満月の次の日は少しだけアンニュイだ。その日から暫くは完璧から遠ざかるばかりのそれを見上げる事になるのだから。だけどこれほどまでに憂鬱な満月の次の日というのも珍しい。少しだけ欠けた月を背に、溜め息を吐く。
 満月を背負って優雅な空中遊泳を楽しんだ昨日と同様に、わたしはまた鳥も飛ばないような上空でニホンを見下ろしていた。優雅な空中遊泳ってなんの話だよというツッコミは決してしないように。

 わたしの右手には地図、左手には小さなメモが握られている。

 月明かりに照らされた地図は、眼下の島国と細部まで寸分狂いなく同形をしている。二つの違いといえば地図の上では分かりやすく県境を黒い線が分断しているって事くらい。本物の地上もこんな風にすっぱり境目があったなら、きっとニンゲンは戦争なんか起さないんだろうななんて事をいつも思う。だけど今はそんな話は関係ない。メモ用紙の方にそっと視線を移す。
 小さな頃から見慣れたママの少し角がまるまったような字で綴られている、とある住所。それを頭に叩き込んでからもう一度地図に視線を戻す。地図と地上との相違点を、もうひとつ発見した。地図には一ヶ所だけ、真っ赤なマジックで丸印が打たれた場所があるのだ。

「……神無町、か」


 メモにある住所と丸印の場所はどうやら同じ土地のようだ。地上と照らし合わせその丸がどの位置なのか特定しながらも、わたしは旅立つ前、ママがメモと一緒にわたしに持たせてくれた言葉を思い返していた。唯一、わたしが持って旅だったのは地図とメモ、そしてそのママの言葉だけ。後は食料もお金もなにも持っていない。


 あなたがもし本当に日本に行きたいというのなら、ママは応援するわ。全く知らない遠い土地に行く事になるんだから拠点となる住み処が必要ね。いい、この住所を頼りなさい。ママが話は通しておくから。


 いつもと変わらぬのんびりとした口調で、ママはそんなような事を言っていた。













「……」


 数十分後、わたしは聳える建物を見上げながら、辟易していた。なだらかな階段をのぼった先の少しだけ高い土地に聳えたつ、歴史を感じさせるくすんだ色の壁。煤色に包まれた屋根と、屋敷を取り囲むうっそうとした緑。庭は綺麗に整えられていて、空から見たらまるで箱庭みたい。壁に伝う蔦が醸し出しているちょっとだけ怪しげな雰囲気も味わい深い。欠けた月を背負っていても堂々とした風格を感じさせ、とても絵になっていてほぅと溜め息が漏れるほどに素敵。
 素敵――の筈なんだけど。
 上から見下ろしても下から見上げても、右や左に移動して角度を変えてみても。どうにも見覚えのあるお屋敷に頭痛がする。どうやら目の前に広がる光景に見覚えがあるのは、騙し絵的なものではないらしい。雪山にできたクレバスのように深く深くばっくりと裂けるように刻み込まれた昨日の悪夢が、鮮明すぎるほどに思い起こされる。嫌だ、こんなの、わたしは信じたくない。



「どうして、わたしはまたこの場所に戻ってきてしまったのだろうか」



 ニンゲンが好むどこかの哲学者が言ってそうな台詞だけれど、なんの事はない。わたしは右手に握られたこのメモに綴られた住所を辿ってきただけなのだから。何かの間違いかと、念のためちょうど都合よく通りすがった近所の住人の話を聞いた。


「その住所ならちょうどそこの古いお屋敷だよ」


 ちなみにこの辺でこのお屋敷はお化け屋敷として有名だとか。この前も不気味な人影を見たのよ、だとか。こんな夜更けにこの家の前を通るのは恐ろしいけど仕方なくなんたらかんたら。貴女みたいな若い女の子がこんな夜中に一人でなんたらかんたら。
 聞いた事から聞かないことまで有り難くも色々と喋り続けてくれた壮年のニンゲンの女の言葉は、ショックを受け止める事に尽力していたわたしの耳には半分も聞き取れない。気付いた時にはお喋りを繰り広げていた筈の彼女も消えていて、屋敷の前に再び一人。

