「ねえ、皆こんなところでなにして……」



 女の子の声だったと思う。
 残念ながら虐げられる真っ最中でそんな余裕が無かったわたしには、その声が小鳥の囀りのように可愛らしいものだったのか、ピアノの戦慄のように美しいものだったのか、はたまた地獄に轟く金切り声のように醜いものであったのか。そこまでは判別出来なかったけれど、顔を上げた先には間違いなく女の子が立っていたのだから、やっぱりその声は彼女の声だったのだろう。
 決して開くことは無いだろうと諦めていたその扉の向こう側で、彼女は紡ぎかけの言葉の先を言えないままに立ち尽くしていた。顔中の筋肉は凍り付いてしまっている。まずい場面に居合わせてしまった、という顔だ。
 それはそうだ。ヴァンパイアに虐げられるサキュバスなんてシュールな光景、わたしだって出来れば遭遇したくないし。
 見たところ彼女こそは、本物の”ニンゲン”の女の子に見えるのだから尚更だ。邪気の感じられない純粋そうな大きな瞳を、不安の色で満たしていた。

 わたしも突然現れた謎の少女の次の行動を見守っていたし、この空間に居る全員、彼女に視線を奪われていた。なにせニンゲンの女の子が何故ここにいるのか、わたしにはさっぱり意味が分からない。


「あの、えっと、私……カナトくんにここの掃除を頼まれていて。あの……」


 カナト、の名前に反応して紫髪の彼がああ、と思い出したような顔をする。
 掃除というと、彼女はこの屋敷のメイドか何かなのだろうか。春に咲く色素の薄いリンゴの花弁のような髪と、絹みたいに滑らかで柔らかそうな白い肌。ヴァンパイアの屋敷には凡そにつかわしくない、ふわふわした雰囲気の砂糖菓子みたいな可愛い女の子。こんなじめじめとした場所よりも、日曜日の教会で讃美歌を歌っている方がよっぽど似合いそう。
 彼女がこの屋敷の一員でニンゲンながらに魔の世界に片足を突っ込んでいるのだとしたら、ニンゲンは見た目によらないという言葉は本当なのかもしれない。それともわたしには見抜けないだけで、彼女もヴァンパイアだとでもいうのだろうか。

 突っ立ったままの体制で何か言いたそうな瞳でわたしを見つめる彼女。だけどそれ以上の言葉はなかなか形にする勇気が出ないみたいでもじもじと言い淀む様子に、”カナトくん”は言葉を投げ捨てる。


「いま取り込み中なんです、見ていて分かりませんか。後にしてください」
「でも……」


 今にも泣きそうだというのに、やっぱりまだわたしの方をガン見してくれている。主に視線は鉄の食い込んだ手首に注がれているみたい。わたしが彼女みたいな女の子が何故ここに居るのか不思議に思っているのと同じように、彼女もまた、わたしみたいなサキュバスが何ゆえこんな場所で手錠に繋がれて居るのか不思議なようだ。


「なんです、まだなにか言いたい事でもあるの?」
「な……っ、何があったのかは分からないけど、痛そうだしその人も嫌がってるみたいだから……や、やめてあげたほうがいいんじゃ……、ないかなぁ、って」


 不思議、というよりも心配してくれていたらしい。

 ただでさえ濃い隈をさらに濃く刻み不機嫌を隠そうともしないヴァンパイアに酷く怯えているらしく、ぐらぐらと震えた声だったけれど、上目遣いにこちらを見つめる視線は気遣わしげ。じぃんと胸にひろがってゆく、あたたかな波紋。初めての気持ちだった。この瞬間、わたしは彼女に好意的な感情を抱いていたみたい。

 ”その人”と彼女は言った。
 ヴァンパイアである今まで出会ってきたここの住人は一目にしてわたしの正体を暴いてきたのだから、やっぱり彼女はニンゲンで、しかも聖女のように慈悲深い女の子なのかもしれない。自らの不利益を省みないで、わたしのような見ず知らずの存在の心配さえしてくれる。全く、妖魔も少しは彼女みたいな心遣いを見習うべきであるとわたしは思う。


「そ、そう、私は思うんだけど……」



 なおもわたしをかばい続けてくれる彼女の気遣いを尊いもののように思う気持ちの裏側で、わたしはもう一つの思考をめぐらせている。

 いまが、千載一遇のチャンスだということ。

 この部屋に居るみんながみんな、彼女に気を取られていた。口では何処かに行けと突き放していた紫髪のヴァンパイアも、セメントで塗り固めたように全く隙の伺えなかったあの眼鏡のヴァンパイアでさえ、その意識は完全に彼女の大きな瞳へと飲み込まれている。眼鏡のヴァンパイアがリビングにやってきた時とは比べるべくも無いくらいの巨大な隙。

 もしかしたら彼女はただのメイドじゃなくて、このヴァンパイア達にとって大切な存在なんじゃないかと思った。そうじゃなかったら途中で姿を現したからといって、隙の無い彼らがここまで熱心に視線を注ぐだろうか。

 ニンゲンがヴァンパイアの屋敷で大切にされているというのは大きな興味をひく事柄ではあるけれど、今のわたしはこの家のそんな事情を呑気に眺めている場合ではない。そういうのは当事者にならず、テレビの前で紅茶でも飲みながらのんびりと鑑賞するからこそ、初めて面白味が生まれるのだから。

 今のわたしのやるべきことはただひとつ。

 手錠を引きちぎり、ヴァンパイアたちをかわして扉まで一直線に駆けぬけ、彼女をすれ違いぎみに追い越し、階段を掛け上がり、窓を突き破って、太陽の下で逃走劇を繰り広げる。
 ……行ける。
 隙だらけの彼らの背中を見てわたしは確信をもった。今までの完全詰み状態から考えると、簡単すぎるミッションだ。




(…………よし、)


 すでに汗でべちゃべちゃになりかけていた掌を握りしめ、両腕に身体中の力を終結させる。力を爆発させればパァンと鼓膜を揺さぶる鉄が粉々になる音。それからはまるでリモコンのスローボタンを押したみたいに時がゆっくりと進んだ。もどかしいほどに遅く感じる動作で逃亡への最初の1歩を踏み出す。

 酷く驚いた顔でわたしを見つめる彼女をすれ違い様に追い越すとき、わたしは罪悪感というものを一切感じなかった。こうして彼女が恐怖心を克服して心優しくも手を差しのべようとしているその傍らで、彼女を置いて勝手に逃げ出すわたしを、彼女は卑怯者だと罵るだろうか。だけどそんなのはわたしの知った話ではない。彼女の優しさを見習うべきだと思う一方で、やっぱりわたしもどこまでいっても妖魔。自分に向けられた優しさじゃなければ、彼女の行動を理解すら出来なかったと思う。
 残念ながらわたしは優しくて可愛くて柔らかくていい匂いのするふわふわした女の子ではない。ニンゲンの彼女よりはヴァンパイアの彼らの方に、遥かに近い存在なのだから。




20130203

   
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