逆巻ライト捕獲完了。繰り返す、逆巻ライト捕獲完了。ただちに退避すべし。




「んふ、まさかサキュバスちゃんに縛り上げられるなんて思いもしなかったよ。いたいけなボクをどうするつもりなのかな?」


 鎖でぐるぐる巻きにされたライトは身じろぎすらできず、けれど少し面白そうな顔でこちらを見上げていた。ライトの両腕には手錠がかっちりはめられ、腹の前でひとつに纏められた手は、だらりと力なく床に投げ出されている。なにを隠そうこのわたしがライトを縛り上げた張本人である。

「どうもしないから、少しだけそこで大人しくしておいて欲しい」


 わたしは彼らに学習能力が低いと思われているらしいけれど、一度勉強した事をほいほい忘れてしまうほど、出来の悪い頭はしていない。特に机上でテキストと向かい合って学びとった事じゃなく、実体験として学習した事柄については忘れもしない。
 テストを明日に控えた今日も今日とて、わたしの都合も知らずに誰かが邪魔をしにやってくるっていう事は目に見えていた。吸血でもされて貧血でもおこしたら、頭がぐらぐらして勉強どころの話ではないのだ。昨日はそれはもう酷い体調になってしまったわけで、問題集の一ページすらも消化出来なかった。今日こそは邪魔に屈服したくない。
 そこでわたしが考え付いた苦肉の策はこれだった。邪魔をされないようわたしの部屋にやってきた者を皆、縛り上げてしまえばいいのだ。拷問室からこっそりと手錠と鎖を持ち出してくるのは、そこまで手間はかからなかった。


「えー、少しってどのくらい? こういうプレイがお好みなら、少しと言わずいくらだって付き合ってあげるけど」
「違うから、大人しくしててくれるだけで十分だから」
「んふふ、サキュバスちゃんたら今更恥ずかしがっちゃって」
「……。」


 ライトときたらこの状況ですらまるで動じることなく、にやにやと笑顔を浮かべているのだからたまらない。
 でも相手がライトだからこそ、よかったのかもしれない。この作戦の一番の問題は兄弟たちが簡単に捕まってくれるかどうかだったけど、このライトだからこそ、なんの力もないわたしにもなんとかなった。だってライトは自ら進んで捕らえられにきたんだから。
 手錠を持ち出したわたしにライトは少し驚いた顔をしたあと、そのあとはむしろにやにやした顔で、抵抗なんかせずにわたしにされるがままになってしまったのだ。鎖を巻き付ける瞬間の恍惚とした顔なんか、ちょっと気持ち悪かったくらい。これがアヤトやカナトだったら、そうもいかなかっただろう。


「はあ、それにしても鎖が肌に食い込んで……、ちょっと窮屈だよ」

 ライトが少しだけ身動ぎをすれば、鎖がすりあわさったしゃらりという音が響く。彼を絡めとる鎖の先は、ドアノブへと繋がっていた。わたしに与えられた部屋のドアノブだ。それにかたく縛り付けておいたから、ちょっとやそっとじゃ逃げ出せないはず。扉の前で足を投げ出し座り込む彼に、逃げようという意思も感じられない。
 そこまできつく縛り上げたつもりはないけれど、少しだけ痛そうにしているライトを見たら、なけなしの良心が少しだけ痛んだ。
 だけどわたしだって妖魔であっても鬼じゃないので、なにも問答無用でライトを捕らえた訳じゃない。「ビッチちゃんが勉強してて相手にしてくれないから腹いせにキミを玩具にしにきたよ」と、ひとの部屋に入るなり物騒な事を口走ったライトにわたしは、「ライトも一緒に勉強しようよ」と素晴らしい提案をしてあげたのだ。そしたらライトは「勉強する意味が分からない。それより血を飲ませろ」とまるでアヤトと同じような事をいいながらカナトと同じような要求をしてきた。再び貧血にでもなったら、目も当てられないではないか。
 再び身動ぎをしたライトが「痛くて……、気持ちいい」と恍惚な表情を浮かべていたので、途端にわたしの良心は痛みから解放された。


「一応謝っておくけど、ごめんライト。後でちゃんと外すから。じゃあそういう事で」
「ちょっとサキュバスちゃん、どこに行く気? ボクをこのままおいていくの? まさかキミに放置プレイだなんてマニアックな趣味まであるとは思わなかったよ」
「いやいや、ないから。でもわたし、今日ばかりは本気で勉強しなくちゃいけないからこうするしか無いの。ほんとうにごめんねライト」

 こんなことをしたら後が非常に怖いので、謝る姿勢だけは見せておくとしよう。

「へーえ、本当にこのまま放置する気なんだね。サキュバスちゃんったら、相当なサディストなんだから」
「この家のヴァンパイアたちだけには言われたくない言葉ナンバーワンだよ」
「んふ。でも、いいよ、すごくいい。キミにこんな酷い仕打ちを受けるだなんて――興奮するよ。なんならもっときつく縛ってくれてもよかったのに!」
「……。」


 と、いけないいけない。
 変態を蔑む目でライトを見ている場合じゃない。こんな視線すらライトを喜ばせる要因にしかならないのだから。ライトを縛るというリスクまで背負って作った貴重な時間、はやく本来の目的である勉強に使わなくちゃ。
 ライトが繋がれているドアから対角線上の壁の前に事前に設置しておいた勉強用の小さなテーブルの上に、レイジお手製の問題集を広げる。部屋の端と端、邪魔されないよう、出来るだけ距離をとった。本当は同じ部屋で勉強するのなんて集中できなさそうで遠慮したかったけれど、鎖でぐるぐる巻きのライトを他の兄弟も通るであろう廊下に放り出すのは、流石に気が引けた。後も怖いし。


