突然だけど聞いてほしい。これはわりと真剣な悩みなのだけれど、わたしは今、深刻なストーカー被害にあっている。といっても相手が普通のニンゲンならばわたしもこんなに困ったりはしていないのだけれど、困った事に相手は少し――その、わたしも人の趣味趣向に口出し出来るような存在ではないし、こう言うのはなんだけれど、彼は、そう、少し特殊なセイテキシコウをもったニンゲンらしかった。

「ねえ……待ってよ……もっと……もっともっと……俺の事、痛め付けて……」

 背後から投げ掛けられる穏やかじゃない言葉を無視しつづけながら、わたしは学校の廊下を早足で歩いている。こんな要望をしてくるニンゲンをわたしは見たことがない。ライトはその節があるかもしれないけれど、それは全くの別のはなし。まったく、どうしてこんな事になったのか。投げ掛けられる声に無言を貫き通しながら、わたしはちょっと前の、授業が終わった頃へと思考を巡らせていた。
 思えば数十分前、珍しく真面目に授業を終えたわたしが、いつものように帰り支度を整え、教室から廊下に足を踏み出した瞬間。あの瞬間が、全てのはじまりだ
 ぐにゅり、踏み出した足が何かを踏んだ、という感触がした事を鮮明に覚えている。それはところ構わず床で眠りにつくシュウを踏みつけてしまった時のような感触だった。恐る恐る足元を見下ろしてみると、そこに居たのは思い浮かべていた人物とは違う、見知らぬ男子生徒だった。彼は傷だらけ、包帯だらけの体をしており、その傷を抱き抱えるようにして踞っていた。包帯だらけの体の上に、わたしの足が無遠慮に乗っかっている。すぐにわたしは状況を理解して足を引いた。きっとわたしは大怪我を負って踞っているニンゲンを、気づきもせず踏みつけてしまったに違いない。

「わ、ご、ごめん」

 慌てて脇に避けるわたしを見上げた彼の顔には苦痛の色も浮かんでいなければ、わたしを咎めるような表情も浮かんでいない。ただ、その小さな傷が見受けられる顔に期待の色を湛えて、わたしをじっと見上げていた。

「いいよ……君は……俺を痛め付けてくれるんだね。……嬉しいよ……。君は……俺の事を好きなんだね……」
「え? ちょっと、君、本当に大丈夫?」
「うん……俺は大丈夫……」
「ほんとうに? 頭でも打ったんじゃ……」
「頭は打ってないけど、頭を踏んでくれてもいいよ……もっと……もっと踏んで……俺を痛め付けて……ねえ」
「……。」



 というわけで、話は今に舞い戻る。後の流れはすでに、今の会話でお察し頂けるだろう。
 本気で彼の事を撒こうと足を動かしているのに、あれから彼は、かれこれ数十分はわたしの事をストーキングしている。時間も時間の為、ちょっと前までは廊下に沢山いた生徒たちの姿も、徐々に減りつつある。油汚れもびっくりのしつこさだった。廊下をいったり来たりしながら、見知らぬ男子生徒と早足のおいかけっこ。こうしていると、いったい自分は何をしているのだろう、という気分になってきた。
 ここでわたしは大きな賭けに出ることに決めた。手近な教室に入って、彼をやり過ごすことにしよう。もしそれでも見つかりでもしようものなら、袋の鼠もいい所なので、リスクの高い賭けではあったものの、どうせ彼はニンゲンだし、見るからに肉のついていない華奢な体をしていたので、どうとでもなるだろう。廊下の次の角を曲がってすぐの部屋に身を潜める事としよう。
 わたしは計画通りに「科学準備室」のプレートを標榜するドアに身を滑り込ませ、すぐに扉を閉めた。カーテンを閉め切られた扉の中は暗い。その中で、もぞりと何かが蠢いた気がした。静寂な室内に、誰かが息を漏らす音が聞こえてくる。

「……ん」
「あれ、先客がいた? 申し訳ないけれど、ちょっと匿ってほしいんだ」
「サキュバスちゃん?」
「え? ライト?」

 聞き覚えのある声に、薄闇の中目をこらす。どうやらライトがサボっていたらしく、机を二つ並べたその上で身を横たえていた。わたしに気がついたライトが、むくりと起き上がる。

