わたしには大きな夢がある。







 わたしとママは冬になれば地上ぜんぶをすっぽりと雪でおおわれてしまうような北の国の、小さなニンゲンの村で生活をしていた。ママはわたしが生まれる頃にその村に引っ越した。サキュバスは子供を産むと魔力が失われ、ただのニンゲンになるからだ。生まれた頃から培ってきた魔に準ずる者としての感覚ばかりは直ぐには抜けきらなくてママは随分と苦労したらしい。特に昼夜逆転の生活はどうしても直らなくて、わたしたちは村のニンゲンとは一切関わりを持たない形で、静かに、隠れるように、ひっそりと暮らす事になった。村の奥の方、用事がないかぎりは誰も近寄らないような山の上での二人きりの生活。

 わたしの記憶の中には、ママとの想い出しか存在しない。後はたまに空からひっそりと観察するニンゲンの姿と、本で読んだイメージの中での漠然とした外の世界。村のニンゲンたちは山の上でひっそりと暮らすわたしたちを気味悪がって口々にいろいろな噂話をしているみたいだったけれど、わたしにしてみればすぐに老い死んでしまうニンゲンのひどく脆いその存在の方が随分とおかしく映った。だけどわたしはそんなニンゲンが嫌いではなかった。それはきっと、ママがニンゲンの事を好きだったからだと思う。ママは一度もニンゲンの悪口は言わなかったし、ママとわたしの家にはニンゲンの描いた物語を綴る本やテレビやラジオ、ニンゲンの作ったものがとにかく溢れていた。

 家を満たすニンゲンのものは本や機械には収まらなかった。リビングの写真立ての中のニンゲンの写真。これはあなたのパパなのよと、いつかママに教えてもらった。ママの肩を抱いた、パパの写真。わたしは嫌な事があった日にはその写真立ての前で一日中過ごした。その写真を眺めているあいだ酷く幸せな気分になれるのだ。ママはパパに愛されていた。サキュバスは本来子供を産めない。だけど捕食相手であるべき筈の存在とほんとうに愛し合ったときだけ、奇跡がおきる。誘惑するべきはずの相手と恋に落ちるなんてのは恥。その禁を破った罰としてサキュバスは子供を産むと全ての魔力を奪われ、ただのニンゲンへと堕ちるらしい。ニンゲンに堕ちたママも、恋になんか落ちるからそんな姿になってしまったんだ、馬鹿だ愚かだと、仲間たちに随分と罵られたらしい。だけどママの隣で過ごしてきたわたしは、ママの事を愚かとも可哀想とも思わなかった。だってママはニンゲンになった事を後悔なんてしていないみたいだったから。写真立てを眺めるママの表情を見るのは、写真立てを眺める時間よりももっと好きだった。


 ニンゲンたちのわたしたちに対する口さがない噂が激化したころ、ママは小さなわたしたちのお城を守る砦のように、家の周りにたくさんの薔薇の花を植えた。ママの薔薇園は美しく気高い香りをどこまでもどこまでもふりまいて、見るものの心に癒しを与えた。その中でわたしが一番気に入っていた背の高い真っ赤な薔薇ある。一番に気に入っていた理由は血のように艶やかなその赤が好きだったからという単純なもの。


 まだわたしがそのお気に入りの薔薇の花の枝よりも背の小さかった頃。わたしの“夢”は厚い雪のなか春を待つあの蕾と同じように、わたしの胸でぷっくりと膨らみ始めていた。


 村での遊び相手はママだけだった。幼いわたしはママが薔薇園の手入れをしている間、本を読んだり絵を描いたりして過ごした。わたしの知識の殆どは家にあった本で吸収した。足りない部分、特にサキュバスの生体についてはママが補ってくれた。サキュバスが成人したら旅立つというのも、この頃知った話。ママの買ってくれたスクラップブックには夢を描いた。子供ながらの下手くそな絵と、青虫が這っているような字。色はやたらカラフルで、七色のクレヨンがセンスの欠片も感じられないような配色で紙の上をやりたい放題行ったり来たり。美術の先生の目に触れたのなら潰れた虫みたいな顔をしていくつもの改善点をくどくどと並べ立てられたであろうその見開きのページが、その頃にはわたしにとっての全てになっていた。

