遠くの村が燃えていた。


 山の上の小さなわたしとママの家はとても見晴らしがよくて、地上の大地全てが見渡せるんじゃないかと思う程だった。ねえ、どうしてこんな高くて不便な場所にお家を建てたの? とわたしが聞いた時、ママは、だって遠くまで、どこまでも見渡せるでしょう? と少し意地悪を言うような口調をくれた。その時ママが窓の外に移動させた視線の先、遠くの大地の深い森が映っていたのを、そのママの穏やかな眼差しを、今でも覚えている。ニンゲンの視力では目視できる筈もない、とても遠くにある森だった。
 ある日、空からニンゲンの世界を眺めていると、遠くの遠くの大地、その森の近くにある村が茜色に染まっていたのを見つけた。わたしはママに尋ねた。どうしてあんな色をしているの。ママはわたしに、きっと大きな火事があったのね、と、少し悲しそうな瞳で言った。
 幼いわたしにはその炎に焼かれ悶え苦しんでいるニンゲンを描き出すような想像力がなくて、どうしてママがあんな悲しそうな瞳をしているのか、不思議でならなかった。ただ、胸の中がとても切なくなったことを覚えている。
 遠い、昔の話だ。何故、今となって思い出すのか分からないような、悪い夢。そうだ、これは夢だ。最近、わたしは眠るたび、おかしな夢ばかり見る。起きたらきっと、忘れてしまう。

 ――ス。
 誰かが誰かを呼んでいる。一気に意識だけ引き上げられて、わたしはぼんやりとした視界の中で、誰かの呼び掛けを聞いていた。
 ――ス――娘――聞――。
 美しい白髪を腰まで垂らした男が、こちらに向かい何かを語りかけている。顔はよく見えない。男は、わたしに何かを伝えたかったように見えたけれど、わたしにはそれを聞き取る事が出来なかった。強制的に目覚めざるを得ない時の、意識の浮上するふわりとした気持ち悪い感覚。誰かがわたしの体を揺すっている。





「早く起きろって言ってるんですよ!」
「……っうっ」

 目覚めは最悪だった。テディを顔にぶつけられる事で意識を現実へと引き戻されたわたしは、至近距離で覗き込むカナトの顔を見上げていた。目覚めた早々意味が分からない。すぐそこに浮かぶカナトの顔は、なぜそんなにも不機嫌なのか。

「え、なに、なにかあったの?」
「何かあったの、じゃありません。何度起こしたと思ってるんですか」
「何度起こしたの?」
「この僕が二度も優しく揺すってあげたのに、君は起きなかったんですよ! 信じられません!」

 二度くらいで起きるほうが珍しいと思うっていう言い訳はカナト様には通じない事だろう。そしてついに痺れを切らしたカナトに、テディをぶつけられた、と。わたしはテディの鼻先がクリーンヒットしたおでこを擦りながら上体を起こす。

「で、わたしに何の用があって起こしたの?」

 わざわざカナトが起こしに来るなんて、何か厄介な事に違いない。窓の外はまだ明るい。

「眠れないんですよ」
「はい?」
「変な時間に目覚めて、そのまま眠れなくなりました」
「ああ、そういう事ってよくあるよね」
「僕が眠れないのにナマエがすやすや眠っているのがむかついたので、起こしに来ました」
「……ん? 何だか今、凄く理不尽な事を言われたような」
「何か?」
「何でもない」
「なら良いですけど。で、僕が眠るために、ナマエは何をしてくれるんですか?」

 なんだか納得できないが、カナトのこれはいつもの通りだし、どうせわたしも変な夢を見ている所だった。

「なあに、わたしに子守唄でも歌えって?」
「ナマエのどうせ上手くもない歌声なんか聴きたいわけないじゃないですか。もっと頭を使ってください」
「……一緒に寝る?」

 ばさりと布団の端を捲り上げる。

「一応聞いてあげます、……ふざけてるの?」
「ごめん、ごめん。わかったよ、じゃあ甘ーいミルクココアでもいれてこようか。ミルクには安眠効果もあるってユイが言っていたし」
「無能なナマエにココアなんかいれられるのかな、テディ?」
「失礼な会話をしないでくれる? それくらいなら出来るよ、多分」
「ふーん、じゃあ僕とテディは僕の部屋で待っていますから、あまり待たせないで下さいね」
「はいはーい」


