きょうだい【兄弟】

同じ親から生まれたものどうし。兄と弟だけでなく、兄と妹、姉と弟の間柄についてもいう。






 お手元の辞書を開いてみて欲しい。隙間なく活字が印刷された厚みの無いぺらぺらの紙をいくつか捲ったその先の、当たり前のように並べ立てられたその一節に、まさか自分の目を疑わなければいけない日が来るなんて夢にも思わなかった。兄弟、きょうだい、キョウダイ、何度心の中で唱えてみても、その言葉のもつ意味が変わる筈もない。
 わたしはまるで生まれたての子山羊みたいに足をぶるぶると震わせながら、冬の朝の湖にはった氷のように冷たい息を吐き出す。当たり前だと思っていたものが、いとも簡単に崩れ落ちて行く様を見せつけられているような心地。どうせだったら兄弟の意味が当たり前を覆してくれればよかったのに、辞書に書き付けられた兄弟は、どこまでいっても兄弟だった。





「よかったじゃねぇかスバル、妹が出来て。末っ子卒業だな」


 雪が降り積もったかの如く真っ白に染まっていた意識は、逆巻アヤトの空気を読まない一言によって溶かされた。逆巻家のリビングへとたった今帰還してしまったわたしの意識は、もういっそのこと頭の中の辞書とにらめっこを続けながら雪に埋もれていた方がマシだったんじゃないかと、まだ現実逃避を諦めないでいる。


「……ふん。誰がいるかよ、こんな妹」


 ゴミでも押し付けられたとばかりの嫌そうな顔をこちらに向けるのは逆巻スバル。流石のわたしにも、ぐさりと突き刺さる言葉の凶器。もちろん現実を受け入れまいとする今のわたしに突き刺さったのは、悪意のこもったスバルの言葉より、鬱陶しそうなその眼差しよりも、「妹」その一文字だ。


「い、い、妹って、ちょっと待ってよ。わたしには何がなんだか」
「なーにぶつぶつ言ってんだよ、オマエは」
「なんというか、にわかには信じがたいというか……妹……?」
「ったく、鈍い女だな。オマエもアイツの子供なんだろ?」
「どうやらそうみたいだけど……」
「だったら妹だろ。オマエみてーなのがオレ様たちより先に生まれてるなんてこと、まずないだろうし」
「……妹、妹……」


 その単語はどういう意味だっただろうかとまた心の中で辞書を引く作業に没頭してしまいたい。

 確かに永遠に近い命を授かったヴァンパイアの彼らの方が、わたしよりも長いときを過ごしてきた可能性の方が高いだろうという点に関してならば、わたしも同感ではあるけれど。わたしが問題視しているのはそんな事では無いのだ。わたしが彼らと兄妹だというのならは、今現在も休みなく身体中を駆け巡るわたしの血には、ヴァンパイアの血が流れているという事になるのではないだろうか。それは“トーゴさん”がヴァンパイアであるという他ならぬ証拠であり、そんな話をわたしは受け入れる訳にはいかない。トーゴさんは、絶対に、ニンゲンでなければならないのだ。


「ま、待って。“トーゴさん”はニンゲンなんだよね? って事は、あなた達のママの方がヴァンパイアだっていうこと? どうしてニンゲンがヴァンパイアの父親に……」
「……は?」


 指折りながらおよその疑問を吐き出しつくし顔を上げた先には、“お兄ちゃん”達の意表をつかれたような顔が6つほど。そしてすぐに可哀想なものを見る目にかわったものだから、泣きたくなってきた。


「だってママは、ニホンで出会ったニンゲンと恋に落ちて、それでわたしが産まれたって……」
「ククッ、なんだその女どもが好きそうな、小説みてぇな設定。傑作なんだけど。オマエ騙されてたんだよ、だぁーい好きなママにな」
「……え」
「それか、オマエのママも、アイツに騙されてたのかもな。オマエのその頭の緩さは遺伝かなんかなのか?」

