「どうしたのサキュバスちゃん、そんなふうに自分の両手に見とれちゃって。ほら、ここ、眉間に凄い皺が出来てるよ」
「……うわぁっ」



 宛がわれた部屋で暫くぼんやりと無為な時間を消費していたんだけど、ふいに、つんと眉間に小さな衝撃を受けた。
 その時のわたしにとっては眉間に受けた衝撃よりも、心臓の方に受けたダメージの方が大きかったと思う。わたしの眉間をつついていたのは、つい先程リビングで別れたばかりの、会いたくもない逆巻ライトだったのだから。相変わらず音もなく現れ、同じベッドの右側に腰を落ち着けて、上半身だけはわたしの顔を覗き込むように乗り出している。さっきまで浸っていたティータイムの時くらいもったりしていた気分が、ライトの猫目をみた瞬間に一気にしぼんでゆくのを感じた。ほっと一息つける場所が、わたしには与えられないのだろうか。
 にやにやした顔に向かって、早速わたしは意義を申し立てる事にする。


「人のプライベート空間に勝手に立ち入らないでくれるかな」
「ボクたちは今日から一つ屋根の下に暮らす、ただならぬ仲じゃないか。そんなに冷たくしなくてもいいのにー」
「冷たい冷たくないの問題じゃなく、ノックもせずにいきなりぬっと現れるのはどうかと思うの」
「そんな堅い事ばかり言ってるから、こーんな風に眉間に皺がよっちゃうんだよ。優しいボクが揉みほぐしてあげるね」
「いっ、いたいいたいいたい、ぐりぐりやらないで……!」


 眉間をつんつんやっていた人差し指が、そのままぐりぐりと押し付けられる。しかも捻りを利かるというオプション付きだ。まるで力加減というものを知らない手つきに悶絶するわたしを見て、始終愉快顔のライトの顔は殊更明るくなるのだからたまらない。


「んふっ、いい表情になったねサキュバスちゃん。皺をよせてるよりよっぽどいいよ」


 良いことをしたとでも言いたげな、満足そうな表情である。離れてゆくライトの人差し指を睨み付けたわたしの目尻には涙が滲んでいたと思うのだけれど、それでもこれがいい表情だというのなら、彼は目が悪いか相当にアレだ。


「い、嫌がらせする為にわざわざ来たの……?」
「嫌がらせなんてひどいなあ。ボクはただ、サキュバスちゃんの緊張をほぐしてあげようと思っただけなのに」
「そんなこと言って、何か裏があるんでしょう。何をしに来たの?」


 おでこを揉みほぐしながら見上げたライトの顔は、心底心外とでも主張した顔で嫌になる。うう、凄くじんじんする。今ごろ真っ赤に熟れたトマトのように腫れ上がっているに違いない。


「何をしにって……、んふ、なあにサキュバスちゃん。ナニを期待してるの?」
「この状況で何故期待しているという結論に至るのか、ライトの頭の中が見てみたいのだけど」
「可愛い妹がご所望とあらば、頭を真っ二つに開いて中身を見せてあげたいくらいさ」
「なあにそれ、ちょっと素敵」
「んふ、そんな風に顔を赤く染めて。ボクの中身を見てみたくて見たくて、興奮でぞくぞくしちゃったんだね」


 もちろんわたしは素敵と言う言葉の裏に精一杯の皮肉を込めてやったつもりだけど、ライトはどこ吹く風。誤解を受けそうなので名誉の為に説明しておくと、ライトの“顔を赤く染めて”という表現は極めて適切とは言いがたく、わたしが赤くしているのは腫れ上がった額であり、興奮により頬を紅潮させていた訳ではなかった。わたしはその時、冷めきった瞳で隣に座る男を見ていたんだもの。いくら魔族の一員とはいえ、目の前の男が頭を真っ二つに割ってどろりとした生臭い中身を惜しげもなく晒すまでの一部始終に歓喜するような狂い方を、わたしはしてない。目の前のこのヴァンパイアに至っては、分からないけれど。降り注ぐ血を浴びてぬらりと赤い化粧を施したライトが、呼吸を荒くしている様が目に浮かぶようだ。そう思ったら非常に恐ろしくなってきたので、わたしはその場で立ち上がった。


