よくない夢を見た。

 夢から覚めた今となっては内容はよく思い出せないけれど、とても怖くて、切ない夢だった気がする。夢魔もたまには夢を見る。それが悪夢であることも。夢を司る妖魔のくせに夢に弄ばれるなんて全く、恥ずかしい限りではあるものの。うなされて呻いたりしたのか、喉がからからだった。生ぬるい布団を押しやって上体を起こす。中途半端な時間に目が覚めてしまった。どうせ目も冴えてしまった事だし、仕方がないから水でものみに行こう。
 ヴァンパイアの屋敷にはこんな真っ昼間から起きているひとなんか誰もいない。しいんと静まり返る廊下は先が見えないほど長くて、まるでこの屋敷にわたしひとりだけ取り残されてしまったんじゃないかと錯覚するほどにもの寂しい。

 ――っ、う、うう――。

 二、三歩踏み出したあたりで何処からともなく呻き声のようなものが聞こえてきた。捻り出されたような小さな声だったけれど、その声は確かな苦痛に苛まれていて、聞いているこちらまで息苦しくなってくる。一歩踏み出す毎にだんだんと大きくなる呻き声が、絡み付いてくる。見えない魔物が苦痛に充ちた世界へと誘わんとしているかのような錯覚を覚える。ああ、まるでさっき見た悪夢の続きを見ているようだ。

「……って、馬鹿みたい」

 夢は夢、現実は現実。わたしが一番よく知っているはずだし、わたしがもっとも弁えるべき事柄だ。今は間違えなく現実。だったらこの声の正体はいったい。
 ふと、廊下に並ぶ扉の一つが薄く開いているのに気がついた。確かここは、ライトの部屋だったか。わたしは僅かに開いたその隙間に誘われるように、気がついたら中を覗いていた。分厚い遮光カーテンに遮られた室内は暗く、扉の隙間から廊下の明かりが線になって射し込んでいる。ベッドに仰向けで横たわるライトはぐったりと四肢を投げ出して、意識はこの場所には無いようだ。力の抜けた四肢とは裏腹にその表情は硬く、眉間には大きなしわがいくつもよっている。気持ち悪いくらいの笑みが浮かぶ普段の顔からは考えられないような表情をしていた。
 とてつもない違和感を感じる。まるでライトじゃないみたいだった。長い睫毛の生えたまぶたが翠色の瞳を覆い隠していたし、いつも被っている帽子はサイドテーブルで沈黙していたし、服装もお洒落に気を使った普段のものよりもずっとラフな部屋着だ。だから、印象が違い、何処か幼く見えるのだろうか。それもあるだろうけれど、それだけとは考えられない違和感だ。わたしの頭の中で出来上がった逆巻ライト像と目の前で眠るライトはまるで別人のように映る。

「っ、……う、……ぅ」

 その時わたしは違和感の正体に気がついた。糸で縫い付けられているんじゃないかってくらいに固く結ばれたライトのくちびるが僅かに動き、薄い隙間から呻き声が漏れてきた。うなされていたのは、ライトだったのだ。いつだって楽しそうなライトが夢にうなされているなんて、それこそ夢のような話だ。夢には真相心理が現れる。嫌な現実に直面した際あえて悪夢を見ることで現実から意識を反らそうとしたり、忘れられないような嫌な体験をした場合、いつまでもその日の事を悪夢に見たり。
 ライトはどんな事だって面白いこととして受け入れる事ができるひとだと思っていた。だけどわたしはどうしてライトが快楽主義者になったのかなんて、考えた事もなかった。

「……ん、……誰?」

 うっかり指先が扉に触れてしまい、キィッと音を立てて扉が開いた。片目で中を覗く程度が精一杯だった扉の隙間は、わたしの姿がまるまる中から見えるくらいに広がってしまう。耳ざとく聞き付けたライトがぴくりと反応をし、目蓋がゆっくりと持ち上げられた。

「あ、ごめん、扉がちょっと空いていたから」
「……なーんだ、ナマエちゃんか。別にいいよ、寝顔を見られて困るようなことはないし。寝込みを襲いに来たのなら、大歓迎だしね」

 んふ、と口角がつり上がる。その時にはすでにライトはにやついた笑顔を浮かべていて、先ほどまで感じていた違和感が嘘のようだった。ひょいっと上体を起こしたライトがベッドの端に腰かけて、首を傾げる。


「で、こんな時間にどうしたの? 眠れないとか?」
「悪い夢を見て、目が覚めちゃって」
「んふ、サキュバスちゃんのくせに悪夢をみるなんて滑稽だね。ボクが慰めてあげるからこっちおいでよ」

 ぽんぽん、と隣の空きを二回叩いて見せたライト。悪い夢を見たなんて言ったら馬鹿にされる事は目に見えていたけれど、そう言っておけば「ボクも悪い夢を見たよ」と話に乗っかってくれるんじゃないかと思った。でもライトはそうしなかった。彼は自分がうなされていた事に、気がついていないのだろうか。招かれた通りに近づいてみたらその額には大粒の汗が滲んでいて、さっきの苦痛に喘いだライトは幻覚じゃなかった事を知る。ベッドに腰を下ろす。さっきまでライトが寝転んでいたシーツはしわだらけだ。