 右隣のアヤトが、わたしの頭に手をおいてぐしゃりと髪をかき混ぜる。遠目でみれば妹を可愛がる兄の図に見えないでもないが、近くまで来たら、アヤトはわたしをもの凄く馬鹿にした顔をしていたし、わたしもわたしで嫌そうな顔をしていたことがお分かり頂けるだろう。こんなものが兄妹だなんてよく言えたものだ。

「わたしはともかくママの悪口は言わないでくれるかな」
「自分の頭が緩いって事は認めるんですね。ヴァンパイアの家の当主、それも帝王に人間がなれる訳ないって思考がたどり着かない時点で、相当ですよね」
「……う」

 今度は背後のカナトが首に手を回して囁いた。極めつけには左隣のライトが、わたしの腕に指を絡めながら耳たぶに毒を吹き込むように言うのだ。

「あの人はきっと、この世界で一番に有名なヴァンパイアなんだろうね。ちょっと不愉快な話だけど」
「パパが、ヴァンパイア……」


 現実とは往往にして残酷なものだというけれど、なんという現実だ。迫り来る現実を受け入れる事しか出来なくなった呆然自失なわたしは、絡み付く“お兄ちゃん”たちを振り払う事も忘れて手元に目を落とす。両手で包み込んだティーカップの中のアールグレイの琥珀色が、ゆらゆらとなだらかに揺れていた。

 はらはらとわたしの胸の中の大切な薔薇の花弁が散る。落ちた花びらは波紋を立てながら、その毒々しいまでの赤を琥珀の中にとかしてゆく。血が滲んでいくように、全てが赤に染まる。毒に犯されたかのように気分が悪い。わたしはその血のように赤い薔薇を唯一無二の気高く美しいものだと思っていたけれど、それは全くの倒錯だったみたい。わたしの夢は言ってしまえば徒花で、正しい形の結末なんか迎える訳がなかった。ママの薔薇園の気品溢れる薔薇とは大違い。きらきら輝いて見えたわたしの夢は、偽りという脆い土台の上で成り立った、まがい物だったんだ。
 それに気付いたわたしは、わたしの夢とは違い、憎らしくも本物の輝きを放つ手元のティーカップを、取り落としそうになる。

 ママのようになりたい。
 わたしもいつか、ママにとってのトーゴさんを見つけたい。
 サキュバスという名の呪いからわたしを救いだしてくれる、“ニンゲン”を。
 わたしが長年大切に育んできた夢は、ニホンに来た次の日に早くも崩れ去った。




「それにしてもあの人もまだまだ元気だよねぇ、ご老体はそろそろ引っ込んでてくれればいいのにさ。僕たちの他にもまだ子供がいたなんて」

 隣でこくんと一口紅茶を飲み込んでから、ライトは何でもない事みたいな口調でいった。

「貴方たちは驚かないの?」
「驚くって、何に?」
「なんだかすんなり受け入れてるみたいだけど、貴方たちのパパが外に他の女作ってて、わたしはその子供だってことだよね」
「まあ、今に始まった事じゃないし。ボクたちにはそれぞれ違う、三人の母親が居るんだ。キミの“ママ”はさしずめ、いる筈のない四人目って所かな」
「ふ、ふうん」


 ライトの発言はやっぱり、内容のどろどろさなんて一瞬わすれちゃうくらいにさらっと放たれてゆく。三人という事は、全員違う母親だという訳でも無いみたいだからその内訳は後で確認する事として、わたしのパパ改めわたしたちのパパは、どうやら淫蕩に過ぎるらしい。淫魔のわたしが言うのもなんだけど。

 パパはママの他にも確かに女を愛していて、こうしてその結晶ともいうべき子供までもが、今目の前に存在している。
 その事に関してはショックは受けていない。愛が永遠に美しい形を保つ不変の存在だなんて、そんな非現実的で馬鹿げた考えを信じていた訳ではない。わたしにはあの写真立てだけで十分で、あの1枚の写真だけが、わたしの信じている真実なのだから。あの写真を撮ったあの時あの瞬間、二人は愛し合っていた。わたしにはその確信がある。だって生き生きと伝わってくるあの表情は、本物だもの。そしてわたしの存在こそが、その裏付けになっている。その事実さえあれば、今は他の女と幸せになっていようが、誰を愛していようが、関係ない。ママはそれでも会えないトーゴさんの事を慕っていたし、それが二人の愛の形だった。ママは今でも幸せなのだから、わたしがその事に関して口出ししたり感情を揺さぶらせたりする権利は無いわけだし。
 わたしたちは元々、夢の中でしか愛を語れない。一瞬でも本当の自分に愛を注いでもらえるならば、身に余る贅沢だ。ママみたいな愛の形は、ガラス細工みたいに綺麗に見えて、胸が焼けるようなのだ。

 わたしがショックなのは、トーゴさんがニンゲンでは無かった事、ただそれだけだった。













「ここが貴女の部屋になります、自由に使ってください」


 レイジに案内された部屋は調度品も多くはなく、いたってシンプルな一室だった。手持ちの荷物なんて一つもないわたしにとって少し淋しいような気もするけれど、寝心地の良さそうな大きなベッドがあるだけでよしとしよう。白いシーツがぴりしと敷かれたベッドに腰掛け、わたしは今までの出来事を整理してみた。

 わたしが今日から暮らす事となったこの屋敷は、逆巻の名をもつヴァンパイアたちの住みかである。なぜこんな場所で暮らすことになったのかと言えば、ニンゲンである筈のわたしのパパがこの家の主人、つまりヴァンパイアだったからだ。わたしはこの屋敷の住人たちの、妹であるらしい。
 この件について、考えられるケースは大きく分けてふたつ。
 一に、ママはパパがヴァンパイアと知らずに恋に落ち、パパもまたママに自分の正体を隠していたケース。この場合ママはわたしが半分ヴァンパイアだっていう事も知らないし、この家がヴァンパイアたちの巣窟だと知らずに、わたしを送り出した事になる。
 二に、ママはパパがヴァンパイアだと知っていて、わたしにパパがニンゲンだと嘘をついていた。このケースの場合、ママはここがヴァンパイアの屋敷だと知っていて、あえてわたしをこの環境に送った。

 どちらにせよありそうで頭が痛い話だ。
 もう家に帰る事もできないわたしはママに問い詰める事もできず、手がかりを持っていそうなひとと言えばトーゴさん本人のみ。とはいえ、トーゴさんはこの家に暮らしているわけじゃなくお城で暮らしているのだと、部屋に案内する道中レイジが言っていた。特にわたしは呼ばれている訳でもないらしいから、わざわざ会いに行くのも気が引ける。ずっと会っていなかったし会うことも無いだろうと考えていたパパに、今さら会うなんてかなりの勇気を要する事態だもの。

「……ふう」

 溜め息をつくと幸せが逃げるという俗説が本当ならば、今日のうちにわたしは一体いくつの幸せを逃がした事だろう。せめて何かすることでもあれば気も紛れただろうけど、手持ちの荷物なんて一つもないし、整理をして時間を潰すこともできない。がらんとした部屋の内装をただ眺めるしか仕事がない。となると頭には陰鬱な思考ばかりが浮かんできて、その結果産み出されるのが溜め息なのだ。

「……これから、どうしようか」

 掌を目の前にかざしてみる。この両手には、ヴァンパイアの血とサキュバスの血が流れている。
 おもちゃ箱の中に大切にしまっていた宝物を急に取り上げられた幼児のように、どうしたらいいのか分からない。本物の幼児ならば泣きわめく事も出来ただろうけど、そんなみっともない事が許される歳でもないし。

「……ヴァンパイア、かぁ……」

 もしかしたら、わたしもいつか、彼らのように誰かの血を欲するようになってしまうのだろうか。浮遊してきたそんな考えを吹き飛ばすよう、かぶりを振った。

20130504

   
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