 もちろんわたには先生なんていなかったし、ママにすらそれを見せた事はなかったのだから、そんな顔を拝む機会は来なかったけれど。

 毎朝のように寝る前のわずかな時間をそのクラフトの表紙を持ち上る事に費やしていたのだから、どんな手触りをしていて、どんな香りで、どこにココアをこぼしたシミがあって、どこに傷をつけてしまったのか。今でも鮮明に思い出せる。紙の上を飛び越えてどこまでも広がる大切な夢で心の中を隙間なく埋め尽くしてから眠りにつくのが、なによりの幸せ。


 薔薇園の規模は年々大きくなっていった。わたしはお気に入りの赤い薔薇の花よりも背が大きくなっていた。その頃にはお菓子の空き箱の中に隠してベッドの奥のほうに大切にしまった筈のスクラップブックが何処に行ってしまったのか、いつの間にか分からなくなってしまった。だけど夢だけは変わらず、あの赤い薔薇の花のように、わたしの心の奥で凛とした佇まいで咲き誇っていた。


 それは大人になってわたしが旅立った今でも変わらない。お気に入りの赤い薔薇はママのもと、わたしは離ればなれになってしまった。だけど心の中には差し木したように全く同じものが咲き誇っていて、その夢の香りを振り撒いている。毎日水をやり大切に育み続けたそれは、どんな高価な薔薇よりも香り高いだろう。



 わたしの夢。
 それは、ママみたいになる事だった。












「……いつまで触ってるの」


 無遠慮に乳房を揉みしだく男のごつごつとした掌を叩き落として、わたしは立ち上がった。お腹の奥からトロリとしたものがこぼれ落ち、股の間を伝って行くのを感じる。酷く気だるい。だけど、力がみなぎってくるよう。相反する二つの感覚が混在する様は、なんだか不思議だ。初仕事にして初めての感覚だけれど、どうやらわたしはこの感覚が嫌いでは無いらしい。ニンゲンが初めての時に感じるという痛みも、ほとんど無かった。身体がまるで当たり前の事とでも言うように、すんなり受け入れてしまったのだ。

 アスファルトの上に仰向けに転がった男を見下ろす。男が起き上がる気配は無い。ぐうぐうと寝息を立て、巨乳の女と絡み合う夢でも見ているのだろう。ぴくぴくといやらしく動いている指先を見るに、まだ巨乳を揉み続けているらしい。


「……幸せなニンゲン」

 サキュバスに精液を搾り取られたとも知らずに。







 あのヴァンパイアの屋敷を何とか逃げ出してから、一日がたった。

 太陽がこちらを監視している間は森で眠ってやり過ごし、地上が再び月の支配下に置かれた頃、お腹が空いたので街に繰り出した。ナンパしてきた男を適当な建物の影に誘い込んで、食事をしたのはつい数分前のはなし。

 男は女なら誰でもよかったんだろうし、わたしも食事をさせてくれるなら誰でもよかった。わたしはお腹が膨れたし、男は良い夢をみられたのだから、お互いよい取引だったと思う。この男に何か不都合があったのだとしたら、路上でいたしたから起きた時に少し身体が痛むかもしれないけれど、そんなものは微々たる問題だと思う。男の名誉を配慮して、こうして影になった人気の無い場所を選んであげたのだし。塀を越えた先にある、大きな建物の影。いい場所だ。


 そんな訳でわたしの初仕事は満月の夜から一日すぎてしまったものの、滞りなく完了した言えるだろう。お腹もいっぱいになったし、ヴァンパイアたちの横暴のせいで削り取られた精神も随分と回復してきた。なにも足りない物はない、全ての事は上手く運んでいる。その筈なのに、わたしは少しだけ、憂鬱だった。
 地面に転がった服を拾い上げてボタンをとめながら、胸に鉛のような物がのろのろと沈んでいく感覚を、じんわりと噛み締めている。この男は違った、この男はわたしを愛してはくれない。そしてわたしも、この男は愛せないだろう。目蓋の裏の美しい巨乳女にしがみつき、文字通り夢中になって腰をふる男が脳裏をちらつく。どうしてこんなにも惨めな気持ちになるんだろう。

 セックスはきっと好きだ。気持ちいいしお腹が膨れる。だけどわたしは知らない男とこうして永遠に毎夜毎夜この行為を繰り返すのかと思うと狂ったような気持ちになる。わたしはママみたいになりたい。誰かに愛される存在に。
 その一心だけでママがパパに出会ったという地、“ニホン”にやってきてしまうくらいに、わたしにとってそれは、大切な思いだった。その為になら魔力全てを奪われる事すら、むしろ良いことのように思える。

 
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