 と言うわけで寝起きのぼんやりした頭でキッチンに向かう羽目になった。まったく三つ子には言うことを聞く便利な手下みたいに思われている節がある。妖魔の世界では強い者が上に立つのが当たり前なので、ある意味あるべき形ではあるけれど。真っ昼間に起こされるのはいかがなものか。夢見が悪くて近頃ずっと寝不足だ。くあっと欠伸をしつつ、キッチンに足を踏み入れた。瞬間、ぐにゃっとしたものが足の裏に。

「……っ」
「わっ、シュウ?」

 シュウがキッチンの入り口で眠っていたようで、どうやらわたしはシュウのお腹を踏みつけているみたい。足に敷かれたシュウが眉間に皺を刻みながら、こちらを見上げている。

「痛いんだけど、はやく退いてくれない?」
「あ、ごめん」

 さっと足を引くと、シュウがむくりと起き上がる。こんな出入り口に眠っている方も悪いような気がするが、踏みつけてしまったのは事実だ。屈み込んでシュウのお腹を擦ってみる。カーディガンの柔らかな感触の向こうには寝てばかりいるわりには案外逞しい腹筋がある事がわかった。意外。

「えっと、大丈夫?」
「別に、あんたごときに踏まれたくらいでどうこうなるような体じゃないし。起こされた事の方がよっぽど不愉快だ」
「うーん、でもそれはこんな場所で眠っているシュウにも責任が――」
「何か言ったか?」
「ううん、何も」
「それより、いつまで人の腹をまさぐってるつもりだ、ナマエ。欲求不満なわけ?」

 何となく子猫の頭を撫でているような、そんな感覚だった。言われてはっとして、手を離そうと思ったら、その瞬間に腕を取られ、そのままシュウの形よい唇にわたしの指先が導かれて言った。ぱくりと人差し指を口に含まれる。

「お詫びに、血でも飲ませてくれるわけ?」

 指のはらにちくりと鋭いものが宛がわれた感触。既に何回か感じ取ったことのあるこれは、シュウの牙の先だ。皮膚にぎりぎり傷を着けない絶妙な力加減で、牙が肌をなぞる。わたしは慌てて冷たい口腔内から指を引き抜いた。

「まさか。ところで、シュウはなんでこんな所で寝てるの? こんな真っ昼間に」
「あんたの部屋に行こうと思ってた」
「わたしの部屋?」
 それでどうしてキッチンで力尽きる事になるのか、シュウの行動はまったくもってミステリーだ。
「どうしてわたしの部屋に?」
「これを、あんたに渡し忘れてた」

 シュウは懐から一通の白い封筒を取り出すと、気だるげな動作でわたしに差し出す。手にしっくりと馴染む重みのそれを受け取って表、裏、と返してみるが、宛名も差出人も書かれてはいない。手触りの良い上質な紙と、封蝋が施されている事から、それなりにしっかりしたものだと言うことが分かるが、手紙を受けとるような覚えはないし、ましてやシュウからのものとは思えない。

「これは?」
「あんたに、招待状だ」
「……招待? 誰から? 何に?」
「間抜け面で一度にいくつも質問してくるのはナマエの悪い癖だな、めんどくさい」
「だって気になるんだもの」
「あいつ、俺達の父親からだ。今度、城で舞踏会がある。めんどうだが、俺たちは毎回参加させられてる……はぁ。中身は俺も知らないけど、それの招待状じゃねぇのか」
「パパから……」

