「ど……、どうもごきげんよう。素敵な満月の夜だね」


 例えばもしわたしたちの世界では有名な魔王様や、ニンゲンたちにはその魔王様を倒すと真しやかに囁かれているらしい勇者が、今現在のわたしの状況に置かれたとしよう。そうすればきっとわたしと同様に、ご機嫌伺いの笑顔を貼り付けてしどろもどろになっていたと思うの。今現在のわたしっていうのは、ヴァンパイア3人にサキュバスが1人っていう状態。

 痛いほどに注がれる怪物の視線に、笑顔がひきつるのは自然の摂理だ。目の前の扉を塞ぐのはヴァンパイアとおぼしき三つの影。彼等が本当にヴァンパイアかどうかなんて知らないけれど、彼等はこのヴァンパイアの屋敷の、さっきまでヴァンパイアが眠っていたリビングに、いきなり姿を現した。ヴァンパイアには空間を瞬時に移動できる能力があるという話を、昔聞いたことがある。
 これは簡単に逃げられそうもない。自業自得だけど面倒な事になったものだ。


「んふっ、本当に今日は素敵な満月の夜だねぇ。君みたいな可愛いサキュバスちゃんに会えるだなんて。なんでこんな所ににいるのかな?」


 何だか小馬鹿にしたような喋り方で、三つのうち真ん中の影、帽子の男が近づいてきた。コツンコツンと広いリビングに響くリズミカルな足音。さっきまでの静寂が嘘みたい。にやにやと歪んだ笑みをたたえる彼の背後から、ニンゲンではおよそ有り得ないような濃密でどどろとしたオーラのようなものを感じる。わたしには心地のよいオーラだ。ニンゲンとそれ以外との見分け方なんて知りもしなかったけれど、もしかしたらあれが印になっているのかもしれない。


「ええっと。まず先に弁解しておきたいんだけど、わたしは決して害意があって忍び込んできたわけじゃなくて……」
「へーえ、君は忍び込んで来たわけだ。ヴァンパイアの住み処に侵入するだなんてサキュバスちゃんも随分と大胆な事をするよね」
「うう、それは」


 ニンゲンの住み処と勘違いをして忍び込んで来たなんていったら、流石に怒りだすだろうか。彼は絶やさず顔面に笑顔を張り付けてはいるが、それは優しいからではない。広い心を持ちなさいと半ば洗脳のように言い聞かせられ育った聖職者たちがするような、慈悲に満ち溢れる笑顔とそれとは、明らかに種類の違うものなのだから。


「理由はあまり言いたくないんだけど、とにかく、あなたたちのテリトリーを侵そうだとかそんな恐ろしい事は絶対に……」
「んふっ、責めてる訳じゃないんだからそんなに必死になって逃げなくてもいいのに」


 くすくすと顔を歪める彼に気をとられていたら、ふいに足に何かが当たった。はっとして視線だけをそちらに向ける。右のふくらはぎの辺りに先刻のソファーがくっついていて、その時初めてわたしは自分が後退りしていたんだという事実を知った。無意識だった。少なくとも今はまだ何をされた訳でもないのだから、必要以上に臆する事は無いはずなのに、知らずに構えてしまうのは彼らから滲み出る威圧感のようなものの所為かもしれない。後退りすらままならなくなったわたしは、コツコツ音を鳴らしながらどんどんと近くなるその顔を見つめるしかなくなった。



「何をそんなにビクビクしてるんですか? とりあえずソファーにでも座って落ち着いて下さい」

 抑揚の無い声が、わたしの耳にそっと忍び込んでくる。

「ほら、親切な僕が座らせてあげますから」
「なに……うわあっ」


 この部屋には目の前の彼の他に二つもの影が存在していたというのに、すぐ前にある瞳ばかりを見つめていたのがいけなかったんだと思う。声が背後から聞こえてきたんだとわたしが理解するよりも先に、強ばった両肩に後ろから手がのっかった。そして気がつけばわたしのお尻は、ずっと眺めているばかりだった筈のソファーとすっかり仲良しになっている。座り心地はなかなかよくはあるけど、今はそんなことどうでもいい。