「ねえ、ライト」
「ん、なあに」
「さっき、凄くうなされていたみたいだけど、ライトも悪い夢を見た?」

 すぐ隣にある額の汗を指で拭ってやったら、ライトは一瞬笑顔を忘れて、凄く驚いたような顔をしていた。ちょっと幼い印象を受けるあの苦しそうな顔だ。それから、クローゼットの奥に隠しておいた零点のテストが見つかった時の子供のような、気まずそうな瞳になる。

「ふーん、そんなに前からボクの事を覗いていたんだね。気が付かなかったよ」
「ご、ごめ――」
「悪い夢? ううん、違う。むしろいい夢さ。すっごく、エッチな夢を見たんだ。思い出しただけで興奮しちゃうよ」

 にやりとライトは笑うけれど、それはもう既に、違和感を拭いされないものとなっている。いつものライトと少し違う。わたしはライトを誤解していたかもしれない。

「そう、ボクの憎くて憎くて愛しいひとが、ボクの事を見ていた」
「愛しいひと? ライト、好きなひとがいたの?」
「んふ、ボクに好きなひとがいたらおかしい?」

 ライトは胸に抱えるものなんて何もないんだと思っていた。世の中の全てを愛しているような顔をしたライトはつまり、世の中の何にだって執着がないのだと思っていた。そんなひとの口から愛しいひとだなんて言葉を聞いても、違和感が生まれるのみだ。
 ぐいっと胸ぐらを捕まれて、引き寄せられる。息がかかる程に近づいたライトの笑顔は、やっぱりいつもとはちょっと違ってる。胸の奥から冷えた息が吐き出された。何だかちょっと怖くて、顔がひきつってしまいそう。ライトは笑っているけれど、咎められているように酷く居心地が悪い。

「最近ね、何度も何度も、繰り返し同じ夢ばかり見るんだ。ああ、もしかしたらキミが見せていたのかな、サキュバスちゃん?」
「な、違うよ。わたしは何もしていない」
「んふ、どうだろうね。なにせキミはひとの部屋を勝手に覗いているようないやらしい子だから」
「それに関しては申し訳ないと思ってるけど」
「まあ、でもボクはキミが犯人だろうがなんだろうが、どっちだっていいんだ」

 わたしみないなひ弱いサキュバスがヴァンパイア様に気づかれずにそんな事を出来るわけがないって、ライトは分かっているはずなのに。
 くすくすと笑った後、ライトは上体からふっと力を抜いて、重力の赴くままにベッドへと倒れ込んだ。ぼふんと音をたてライトの背中を受け止めたシーツが波打つ。ライトに胸ぐらを掴まれていたわたしも一緒になって倒れ込みそうになって、慌てて両手をつく。ついた両手はライトの顔の両横にあって、まるでわたしが押し倒したみたいな格好になってしまった。

「それよりボク、イイコトを思い付いたんだよ。ねえ、ボクに“夢”を見せてみてよ」
「……え?」
「キミは夢魔なんだから、出来るはずだよね? ボクの憎くて愛しいひとに、もう一度会わせて」
「愛しい、ひと」

 そのひとの夢にうなされていたライトが、もう一度その夢を見たいという。その心境はどういったものだろうか。すぐ下の瞳をじっと見つめてみたけれど、なにも分からない。わたしの髪の毛が垂れてライトの頬を伝っている。
 そうだよ、と呟いたライトは、今までと少しだけ毛色の違った声で、喉をならす。そして堰を切ったようにつらつらと言葉を並べ立て始めた。

「あの吸い付くような肌に舌を這わせ、細い首に思いっきりかじりつき、糖蜜のように甘い血を思う存分に啜りたい。そしてあの人の事を、どうしようもないってくらいに気持ちよくしてあげたいんだ」

 恍惚とした表情で饒舌に語る彼は、まるで目の前が見えていないかのようだった。わたしを見上げているはずなのに、そこに愛しいひととやらを見ているのかもしれない。狂気じみた様にわたしはぞっとしていた。

「ラ、ライトの愛しいひとが誰かは分からないけど、会いたいのなら会いに行けばいいじゃない。夢なんか見るよりその方がよっぽどいいよ」
「分かってないなぁ、サキュバスちゃんは。もう会えないからキミにお願いしてるんだろ」
「もう、会えない……?」
「ボクらが殺してあげたんだ」


 背筋に直接氷を流し込まれたような気分だった。こちらをじっと見上げてくる瞳から、目が離せない。こんな押し倒しているような体制、はやく起き上がりたいのに。金縛りにあったように体が動かない。翠色の奥に見える、赤黒い感情。ライトの口から溢れてくる言葉は、真実か偽りか、わたしには判断がつかなかった。

「よくよく考えてみたらさ、サキュバスちゃんみたいな子は、まさしくボクの為に存在していると思うんだ」

 すうっと頬を撫でられる。

「だから、さ?」


 こちらを見上げるライトは何だか絵になっていて、細められた瞳から、赤いくちびるから、シーツに広がった毛先から、はだけた首元から、色気がわたしに向かって立ち上って来るようだった。逃げたいけれど、逃げられない。室内に立ち込める、たった今ライトが振り撒いた熱気が身動きすることも憚られる空気を生み出していた。全身目に見えない何かに縛り上げられたように、硬直している。
 それでも何とかくちびるだけは動す。

 
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