「そうこうしているうちに、カナトくん帰ってきたみたいだよ」


 ライトくんがベッドの上を移動して、ベッドサイドに位置する窓の近くで言った。
 カナトくん。どきんと心臓が反応を示す。わたしもライトくんに倣いベッドの上を這って窓際まで移動してしまったのは、もう、無意識な行動に近かった。いわば蝶が花に引き寄せられたり、蟻が砂糖に集ったりするのと同じような原理。ああでもカナトくんは花や砂糖なんかで例えられるようなひとじゃないから、今のはやっぱりなし。


「カナトくん……!」


 窓から眼下に広がる景色を見渡してみたら、薄闇に沈む逆巻のお庭に浮かぶ、カナトくんの頭頂部を発見した。さらさらと揺れる髪が絹糸みたいで、月明かりに照らされてきらきらと輝く天使の輪が出来ている。ぬいぐるみを抱え、きっと庭師が毎日せっせと整えているんだろう素敵な庭をゆっくりと歩いている様は、本物の天使の散歩みたい。窓枠が額縁で外の出来事は現実味を帯びない絵画のようだった。普段眺めている背中も十分すぎすほど素敵なのに、初めて瞳に映す俯瞰の構図もまた、最高。カナトくん、今日もきれい。網膜に焼き付いてしまうほど強烈な美しさに、どきどきが止まらなくて、ほうと溜め息を吐き出す。


「んふ、頬をそんなに赤らめちゃって。キミはカナトくんのことを見つめるとき、凄くイイ顔をするんだね。嫉妬しちゃうくらいだよ」

 つんつんと隣から伸びてきた指先に頬をつつかれるまでずっと、別世界に飛んでいたようだ。教室で目の前の背中を見つめている時と同じ。時間感覚がなくなって、いつの間にか授業が終わっている。今日はライトくんが隣にいてくれたからそんなに長時間我を忘れずに済んだようで、カナトくんの頭はまだ額縁の中に収まっている。

「ボクは基本的に愛なんてものを信じていないんだけれど、キミのその顔を見ていたら信じてあげてもいいかなって気になるね」


 とてもやる気になってきたよ、と隣で呟く声がする。
 何だかわたしは嫌な予感がして、ずっとカナトくんのことを見つめていた瞳を、初めてライトくんに移した。ライトくんはその時窓を開け放って、そして片腕を勢いよく振り上げ、極めつけには上くちびると下くちびるを引き離す瞬間だった。


「おーい、カナトくんおかえりー。こっちこっちー」


 すぐ近くで響いた大声に鼓膜がびりびりと震えている。その声はきっと庭を歩くカナトくんの元にも届いていて、カナトくんはすぐにでもあの麗しい頭を持ち上げて声の元を辿ろうとするだろう。にこにこしながら下に向かい手を降り続けるライトくん。わたしは咄嗟に身体を横にずらし、カーテンの裏へと身を潜めた。心の準備もなにもかもを、わたしはまだ済ませていない。


「……ライト? 僕になにか用ですか」
「うん、ちょっとね。といっても用事があるのはボクじゃないんだけど。って、なに隠れてるのかな」


 ライトくんに首根っこ掴まれて、子猫が親猫にそうされるように、ずるりとカーテンの裏から引きずり出された。わたしは、ずっと好きなひとの後ろ姿ばかりを見ていたのだ。カナトくんの瞳が、今や真っ直ぐにこちらを見上げている。まるで宝石みたいにきらきら輝いて、こぼれ落ちてしまいそうで、想像通りの輝きに、胸が苦しい。なんてことだ。あの美しいカナトくんのふたつの瞳に、わたしのような平凡な小市民が映り込んでしまうなんて!


「……誰ですか?」
「あれ? んー、おかしいな。分からない?」
「僕は見たことありませんけど。ライト、また新しい女を連れ込んだんですか」


 ライトくんがこちらを振り返り、憐れむような顔をする。心なしか肩がぷるぷる震えているから、笑いを堪えているような気もする。
 わたしは、二つの意味でショックを受けていた。まず一に、カナトくんはクラスメイトであるわたしの顔すら、覚えてくれていなかった。これはいい。わたしはカナトくんと比べたらゴミクズみたいに矮小な存在であり、カナトくんの記憶の片隅を汚すことすらおこがましいのだから。問題は、カナトくんは今わたしの事を、“ライトくんとお楽しみ中だった女”として認識しようとしている。
 それはそうなるよね、と、冷静な部分のわたしが思う。こんな真夜中に部屋にあがりこんで、剰えこうやって同じベッドの上に座り込んでいるのだから。カナトくんはあの綺麗な形をした頭蓋骨に収まる脳味噌で考えて、至るべき結論に至っただけ。悪いのはわたしだった。なんてところを見られてしまったんだろう。