「やあ、こんな場所で会うとは奇遇だね、サキュバスちゃん」
「……こんな所でサボって居眠りなんて、シュウみたいな事するね」
「ええー、あのレベルと一緒にされるのは心外だよ。それより、慌ててどうしたの? そんなに息を弾ませる程、ボクに会いたかった?」
「あ、そうだった。何だかわたしにもよく分からないんだけど、今、ストーカー? に追われてるみたいで」

 逃げ込んできたんだよね、と、扉の方を振り返る。薄い扉を挟む向こう側の廊下の静寂。今のところ、追っ手はわたしの所在に気付いていないらしい。

「ストーカーって……んふ、サキュバスちゃんを追い回すような奇特なストーカーもいるんだね」
「ん? 何だか凄く馬鹿にされてる?」
「気のせいでしょ。ねえ、そのストーカー、ボクが追い払ってあげようか」
「ライトが?」
「ボクとサキュバスちゃんがー、親密なコイビトゴッコをしてそいつに見せつけてあげたら、きっとショックを受けてサキュバスちゃんを追い回そうなんて気は起こさなくなるよ」
「気持ちは嬉しいけど、そっちの方がなんだか危険な気がするよ」
「サキュバスちゃんたら、ナニを想像してるの?」
「何ってそれは……っ」

 言葉の途中、ライトにぐいっと手を引かれ、机の下に体を押し込められた。口許はライトのてのひらに覆われて、その意外なおおきさと骨ばった感触、滑らかな肌触りに驚いた。しーっとすぐ隣のライトがわたしに耳打ちをする。よくよく耳を澄ませば教室のドアの外には誰かいるみたいで、こつん、こつんという足音。小さな磨りガラス越しに、曖昧な黒い影が蠢いているのが見える。だんだんとそれが近づいてきて、暫くすると――がちゃり、そんな音が聞こえてきた。

「――って、え? がちゃり?」

 再び包帯の彼に見つかって面倒な事になるのも嫌なのでライトの腕の中息を潜めていたわたしは、その瞬間立ち上がって扉に駆けた。取っ手に指を引っ掻けて横にスライドしようと試みるが、ドアは凍り付いてしまったみたいに、びくとも動かない。やはり、先程のがちゃりという音は錠の落ちる音だったようだ。

「なーんだ、サキュバスちゃんがストーカーなんていうから期待していたのに、ただのセンセだったわけか」
「え、え」
「んふ、時間も時間だからね。使わない教室に鍵を掛けに来たらしい」

 ライトは面白そうににたにたと笑みを浮かべたけれど、わたしの背中にはたらりと嫌な汗が伝って行き、制服のシャツに染み込んだ。つまり、この状況から、導き出される結論は、だ。

「…………閉じ込められた?」
「みたいだね」

 扉に貼り付いて、どんどんと叩いてみる。まだ中にいまーす、とも叫んでみたけれど、もう既に先生は去った後みたいで、磨りガラスの向こうにその影は見つけられない。つい先程までわたしを追い回していた彼は、ついにわたしを諦めてしまったらしく、彼の気配すらない。そうだ、気配だ。両目を瞑り意識を集中させ全身全霊ニンゲンの気配を探ってみても、校舎にちらほらとニンゲンが残っているみたいだけれど、この廊下周辺には人っ子一人気配がないようだった。迫り来る未来は絶望オンリー。先程まではあれだけ、早く包帯の彼を撒きたいとばかり考えていたのに、こんな時だけ見つけてほしいと考えているのだからわたしも大概現金だ。

「んふ、いくら呼んでも叫んでも無駄だと思うよ。ここら辺はあまり使われない教室ばかりが並んでいるし、次にここが使われる日まで、閉じ込められたままかもね」
「……なんだか、この絶望的シチュエーションにそうも落ち着いていられるライトが羨ましくなってくるよ」
「サキュバスちゃんと夜の教室で二人きり。絶望的どころか素敵なシチュエーションじゃない、いつまでだって閉じ込められていたいくらいだよ」
「……はぁ」
「それに、こんなドアくらい出ようと思えば容易く抜けられるしね」
「壊すつもり?」

 スバルなんか素手で壁を破壊しているわけだから、ヴァンパイアにとってそんな事造作もないのかもしれないれど、ガッコウの物を破壊するっていうのは、流石に気が引ける。

「まさか。そんな事しなくても問題ないよ」
「ああ、あなたたちって時々しゅっとテレポートするものね」
「そ、せいかーい」

 それこそ、鍵をしっかりとかけて眠っていた筈なのに、翌日目覚めると何故か目の前に三つ子の誰かが居たりする。大変迷惑を被る能力ではあったものの、こんな時ばかりは有り難い能力だ。いや、わたしには関係がない話か。わたしの能力じゃなく、ライトの能力だし。隣でライトがすっと立ち上がったので、わたしはその裾を咄嗟に掴んで引き留めていた。