「え? え、ええ?」
「なにをおかしな顔をしているんですか」


 振り向いたらソファーの背もたれの向こう側で、紫色の髪の毛をした男の子がこちらを覗いている。目元の隈が目立つその大きな瞳の中に写る自分は、おかしな顔じゃなくて困惑した顔をしていると思うんだけれど。扉の前にいたはずの三人のうち、ぬいぐるみらしきものを大事に抱えていた子が、わたしの背後にまた瞬間的に移動しやがったらしかった。


「そうだぜ、せっかく来たんだからゆっくりしていけばいいじゃん。このオレ様が歓迎してやるぜ!」


 もう慣れたんだけど、そのやけに艶やかな声が右耳を擽るようにすぐ側で聞こえたのだって突然。振り返ればすぐそこに最後の一人、赤髪のヴァンパイアの顔。まるでそんな高機能な移動能力を持ち合わせてないわたしに対する嫌がらせか何かのようじゃないか。
 彼は同じソファーに腰を落として半分わたしに身体をもたれかけるようにしているため、彼のその距離の近いことといったら。重い。息が鼻にかかっている。


「アヤトくんがそっちに座るなら、じゃあボクはこっちがわの隣に座ろうかな」


 すぐそこまで来ていた帽子のヴァンパイアが反対側に座り込んできて、更に窮屈になる。そうして完成したのが、両隣背後をヴァンパイアに囲まれた、この恐怖の構図。
 いまこの瞬間を切り取って額縁に飾るのだとして、タイトルをつけて良いって言われたら、多分わたしは『四面楚歌』ってつける。いや、四面じゃなくて、いまのところはまだ三面だけど。救いがないって意味ではどっちみちおなじだ。


「そんじゃ、味見でもするかな」


 彼らはどうやらわたしに混乱してる暇も与える気は無いらしかった。元々一番近かった赤髪の顔が殊更近づいてきて、その水晶みたいにきらきら光る魅力的な瞳についつい視線を持っていかれる。次の瞬間、ぺろりと鼻の頭に生暖かくてざらざらした感触が。


「……。」
「んー、まあ、ソレナリ、だな?」
「……いまのはいったい?」
「ああ? だから味見っつっただろ、味見。それ以外になにがあるっていうんだ」
「味見されるいわれはないと思うの」
「はあ? イワレだ? オレはヴァンパイアだぜ?」


 何を当たり前な事をと赤髪くん。やっぱりヴァンパイアだったのかという事はそれこそ当たり前な話だから置いておくとして、……なんというか、これは。もしかして、否もしかもしかしなくてもわたしの血を吸おうとか思っているのでは。身体をのけぜらせて顔を少しでも彼から離そうとするけれど、迷惑な事に反対側にも別のヴァンパイアの体が鎮座しているんだった。


「ああ、アヤトくん一人だけ狡いんだ」
「そうですよ、僕だって喉がカラカラなのに独り占めしようなんて……ひどいです」
「ハッ、こーゆーのは早いモン勝ちだって決まってるんだよ」
「ちょっと待って」
「ああ?」
「ちょっと確認しておきたいんだけど、もしかしてわたしの血を吸おうとしてたり……?」


 ほんの少しの間だけ、彼らが登場する前と同じようなしんとした静寂が帰ってきた。答えを聞くまでもなく、当たり前の事ばかり聞くなよなコイツという空気である。


「そんな当たり前のことを聞いて、まさか馬鹿なんですか? そんなことヴァンパイアの屋敷に忍び込んだ時点で決まってるじゃないですか」
「それも、こんな満月の夜にな。自分からわざわざオレらのご馳走になりにくるなんて、オマエ、相当なマゾだな」
「ち……違うんだけど! だけど……!」


 ヴァンパイアの屋敷に不法侵入というおおポカをやらかした現時点では、マゾヒストのレッテルを貼られても仕方がないというのは十分に理解できる。


「ヴァンパイアが血を吸おうとするのは当たり前の事だとおもわないかい? 君たちが毎晩ボクたち男の精液を、やらしい目をして狙っているのと一緒さ」
「そんなやらしい目はしてないと思うのだけれど」
「してるよ、今だってほら。ボクはサキュバスちゃんに搾取される側でも一向に構わないんだけどね。んふっ、考えたら興奮してきちゃった」
「……。それは遠慮しておきたい」


 隣ではぁはぁ言い出した帽子のヴァンパイアの表情を見た瞬間、今わたしが第一に取り組むべき問題は、この場をどう逃げるかだという事が判明した。

 別に血を少し分けるくらいならば構わなかったけど、首を差し出したが最期、干からびるまで吸い付くされないとも限らない。というか今までの態度から察するに、この三人は絶対そうするような気がする。そうなればニンゲンよりも頑丈なわたしだって、生きてはいられないだろう。そんなのは勘弁願いたい。


「遠慮って、おかしな事をいうね。じゃあサキュバスちゃんは何をしにわざわざ忍び込んできたのさ?」
「だからそれは……」


 わたしはニンゲンを狩りにきたのであって、ヴァンパイアが相手だなんてごめんだ。なんて事も言えないし。そもそも、彼らだってニンゲンの血を啜って生きているんじゃなかったのか。
 とにかく今は何か別の話題にすりかえつつ、会話を適当に引き伸ばして隙を伺うのが妥当だ。えーと、話題、話題は……。


「ふふ、何をそんなに考えているんですか?」
「え? だから、ええと」
「なんだオマエ。まさか会話を引き伸ばしてなんとかして逃げよう、なーんて考えてんの?」
「……う」
「調子にのらないでくださいね。君ごときの誤魔化しが通用するとでも思ったんですか」


 既に考えはばればれだったらしい。肩に添えられていたはずの背後の両手が、一瞬のうちに首にかかる。


「君は頭が弱いようなので一応いっておきますけど、動くと痛いですよ?」
「……っ」


 半分絞められるようにして首を鷲掴みにされ、そのまま彼の顔が降りてきた。紫色の髪の毛が月明かりに照らされてさらさらと揺れている。その口許からちらちらと覗く牙に嫌でも視線が持っていかれる。


「おい、待てよカナト。こーゆー場合、オレ様が一番だろ」
「なにをいっているんですか。邪魔をしないで下さいアヤト」


 首筋まであと一センチで牙が届く。そんな瞬間に制止の声をあげたのは、赤髪のヴァンパイアらしい。もちろんそれはわたしを助けようなんて優しい考えに基づいた行動からじゃないことは明確だけど、取り敢えずの窮地は凌いだ。――とは、言えないか。二人はそのままの体制で、ぎゃいきゃいと言い合いを始めたのだから。
 言い合いが加速するにつれてわたしの首に置かれた白く冷たいヴァンパイアの手にも、力が込められてゆく。赤髪を睨み付けるのに夢中なその手の持ち主は、全くこちらに気付いていない。いや、気付いていて、腹いせにわざとやっているのかも。


「…………っぅ」


 何とか首から指を外そうともがく。だけど流石ヴァンパイアといわざるを得ない握力で、わたしの力では少し拘束を緩めることしか出来ない。く、苦しい……。苦しいというか、痛い。息が切れるより先に、首がごとりともげ落ちそうな勢いだ。

 唯一言い合いに加わっていない帽子の彼だけはわたしの顔がどんどん真っ赤になっていっているのに気づいていたみたいだったけど、ヴァンパイアに助けるなんて思考はもともと備わってないみたい。にやにやとした顔で、わたしの観察なんかを始めた。今までで一番、いきいきとした表情をしている。なんてやつだ。

 
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