 途端に、その飾り気のない封筒が、大切な物に見えてきて、ぎゅっと封筒を胸に抱えてみたりする。この家にやって来て初めて、パパへの接点が見つかった、そんな感じ。

「その舞踏会って、パパも来るの?」
「さあ……そんな事俺に聞くな。いつも来たり、来なかったり、だ」
「ふーん、そっか。じゃあ会えるか会えないかは、分からないのか」
「会いたいのか?」
「うーん、分からない。そりゃあ、色々と聞きたい事はあるけれど、中々勇気が出ないんだよね」
「ふーん」
 まあ、どうでもいいけど、とシュウは興味なさげな口調で言った。
「じゃあ、確かに渡したからな」
「うん、ありがとう」
「で、あんたこそこんな時間にこんな場所まで何しに来たわけ?」
「あっ!」

 カナトの気難しい顔がふっと脳裏を過り、抱えた封筒を取り落としそうになった。慌てて封筒を握りしめるわたしの手はぷるぷると震えている。頭に浮かんだカナトの「遅い!!!」と怒りを爆発させている姿は、きっと、わたしの想像の中だけの存在では無い筈。

「カナトに頼まれて、ミルクココアをいれようかなって思ってたんだった」
「あんたにココアなんかいれられるの」
「あなたたち兄弟って本当に揃いも揃って失礼だよね! そこまで言うならシュウにもいれてあげようか」
「甘いものは嫌いだ」
「……わたしの腕前が怖いからって、逃げるの?」
「……ふん、そこまで言うなら、飲んでやってもいいけど?」

 どすどすとキッチンに足を踏み入れ、鍋を手に取る。この失礼すぎる兄弟たちに、目にもの見せてやる。散々な言われようだけど、ココアくらいならいれられるって所をね。ユイがやっていた見よう見まねでココアパウダーらしき黒い粉とミルクを鍋に入れて、それをぐるぐると混ぜ合わせる。なんだか黒いつぶつぶのだまが浮いてきたような気がしないでもないけれど、まあ、いいだろう。それから鍋をコンロに置いて、火を着けようとした。
 背後に立ったシュウがわたしの手を取り、それを遮った。

「止めろ」
「あれ、ココアって暖かい飲み物じゃなかった?」

 確かユイはこうして作っていた筈だけど。違ったっけ、と首を傾げながら振り向いた先にあったシュウの顔が、想像のものと違って、わたしは一瞬動きを止めてしまった。どうせからかうような顔か面倒そうな顔をしているかと思っていたのに、すぐそこにあるシュウの顔は硬く強張っていた。

「いいから、止めろ」
「……ヴァンパイアは火が苦手、とか、そんな事はないよね?」

 清らかな川の水流が苦手とか、そんな事はニンゲンの書く本に書いてあった気がするけれど、彼らと暮らしているとそれすらニンゲンの妄想なんだと思い知らされる。重苦しい空気に耐えられなくて冗談めかして言ってみたわたしの言葉にもシュウは何も答えずに、口をつぐんでいる。その青い瞳の奥にある悲しそうな色と、わたしの手を掴むシュウの手のひらがなんだか縋っていようにも思えて、何も言えなくなってしまった。
 つい先刻見た、最近わたしの睡眠時間を削ろうと悪さばかりをしている、夢の内容が、ふっとフラッシュバックした。いつも、目が覚めてからは思い出せなくなっていた悪い夢、朧気だけど、初めて思い出す。遠くに見える、茜色。あれは、大切な物が燃えている色だった。

「分かった、なんだかよく分からないけれど、分かったから」

 何故だかわたしも火を使うような気分が萎えてきて、仕方がなくマグカップにミルクにココアパウダーを溶いただけの冷たい液体を注ぎ入れる。シュウは一部始終を表情を無くしたような顔で見つめていた。

「はい、何だかよく分からないけれど、これでも飲んで元気だしてよ」

 マグカップを受け取ったシュウは相変わらずの無表情で中の液体を見つめてから、それを口に運ぶ。一口飲んだ後のシュウの眉間には、深い皺が刻み込まれていた。

「……衝撃の不味さだな」
「そう言うシュウは衝撃の失礼さ!」

20131107

   
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