけは冷ややかな色をしていて、逆らってはいけないと本能で察した。この時、わたしは逆巻ライトの本当の厄介さを知ったのだ。
「ド変態のキミは優しいのはお気に召さないみたいだから、これからはもっと愉快な方法でキミたちを応援していく事にするよ。楽しみにしていてね、名前ちゃん?」
20130927