「いきなり立ち上がって、どうしたの?」
「わたし、今日から暮らすことになる屋敷の探索でもしてくる」


 適当な言い訳を見繕って、先程よりもいくらか下にあるライトの顔を見下ろす。ライトは「ボクが案内しようか?」なんて親切心からなんだか意地悪を言っているのかよく分からない声で言っていたけれど、断固として拒否をした。これ以上一緒に居ても兄と妹の一般的な有り様には到底なれないだろうし、面倒事が起こる確率は増すばかり。さっさと部屋を出ていくが吉。この部屋は唯一、この屋敷においてわたしに与えられたプライベート空間だというのに、全く、何故わたしが追い出されなければならないのか。ライトがわたしに与えられた筈のベッドの上で寛いでいるのだから仕方がない。適当に時間を潰して、ライトが居なくなった頃に戻ってこよう。くるりと背を向け一歩踏み出す。


「ああ、待ってよサキュバスちゃん。まだボクの用事は終わってないよ」
「……用事って」


 左手を後ろから引っ張られ前につんのめった体が転びそうになる。どうにか体制を整え振り向いたわたしの目にはもちろん、ライトに捕まれた自分の左手が映った。ほうらやっぱり何か用事があってこの部屋に来たんじゃない。なんて、振り向き様に勝ち誇った笑みを浴びせてやっても全く意図が伝わってないみたいで、ライトはのんびりとした動作で口を開く。


「血を吸わせてよ」


 わたしの顔に勝利の笑みが浮かんでいたのはごく短時間だった。今は既に、間の抜けた決まらない顔をしている。


「キミがサキュバスちゃんだからかなぁ。キミの血はね、何だかいやらしいかおりがするんだ。アヤトくんやカナトくんも凄く気にしているみたいだったから、ボクが一番乗りしようかなって」
「……ライト、わたしの事をさっき、可愛い妹って言ってなかった?」
「それがなにか問題でもあるのかな?」
「わたしだったら、血縁者から“食事”をしようなんて思わないな」
「んふ、キミの場合の食事は、性行為そのものだからね。ボクはそういうのもイケちゃうけれど、サキュバスちゃんは気になっちゃう感じ?」
「なしだとおもう」
「そんな人間が勝手に定めたルール、ボクらには全く関係のない話さ。サキュバスちゃんは随分と人間らしい物事の考え方をするんだね」


 ライトが小首を傾げ心底不思議そうな顔で覗き込んでくるので、わたしはまた、体が小さくなってそのままライトのエメラルド・グリーンの瞳に吸い込まれていくんじゃないかと錯覚する。初めてシュウに会った時と同じ感覚だ。
 これはわたしがママ以外の魔族を知らないで育った為の、価値観の相違だろうか。そのママですら元サキュバスであって、ニンゲンだった。こう考えてみたらわたしはヴァンパイアどころか、ママ以外の生き物と間近で触れ合うのも初めてに近い。
 ライトやここの兄弟と話していると、自分は異端な存在なんじゃないかと言う気がする。その存在感や魔族としての有り様に押しやられて、頭がくらくらして吐きそうだ。途端に自分と言う存在がぐにゃりと歪み、くらげのように不確かでふにゃふにゃしたものになってしまう。
 ささやかで良い、誰かに本当の自分を愛してほしい。そんな夢をもっているわたしは、ニンゲン的で愚かな女なのかもしれない。


「……わたし、ニンゲンになりたいから」


 ニンゲンは嫌いじゃないけれど、好きな訳でもなかった。ましてやニンゲンになりたいなんて事、思った事もない。本当は、ママのようになりたかっただけ。けれど、ライトに正直に夢の話をするのは嫌だったからそう言っておいた。これも決して、嘘ではない。ライトは少しだけ驚いた顔をした後、くしゃりと表情を歪ませ声を弾ませる。