「んふ、どうしたの。そんないじらしく、袖なんか掴んじゃってさ」
「…………行かないで」
「あっは、キミがそんなしおらしい事言うなんて驚きだね! いいよ、凄く可愛いよ、サキュバスちゃん?」
「思ってもないのに可愛いって言うのはライトの悪い癖だと思う」
「まさか、ボクは可愛いって思った子にしかこんな事は言わないよ。今のサキュバスちゃんはいじらしくて、計算高いいやらしい顔をしていて、すごーく可愛いよ」

 ならばせいぜいもっと可愛いと思ってもらえるように、ライトの言う計算高さとやらを発揮して、ライトの袖をくいくいっと小さくひっぱってみる。これは、わたしの未来がかかった大切な事だ。わたしが立つ岐路に掲げられた看板には「右・絶望の谷、左・希望の丘」と書き付けられている。

「ねぇ、ライト、お願い。外に出て誰かに事情を説明したり、職員室から鍵を取ってきてくれたりは……」
「キミの目にはボクが、わざわざそんな事をしてあげるような、慈悲深い心を持っているように見える?」
「……見えない」

 ああ、ちょっとは足掻いてみようとしたものの、やはりわたしの向かう先は決まっていたらしい。回れ右して大人しく絶望の谷に落ちてゆくしかないようだ。
 潔く諦めたわたしはライトからぱっと手を離し、近くの壁に背を預け、ずるずると床に座り込む。後何時間、下手したら何十時間ここで、誰かがやって来るのを待たなくてはいけないのだろう。山で遭難したような気分。ここはお金持ちばかりが通う学校らしいのだけれど、下手に広すぎる学校っていうのも考えものだ。
 多分今のわたしでは、廊下と教室を隔てるあの薄いドアでさえ蹴破れないって事は、ドアに手を掛けた瞬間に分かった。やっぱりわたしはどうしてもそんな気分になれなくて、あれからずっと、“食事”をしていない。お腹がぺこぺこで、追いかけてくるニンゲンの男ひとり撒く力すらも無くなってしまった。下手したらこのまま、この教室で餓死してしまうのだろうか。それも本望だという気がしてきた。
 隣の壁にはライトが背中を預け、同じく座り込む。

「……わたしを置いて、行っちゃうんじゃなかったの?」
「サキュバスちゃんが上目使いで『一人にしないで、おいてかないで、お願い、ライトくん……!』って可愛くおねだりしてくれたからね。暫く一緒にいてあげるくらいはしようと思って」
「そこまでは言っていないのだけれど」

 そこまでしてくれるなら鍵を開けてくれればいいものを、ライトもよくよく分からない性格だ。ヴァンパイア様のお考えをしがないサキュバスなんかが察しようとしても、土台無理な話なのかもしれない。はあーと溜め息をついたら、横からわたしの顔を覗き込んだライトが、にたり、くちびるの端を吊り上げる。

「ねえ」
「なに」
「キミがここから出られるもう一つの方法を、ボクは知ってるよ」
「出られる方法って?」
「サキュバスちゃん、キミは必死に見ないふりをしているみたいだけど、ボクにはキミの事なんか、とっくにお見通しなんだ」
「え?」

 にたにたと笑みを湛えるライトの顔は、まるで全てを分かっているとでも言いたげなもので、吐き気がした。訳が分からないよ、と一蹴してやろうと口をひらいた瞬間に、素早くライトの手が伸びてきて、人差し指を口の中に思いきり突っ込まれた。

「……んぐっ!」

 訳もわからず硬直している間に、ライトの指先は口腔内で蠢き、舌を撫で、歯列をなぞった。息苦しくて、込み上げてくる嘔吐感に涙目になり、ライトの顔の判別すらつかなくなる頃に、口内のある部分へとたどり着いたライトの指先が、ぴたりと止まる。自分の指先に傷が付かないような絶妙な力加減で、わたしの鋭利に磨き上げられた「凶器」にぐいぐいと指先を押し付けてくるライトの顔は、視界がぼやけてよくは見えなかったけれど、きっと嗜虐的なものだったのだろう。