「あ、あ、あの、えと……。わ、わたしはライトくんとは何の関係もないんです! えっと、わたしはカナトくんのクラスメイトの××と申しまして……」
「何の関係もないなんて酷いなぁ。ボクらはあーんな秘密やこーんな秘密を共有している仲なのに」


 とりあえずカナトくんの元にも届くように大声で自己紹介を試みたけれど、どんどんと語尾が小さくなって行くのが自信の欠落の表れだ。ライトくんが余計な事を言おうとしていたからカナトくんから見えない背中の部分をつまんでやりながら、カナトくんの表情を伺う。カナトくんは“そういえばそんな奴もいたかもしれない”くらいの表情で、こちらを見上げている。


「で、どうして僕のクラスメイトがライトの部屋に?」
「え、あの、その……」
「この子がカナトくんにどーしても言いたい事があったみたいだから、連れてきてあげたんだ」
「……え?」
「僕に言いたいこと?」

 ことりと首を傾げる姿ですら、カナトくんは愛くるしい。じいっと吸い込まれそうな大きな瞳に見上げられて、汗が吹き出してきた。どうしよう、なんて言えば。どきどきと心臓が煩い。わたしは凄く、焦っていた。だって、きょうここに来たのは作戦会議をする為じゃなかったのか。どうしてわたしは今カナトくんとこうして見つめあっていて、どうしてわたしは今カナトくんに何かを言おうとしているのか。
 ライトくんは、わたしにカナトくんへの想いを吐露しろとでも言っているんだろうか。こちらを見ながら、やっぱりにやにやと笑っている。なにを言ったら、カナトくんのあの綺麗な眼差しに見合うだろう。ああ、カナトくんの事を待たせたくないのに、開いたくちびるがぱくぱくと空気を噛んでいる。だらだらと、額から汗が垂れてくる。
 どうしよう、こんなみっともない姿をカナトくんに見せるわけにはいかない。ポケットに手をつっこんで、ハンカチを探り当てる。取り合えず落ち着かなきゃ。汗を拭って再スタートだ。深呼吸をしてから額にハンカチを押し当てる。
 なにやら布とは思えない、硬質な感触が額に伝わった。


「アッハ! なあに、まさか緊張を和らげるために臭いを嗅いだりするのかな? 本人の目の前で? さっすがボク顔負けの、変態さんだねぇ」

 ライトくんが何やら興奮したように捲し立てているのが、遠くで聞こえる。絡み付くような壮絶な嫌ーな予感を受け取りながら、額の手を目の前まで持ってくる。ゆっくりと、ゆっくりと。よくよくみれば、わたしの手に収まっていたのはハンカチなんかじゃなく、ライトくんに貰った例の櫛だった。例の櫛とはつまり、カナトくんの櫛。あまりの驚きに、するりと櫛がてのひらから滑り落ちた。身を半分乗り出していたわたしの指からすり抜けたそれは、そのまま窓の外に投げ出される。ぼすん、地面にぶつかったおと。何回か転がって、やがてカナトくんの足下で停止した。
 紫色の頭がそれをじっと見下ろしている。

「僕の、櫛?」

 拾い上げ、カナトくんが再びこちらを見上げた。まずわたしを見る。わたしはさぞ、青ざめた顔をしていただろう。次に、その隣のライトくんを見た。ライトくんはにやにやしながら頬を紅潮させている。カナトくんの顔は、みるみるうちに汚いものを見るような目付きに変わって行く。

「……類は友を呼ぶっていうこの国の人間の諺は、どうやら本当だったみたいですね」

 違うの。わたしはちゃんと、返そうとしていたの。何を言ってもきっと、カナトくんには信じてもらえないだろう。ああ、カナトくんに不愉快な思いを抱かせてしまった。わたしはなんて駄目な人間なんだろう。穴があったら入りたい。
 絶望に硬直したわたしの耳許に、ライトくんがそっと耳打ちする。


「よかったね、一歩前進したみたいだ。これできっとカナトくんは、キミの顔と名前を忘れる事は無いんだからさ」

 ほらね、ボクのおかげだよ、とライトくん。
 それはもう、わたしはカナトくんから忘れられる事は無いだろう。わたしはライトくんの変態仲間として、カナトくんの記憶の片隅を汚してしまったのだから。

   
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