「人間って、キミは何の魔力も持たないただの人間になりたいっていうの?」
「そう」
「んふっ、そんな馬鹿げた事を言う子初めてに見た。だからさっき、あいつが人間かヴァンパイアかなんてどうでも良いような事を気にしてたんだ」


 馬鹿げた事、どうでもいい事。それはわたしが決めることであって、昨日今日出会ったばかりの男にどうこう言われたくはない。触れられたくないデリケートな部分に足を無理矢理突っ込まれているような、なんとも不愉快な気持ちだった。こんな話、ライトにしなければ良かった。ただ平凡なわたしは非凡なヴァンパイアの瞳のまえだと、思うように意志が保てなくなるのだ。エメラルド・グリーンの瞳を睨んでみてもやっぱり吸い込まれそうな気がして、決まらない。


「そういえば、サキュバスちゃんたちは愛を知るとニンゲンに堕ちるって話を、何処かで聞いたことがあるよ。――キミが考えている事を当ててあげようか」
「考えてること?」
「キミがよく言っている“ママ”とあいつとが『愛』しあって、キミが生まれたって所かな。そうしてキミはそれに、喉が焼ききれそうな程の憧れをもってる。キミは誰かに愛されてみたい。人間になりたいっていうのは、その結果の話かな。サキュバスちゃんのくせに愛が欲しいなんて、図々しいったらないな」


 遠慮って事を知らないライトの踏みいってきた爪先が、ぐりぐりと擦り付けられ抉られるようだ。ライトはきっと、鋼鉄の靴をはいている。それでわたしの触れられたくないヶ所を見つけては、固い靴底であえて踏みつけてゆく。掴まれた左手を今すぐに振りほどいてしまいたい。それからベッドに押し倒して、強制的に眠りに落としてやりたいくらいだ。彼がニンゲンだったら、迷わずそうしているのに。


「ボクだったらキミを愛してるふりをしてあげられるよ。どお?」
「……冗談」


 彼のいう愛とわたしの求める愛とは、根本的に違うものだ。仮にライトが本気の愛をわたしに注いでくれるなんて有り得ない状況が存在するとして、それでも有り得ない。
 パパがニンゲンじゃなかった。だったらわたしが長年夢見てきたニンゲンに愛されるっていう夢はなに? パパがヴァンパイアだったのだから、ママ同様、わたしもヴァンパイアの愛を求めればいい? 幼い頃から育んできた大切な感情は複雑に心の奥に絡み付き、そんな簡単な話ではなくなっている。もうどうしたらいいのか、自分はどうしたいのか、自分でも分からないのだ。
 それに、ヴァンパイアという存在にはつい最近初めて会ったばかりだけれど、どうやらわたしはヴァンパイアという生き物が好きじゃないみたいだもの。



「ざんねーん。でも、面白い話を聞かせてくれたから、今日のところはサキュバスちゃんの血は我慢しておいてあげる」


 そのままライトに拘束された左手がやっと自由を得るんだと考えたのは、わたしの希望的観測でしかなかった。手首をつかむライトの少し骨張っている長い指先がぴくりと動く。わたしの予想とは裏腹に指先には力が込められて、強く掴まれた左手をぐいっと引き寄せられる。上半身が引っ張られて腰を折る。ぐんぐんと、ライトの口許に左手が吸い込まれるようにして近付いている。

「かわりに、別の体液をもらうよ」

 べろり。効果音をつけるなら、まさにそれ。今のシーンでどうしたらそんな音がするのか、凡そ似つかわしくない音がしたので思考が追い付かない。てのひらを擽るのはライトの舌先で、それがてのひらに刻まれた溝のあたりや指のあいだ、さらには爪の先っぽなんかを通過するたびに左手から脳味噌に、くすぐったいような感覚が伝達される。ライトに捕らわれた手は知らず知らずのうちに緊張でじっとりと汗ばんでいた。それがライトの他よりも綺麗な形をしたくちびるの中に、消えてゆくみたいだった。ヴァンパイアって血を飲む生き物じゃなかっただろうか。同じ体液でも汗を、じゅるじゅる唾を絡めながら舐めている目の前のヴァンパイアは、明らかに異質だ。

 
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