「これはなーんだ」
 それを撫でながら発せられるライトの声は楽しそうに弾んでいる。
「そう、サキュバスちゃん、いや、ナマエちゃん。キミの“キバ”だよ」

 ――キミはもう、殆どボクたちの仲間なんだ。
 耳許にくちびるを押し当てて、直接脳に吹き込むように、ライトは言った。それは鈍器で頭を殴られたみたいに、わたしの頭を重くする言葉だ。
 鏡を見るたびに、わたしはわたしが分からなくなる。誰かの血を甘い香りだと感じる事なんて無かった、誰かの血を欲しいなんて思うことは無かった、こんな鋭利な凶器は、以前のわたしは、持ち合わせてはいなかった。この凶器は、鏡を見る度に、わたしのくちびるの奥でぎらぎらと、鋭利さに磨きをかけていったのだ。まるで、少しづつ少しづつ、わたしがわたしで無くなるみたいに。

「ねえナマエちゃん、ボクの事を味見してみる気はない?」

 ライトはわたしの口から指を引き抜くと、唾液で湿った自らの指にいやらしく舌を這わす。

「…………ライトの一物でも銜えればいいのかな?」
「んふ、それも素敵だけど、キミはもう、ボクの言いたい事が分かっている筈でしょ?」

 制服のネクタイを片手で緩めると、ライトは首もとを緩め、その白く筋の浮いた傷ひとつ無い首筋をさらけ出す。甘く、それから何処か獣を彷彿とさせるような獰猛な香りが、首筋からたちのぼり、わたしを誘惑し、くらりとさせる。喉の奥底で、ずっと抑圧されてきた本能がじりじりと叫びを上げる。欲しい、欲しい、と喚き立てる。お腹がぺこぺこなのだ。

「現実から目を反らすな、本能に従えばいいんだ」

 低く囁かれた声はわたしの脆く崩れ落ちそうな理性を吹き飛ばしてしまうには、十分なものだった。たまらずわたしはすぐそこで誘惑を繰り返す首筋に鼻を埋め、それからくちびるを押し当てて、ぺろりとひとなめする。ライトが熱い吐息を漏らし、くすぐったそうに身を捩るので、その肩を壁に押し付け、覆い被さるように身体を押し付ける。首を軽く食んで、肌の弾力を味わった。牙を突き刺す勇気は、まだない。

「ああ、いいよナマエちゃん、まるで理性を忘れたケダモノみたいだね。そのままボクの肌に、キミの牙を突き立てるんだ。そしてボクから流れ出た血はキミの中でキミのいやらしい血と混ざり合い、ボクらはやがて一つになる」
「……っ、そしてわたしは晴れてヴァンパイアの仲間入り、この密室から脱出して下校出来る、と」
「んもー、ナマエちゃんったら、そんな雰囲気のない事は言わなくていいから。ほおら、早く、キミの可愛いお口でボクを食べてよ」

 頭を抱き抱えるようにされ、首に顔を押し付けられて、わたしは再びそこにかじりついた。今度は牙を立て、思いきり顎に力を入れる。ぷちり、何かが弾けたような音がすると、「ああっ」と恍惚を多分に含んだ吐息が耳許を掠める。ふわりと口の中に広がって行くのは、今までに味わった事もないような味の液体で、その不思議な魅力にわたしは夢中になってそれを嚥下する。血液を口にするなんて今までは考えられない、気持ちが悪い行為だったのに、気持ちが悪いとは思えない。美味しい。もっと、もっとと体が求めている。喉をならすたび、からからだった体におびただしい量の魔力が広がって行くのを感じる。わたしの中で膨れ上がる魔力が、わたしの体の中の構造を好き勝手に作り替えて行くような感覚。心と体がどんどんと距離を置いてゆく。
 再び首にかじりついて、ぺろりとなめ上げる。

「ああ、キモチイイよ。誰かに血を吸われるのってこんな感じなんだね。初めてにしては上手だよ、ナマエちゃん」

 本当にキミはいやらしい子だね。うわずった声のライトがわたしの髪にキスをする。
 本当は分かっている、わたしはサキュバスであってサキュバスではないし、ヴァンパイアであってヴァンパイアでもない。それは、パパの言っていた言葉の意味を認めてしまうようなもので、わたしにはどうしても享受出来ない現実なのに。

20131107

   
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