 お化け屋敷、秘め事を語る少女のような声で彼女は言っていた。つまり、絶対、確実に、ヴァンパイアの屋敷の事を指しているのだと思う。否定をしてほしかったのに、証言台に立った彼女はわたしの望む展開には不利な証言を残していった。


 衝動的に、右手の恐ろしい紙切れをくしゃりと握りつぶす。なぜママのメモにこんな呪いのような文字が刻まれていたのかは知らないけれど、わたしの頭はこの呪いめいた事態を受け入れる準備が整っていない。
 今のなし! このメモは、見なかった事にしよう。今日わたしはここへは来なかった。だってわたしはママのメモをうっかり無くしてしまったのだから。幸い今日はヴァンパイア達は留守なのか、それとも気づいていないのか、屋敷から出てくる様子はない。今のうちならば無かった話にできる。

 くるりと踵を返す。

 その瞬間わたしの視界の端に迷惑にも写り込んで来たのは、交差点を曲がるのにも一苦労しそうな、やけに長いリムジンの黒光りするボディーだった。毎晩研きあげられているのか高級感溢れる光沢を放っているそれは、大きな身体からは想像できないような静かさで進み、徐々にわたしの視界を侵食する。滑るようにこちらへと近づいてくるのだ。
 そのままわたしのすぐ目の前で静かに停車した時点で嫌な予感しかしなかったけれど、時すでに遅し。リムジンのドアが開くと途端に昨日の悪夢の残り香のような、どろっとした空気が流れ出してくる。流石のわたしも、これがヴァンパイアの魔力だっていい加減学習した。



「おやおやおやー、君は昨日のサキュバスちゃんじゃないか」


 揃いも揃って全員で何処かに出掛けていたのだろうか。ぞろぞろと列をなしてリムジンを降りてくるのは、既に見慣れた顔になったヴァンパイアご一行様。一番最初に降りてきた帽子の彼が、顔中の筋肉を緩ませて幼児のように無邪気に笑いながらわたしに駆け寄る。血の気が引いたわたしの目の前は真っ白でぼやぼやとしていたけれど、それでも彼がやっぱり昨日と同じ顔をしていた事は分かった。


「……な」


 なんていう最悪なタイミングで帰ってくるのだろうか、悪意すら感じる。いや、彼らは悪意が人形になったような生き物なんだった。


「なんであなたたちがここに!」
「馬鹿ですか? ここが自分の家だからですが」
「むしろオマエが今夜もまたここにいる事の方がよっぽど変だろ、せっかく逃げられたのにな?」
「……う」
「自分からまたこうやって戻ってくるなんて……、やっぱりサキュバスちゃんはボクに襲われたかったんだね!」
「いやいや違う違う。わたしはただ、このメモを……」
「……メモ?」


 あっと声を出す隙もなく、右手からメモが消える。ひょいと隣から簡単に奪い取られてしまったらしい。気がつけばすぐ傍らに眼鏡のヴァンパイアがいて、見上げる頃には既にメモの内容を頭に入れている最中だった。ぐしゃぐしゃに握りつぶしたもんだから、ちょっと読みづらそうに眉間に皺を寄せている。
 さっきわたしが見たとき、眼鏡の彼は一番最後にリムジンから降りてきていた所だったのにいつの間に。相変わらずの嫌味な瞬間移動わざだ。