「ねぇねぇ、サキュバスちゃん」


 ページをいくつか捲る。わたしの指は今包帯ぐるぐる巻きで、カナトにペンの握れない体にされてしまったので、頭の中で問題を解いてゆくしかない。幾つかの問題を解いた後。背後から声が投げ掛けられる。少し遠く、かといって声が聞こえにくいという事はない、絶妙な位置からの声。いうまでもなく扉の前に縛り付けられているライトの声だ。聞こえないふりをして、次の問題に取りかかる。テキストを取り出して、分からない部分はきちんと調べる。集中、集中。


「サキュバスちゃんたら、おーい、聞こえてないの?」


 レイジの問題集は兄ながら良くできていた。これさえできれば、という、最低限のところをついている。短期間で頭に叩き込むには持ってこいだ。


「聞こえてないはずないよね、同じ部屋にいるんだから。無視するなんてほんと酷いなぁ、サキュバスちゃんは。ボク、退屈になっちゃったよ。せっかく捕まえたならいつもボクがキミにそうするみたいに、あーんな事やこーんな事をするべきじゃないかな。ねぇ、サキュバスちゃんたら」


 サキュバスちゃん、サキュバスちゃん、サキュバスちゃん。ライトがその言葉を口にするたびに、頭に入れたはずのものが次から次からぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。次第に問題集に記されたレイジの活字のように綺麗な文字すらまともに頭に入らなくなってくる。挑発だとは分かってるけれど、わたしはあーんな事やこーんな事をされた記憶はないのだ。


「あー、もう、大人しくしててってお願いしたのに。わたしは勉強しなきゃいけないの」
「勉強とボクと、サキュバスちゃんはどっちが大切なの?」
「どちらもそこまで大切だとは思っていないけれど、そういう問題じゃなくてね。お願いだから集中させて」
「んふ、照れ隠し? サキュバスちゃんもきっとボクにえっちなイタズラがしたいから、集中できないんだよね。こっちにおいでよ、一緒に楽しもう?」
「いやいや違う違う。楽しみたいのなら一人で勝手に楽んでくれるかな」
「え?」
「……えっ?」


 あまりのアピールについつい振り向いてしまった視線のさき、少し離れた場所のライトは、意外そうな顔をしていた。そのあとすぐに浮かび上がるのが、満面の笑顔だ。ああ、間違えた。変態を自称するひとには決して言ってはいけない言葉を口走ってしまったようだ。


「それはボクに今ここでマスターベーションしろっていう“命令”かな?」
「変な解釈をしないで頂きたい」
「ええ、ボクにはいやらしい命令にしか聞こえなかったけど」
「違う」
「んふ、こーんな風に縛り上げられて、そんないやらしい命令されたら、ボクにサキュバスちゃんに逆らうすべなんか残されていないよね。キミの目の前でなんて少し恥ずかしいけど、ボクは泣く泣く命令に従うよ」
「泣くくらいなら従わなくていいから、やめて」


 わたしの話なんて最初から聞いて聞いてないようなものだった。そもそもこんな距離のある場所でわたし一人じたばたしていても仕方のない話で、次の瞬間にはすでにライトの指の長い両手が腰のベルトのバックルに乗っかっていた。手錠で繋がれているとはいえ、背中側で拘束していた訳ではなく、腹側、つまり股の間に両手がある事になる。少し不自由と言えどベルトをはずすことくらいは容易らしく、滑らかな手つきでベルトが外されてゆく。
 ああ、背中側で縛り上げてやればよかったんだ。
 テレビの中の出来事みたいに他人事のようにそれを鑑賞してしまったのは、ライトとわたしの間に隔たる距離のせいなのか、その滑らかな手付きによるものなのか。ちらりと一瞬下着が視界に写った瞬間流石のわたしもハッとして、我に帰る。


「……ほんとうにここで始める気なの?」
「キミの命令だからね」
「せめて自分の部屋に戻ってやってくれないかな」
「キミがボクをここに縛り付けたんじゃないか」
「じゃあもうやめてったら」
「やめて? やれって言ったり止めろっていったり、本当にキミは意地悪な子だね。まあいいや、ボクがここから、キミをその気にさせてあげる」


 ああもう、知らない。言葉を交わすだけ、深みに嵌まってゆくだけだ。ライトと会話をしようってほうが無理なのだ。
 再び問題集に視線を戻す。集中、集中。すでにライトに背を背けてしまった時点で私の負けは確定したみたいなものの気がしなくもないけれど、これは勝ち負けの問題ではない。わたしは勉強がしたいだけなのだ。集中、とにかく、集中。
 集中しようと頑張ったけれど、背後でライトがほくそ笑んでいる図が脳裏に思い浮かび、悔しさと恥ずかしさがぐちゃぐちゃに混ざりあってゆく。あんなにも大切に思っていた問題集の中身も、頭の中を素通りして引っ掛かりもしない。
 耳に全神経が集中していた。神経の集中した耳には嫌でも些細な音でさえ届けられる。かちゃかちゃと鎖が擦れあう音。ごそごそと小さな衣擦れみたいな音。

「……ん、はