リリスという妖魔をご存知だろうか。
 お手持ちの妖魔大事典を開いて頂くと分かりやすいと思うのだけれど、男の欲情を煽る凹凸のあるボディーにぐるりと大蛇を巻き付けた、セクシーなお姉さんが掲載されているページがあると思う。彼女がリリスだ。リリスというのは、わたしたちサキュバスと同じ、男の精子を糧とする妖魔である。夜の魔女とも呼ばれており、男児を狙い殺して内蔵を食べるという説も、しばしばニンゲンたちには信じられているらしい。
 彼女はかの有名なニンゲンたちの産みの親、アダムの、イブの前の前妻だった。
 彼女はアダムとの恋に破れるとエデンを離れ、魔界に堕ち、悪魔との間にたくさんの子供たち、リリンを産み落とした。そのリリンたちが、わたしたちサキュバスやインキュバスの遠い遠い祖先なんだといわれている。
 リリスはきっと、真実の愛に焦がれていたんではないかと、わたしは思うのだ。エデンでアダムに愛され平穏な暮らしを営むイブに強い憧れを抱いた彼女は、恐ろしい蛇の姿に化けると、イブに近付き、イブを唆した。あの木に生る甘あい果実を口にするように、と。
 わたしたちサキュバスが愛を知るとニンゲンへと堕ちるのは、かつてリリスがイブを唆し、人へと堕とし、アダムとの愛を引き裂こうとした罰の証だといわれていた。
 わたしはリリスの気持ちが分かる気がする。
 リリスは喉が干からびるような、血を吐くような、強い感情を抱いたに違いない。そうしないと生きていられないような、強い焦燥感。アダムに真実の愛を注がれるイブ、ふわりと笑う、誰にでも愛される資格をもった砂糖菓子のようなイブ。リリスがイブに抱いた憧れはきっと、茨に絡めとられ、少しづつ締め上げられて行くような、ちくちくとした感情だったに違いない。










 林檎は罪の果実だ。
 腐り落ちる寸前の林檎のような色をした満月は、特別に大きな魔力をわたしたちに与えてくれる。普段ならば素敵だと思うそれも今のわたしには不安要素にしかならなくて、ごくりと唾を飲み込んだ。いや、違うか。わたしはてのひらに「パパ」と描き飲み込んでから、満月を睨み付ける。ヴァンパイアの王の居城の向こうで輝いている満月は、やっぱり不気味な色に見えた。
 舞踏会の日に足を踏み入れたままの城に漸く足を踏み入れると、執事のなりをした男がわたしを待ち構えていた。

「お待ちしておりました、ナマエ様」

 深々と一例をする執事。彼に案内されるままに、わたしは歩き出した。長い廊下を渡り、城の奥深くへと誘われてゆく。まるで蟻塚のような複雑な構造をした薄暗い廊下に、執事が手にする三股の燭台の明かりがわたしと男の影を、ちろちろと写し出す。長い間歩いていると、どちらがどちらで何処から自分がやって来たのか、分からなくなってしまうような、不思議な感覚に囚われる。
 やっとの事でたどり着いた扉は、今まで歩んできた廊下に並んだどの扉よりも大きく重厚な物だった。
 なるほど、この城の主たる者に相応しい佇まいだ。

「こちらで、カールハインツ様がお待ちです」

 そう、と頷けば、役目を終えとばかりに、執事はふっと廊下の向こうの闇に消える。蝋燭の明かりが消えると途端に廊下は暗くなり、窓から差し込む月明かりの美しさがいっそうに栄えるようになった。思えばあの日もこんな満月の夜だった。わたしが、逆巻のみんなと出会い、ユイと出会い、わたしの運命が変わった日。わたしが夢を求め、旅に出た日。残念ながらわたしはわたしの夢を、まだ見つけられないでいる。


「……こ、コンバンハ……」

 そっと扉に手をかけたら、まるでわたしを待っていたというように、扉はするすると開く。上等な調度品の置かれた品のある部屋の中、椅子に深く腰かけた白髪の男の姿は、すぐに目に飛び込んできた。舞踏会の日に会った、夢の男。カールハインツはなにか思案に更けるような顔で、窓の外の月を静かに見上げている。銀色の光がカールハインツの色素の薄い髪を照らし出し、彼の纏う雰囲気を幾分も幻想的なものに見せていた。

「月は、美しいな」

 その形のよいくちびるから紡ぎ出された言葉は、独り言のようであり、語りかけられているようでもある。パパの瞳は相変わらず、わたしではなく窓の外に向いている。わたしは少し迷ってから、そのまま入室し、扉を閉めた。

「……月は、わたしたちみたいな魔の者にとって大きな意味があるんだって、わたしのママがよく言ってたよ」
「魔族だけではない、人にも、動物にも、植物にも、その愚直とも言える光は何者にも等しく降り注ぎ、また全ての者が夜空に浮かぶそれに羨望を抱き、めで、祭り立てる。まるで、正しい愛の形のようだ」

 月をうっとりと眺めながら浪浪と紡がれる言葉に、わたしは首を傾げる。このひとはわたしの存在に気がついていないんじゃないだろうか。なんだか、独り言を言っているみたいだ。

「私がお前の母親に出会った日もまた、こんな満月が夜空に浮かぶ日だった」

 そこで初めて月から視線を離したパパが、わたしの姿を正面から見据えた。それでやっと、パパがきちんとわたしの存在を認識しているのだと知る。
 今日のような魔力をまんまんと満たした月よりも、その赤い瞳はもっと底知れぬ力を秘めているようで、こうして見つめあっているだけで口が縫い付けられたように動かなくなってしまう。パパの口から語られたママの話。何かを言わなくてはならないのに、口が上手く動きそうもない。口を開こうとしては諦めを繰り返すわたしをパパは手を軽く上げ制止してから、その手でソファの方を指し示した。どうやら座れという事らしい。
 おずおずと、勧められたままソファに腰を下ろす。再びパパの歪みのないくちびるが、言葉を紡ぎだす。

「――お前は、『愛』を何と考える」

 真っ直ぐに見つめられながら投げ掛けられた問いは、至ってシンプルなものだった。

「私は愛の果て、その先にある何かを見てみたい。永遠の刻を生きる私には、その義務があるのだろう。けれどわたしは絶望している、世は腐り落ちる寸前の林檎のように、それとは違った場所に向かおうとしているのだ」

 淀みなく動くパパのくちびるの紡ぎだす言葉は、静かな泉に貼った水面のように、静やかだ。

「ナマエ、お前の思う『愛』とは?」
「……わたしにとっての愛……」

 相も変わらず見据えられてはいたけれど、今度はすんなりと喉の奥から言葉が出てきた。わたしにとっての愛、それは、

「憧れ、かな」

 わたしが長年乞い、焦がれ、夢見てきたもの。わたしは、ママのようになりたい。パパと真実の「愛」を築き上げたはずの、ママのように。
 パパは静かな面持ちで、ただわたしを見据えている。続きを語れということか。

「わたしは、ママみたいになりたくて、真実の愛を求めて、逆巻の屋敷にやってきた。だけど、わたしには分からない。まだ、見つけられていないの」

 セックスをする度に心の奥に黒くて不愉快な塊を感じる。あのひとも違う、このひとも違う。わたしの求める愛がなにか、分からなくなりそうになる。そんな時に差し出された、あの細くて折れちゃいそうな、可愛い女の子の手。

「でもね、愛っていうのはきっと、思っているのより単純で、複雑でもあると思ってる。愛に似通ったものだったら、わたしも既に見つけたから。わたしの大切なひと」

 脳裏にはユイの柔らかな笑顔が浮かんでいる。わたしが彼女に抱く思いも、きっとひとつの愛なのだろう。それから、兄弟の事。彼らはきっと気持ちが悪いと一蹴するだろうからけして口には出来ないけれど、わたしは彼らとの今の生活を気に入っているし、彼らの事が嫌いではない。これも言うなれば、一種の兄弟愛? だなんて、柄にも無いことを最近考える。全てニホンにやってきて、学んだ事だった。
 今のところわたしには、ユイとの友情ってヤツがあれば十分なんじゃないかって、そう思う。

「イブ、か」
「……イブ?」

 パパは何だか感慨深そうにひとつ呟いていたけれど、わたしには意味が分からなかった。イブ。いきなりどうして、最初のニンゲンの名前が出てくるのだろうか。パパは構わず、ふたたび口を開く。

「私の思う愛とは――かつてのアダムとイブが育んだ、完璧なものだ」

 かつての、アダムとイブ?
 パパの言っている事は正直難解で、先程からよく分からない。ぱちりと瞬きをひとつすると、パパの眉が少し下がる。ああこれは、レイジがわたしに呆れている時の眉にそっくりだ。

「エデンを追放されたアダムとイブの話は?」
「……だいたいは。よくママに言い聞かせられたもの」

 ママは幼いわたしを膝に乗せ、子守唄のように語った。アダムとイブの話、そしてリリスの話。大切な事なのよ、と言って、幼いわたしと比べたら随分おおきなてのひらでわたしの手を握りしめた。

「イブに林檎を食べるよう唆した蛇は、わたしたちの遠いご先祖さまって話でしょう?」

 パパはふっとくちびるに笑みを浮かべると、まるで良くできた子供を誉める時の父親のような表情をした。頬の横の白髪がさらりと揺れ、月光を反射する。

「そこまで解しているのならば、私からお前に言う事も無い」

 笑う時のパパの口許は、今度は意地悪を思い付いた時の三つ子の口角に、そっくりだと思った。

「どういう意味?」
「お前は、自分の生まれた意味についてを考えた事があるか?」

 わたしは、パパとママの愛の結晶として、生まれてきたんだと思っていた。でも咄嗟にそれを口に出すような勇気がわたしには無くて、答えに窮してしまう。パパはそんなわたしにも、全てをお見通しというあの表情をくれる。

「世に生じる全ての事柄に意味があり、全ての者は凡そパズルのピースの如く、嵌め込まれる位置が決まっている。もちろんお前が生まれてきたのも、ひとつの意味がある事柄だ」

 パパがぱっとてのひらを広げると、まるで魔法を使ったように、そこにはパズルのピースのひとつが乗っかっていた。それをつまみ上げ指先で弄びながら、直も言葉を紡ぐ。

「ピースが足りない場合、どうすればいい? そこに似合うピースを、生み出せばいい」

 ぐっと拳をつくり再び開けば、そこには二つ目のパズルのピースが乗っかっている。

「ヴァンパイアの血、そしてサキュバスの血を混ぜたお前は、お前にしか補えない箇所もある。いずれはお前の中のヴァンパイアの血も、完全に目覚めるだろう」

 パパは二つのピースをいくらか弄んだ後、ふいにそれを床に投げ捨てる。毛足の長い絨毯にそれらが飲み込まれていくのには目もくれず、パパの眼差しはしっかりとわたしを捉えていた。何かを値踏みするような、絡めとられてしまいそうなパパの眼差し。わたしは震えてしまいそうな息を吐き出して、なんとか口をひらく。

「……パパの言っていることは難しすぎて、頭の悪いわたしにはよく分からないよ」
「今はそれでいい。いずれ時が来れば、自ずと知れる事」

 パパはそれだけ言うと、ふいに立ち上がった。

「私は次の仕事がある。ここで失礼しよう――」

 ――リリス。
 パパのくちびるは、確かにわたしを見据えながら、わたしの事をそう呼んだ気がした。わたしはその時、地の底に突き落とされたような気がしたのだ。ぱらぱらと、何かが剥がれ落ちて行く音。
 暫く放心してから、パパの背中が部屋を出ていってしまうという時に至ってようやく、まって、とパパを呼び止める事が出来た。慌ててソファから立ち上がる。聞きたい事が沢山あった。疑問も言いたい事も、今日だってたくさん生まれた。わたしはパパの話を聞いていただけで、わたしからはまだ、パパに何一つ聞けていない。
 ここで何かひとつだけ疑問を投げ掛けると思ったとき、浮かんできたのは、この言葉だけだった。パパの言っている意味はよく分からない。けれど、まるで、その口振りではわたしが――。

「パパは、ママの事を、愛してた……?」

 パパは一度だけ振り返り、口許にいつもの笑みを浮かべただけだった。室内には沈黙が落ちている。ぱたん、扉がしまる音が聞こえ、わたしは一人になった。
 わたしが信じて生きてきたもの、パパに一時でも真実の愛を注がれていたママ。幸せな二人。溢れんばかりの愛に祝福され産まれたわたし。
 わたしはもう、気づいてしまっていた。夢魔であるわたしの夢にまで介入できるパパ、底知れぬ魔力を秘めた瞳の持ち主、闇の世界で絶対的な力を保持するヴァンパイアの王。パパならば、愛なんかなくともサキュバスとの間にひとり子供を設けるくらい容易いに違いない。
 わたしの心の中の大切なものが、破片を繋ぎ会わせ辛うじて形を保ってきたものが、ついに粉々に砕けちり、落ちて行く感覚。まるで、林檎が腐り落ちてしまった瞬間のように。窓の外の満月は腐り落ちる瞬間の林檎の色で、わたしを嘲笑っている。

20131106

   
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