 リムジンから降りてきたヴァンパイアは全部で5人。よく見れば少し前に誤って忍び込んだ学校で会ったばかりの白髪のヴァンパイア、“スバルくん”までもが混ざっていて、少しだけ驚いたような顔でこちらを見ていた。もしかとは思っていたけど、やっぱり彼もこの屋敷の住人らしい。そしてもう一人、昨日のわたしの救世主、ニンゲンの女の子の姿ももちろんある。
 全員昨日とはうって代わり、スバルと同じような制服を身にまとっていた。

「このメモは見たところ我が家の住所が記されているようですが、どういう事ですか?」
「その住所を頼れって渡されたんだけど」
「頼れ?」
「わたし今、住む場所がないから」
「んふ、それならちょうどいい、サキュバスちゃんもこの屋敷に住めば――」
「話が拗れるのでライトはお黙りなさい。これはどなたに渡されたものですか?」
「ママ。それを辿ってきたら、おかしな事にここにたどり着いちゃったんだよね……」


 はあと溜め息をつけば、顎に手を当て思案顔される。わたしだって意味が分からないのだから、どうしようもない。




「じゃあ、やっぱりあんたがあいつの言ってた奴だったのか」


 リムジンの中身は眼鏡の彼で最後だと思っていたけど、どうやら違ったらしい。声の方へ顔を向ければ、本当の最後の一人が酷くのろのろとした動作で地面に足をつけながら言葉を放っている。昨日の無気力ヴァンパイアだった。相変わらずのやる気のなさに、こっちまで気が抜けそう。


「えっ、ちょっと待ってあいつの言ってたって……? あなた、何か知ってるの?」
「おととい、あいつが久しぶりに連絡してきて、夢魔が訪ねてくるだろうから適当に仲良くやれって」
「アイツっていうのが誰かはよくわかんないけど、だから昨日わたしが現れても全く驚かなかったのか」


 この場に居る誰もが――わたしですらどうしてわたしが昨日に引き続きこの場に居るのか全く意味が分からない中、どうやらこのだるだるヴァンパイアだけは何か事情を知っているらしい。地面に立った後も相変わらずだるそうに歩く彼に、つかつかと歩み寄る。


「何か事情を知ってるのなら昨日話してくれればよかったのに……!」


 昨日忍び込んだのは確かにわたしの失態だった。それは弁明しようのない事実だ。だけど、この男が何か知ってたなら昨日の時点で話していてくれたなら、「一度屋敷を逃げ出してまた捕まりに帰ってきた間抜け女」なんておかしな構図も生まれなかったのでは。


「いや、昨日はそんな事すっかり忘れてた。あんたが逃げたって聞いて、そういえばあいつが何か言ってたなと思い出した」
「わ、忘れてた?」
「とにかく、あんたは今日から家で暮らす。それでいいだろ」
「なんでヴァンパイアの屋敷で暮らすことになるのか、全く事情が見えないんだけど」
「ハァ、めんどくさい……、俺もそこまでは知らない。一緒に暮らせとしか」
「そんな適当な」
「うるさい女だな。そもそもあんたがなにも聞かされてない方がおかしいだろ」
「……それはもっともだけど」


 屋敷に向かう足を止めようともせずに話すもんだから、わたしは必死に彼の前に回り込んで話しかけようとするけれど、顔も合わせずするりとかわされてしまう。くそう、動作はだるそうなのに以外に素早い。
 確かにママが何も言っておいてくれなかったのもおかしいけれど、ママもあれで適当なひとだったりする。現時点で何か事情を知ってそうなのはこの男しか居ない。このままじゃわたしだって納得できないし、他の皆だってそうだろう。特に眼鏡のヴァンパイアは不愉快そうに彼の後ろ姿を睨んでいるから、こちらとしても気が気じゃない。この二人、本当に仲が悪いんだな。






「……とにかく、なにか事情がある事は分かりました。長話になりそうですし色々と聞きたい事もあるので、この件については中で話しませんか」


 眼鏡の提案でわたしたちは家の中で話し合いをする事になった。まさかこのお屋敷に正面から堂々とお邪魔する日が来ようとは。

 
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -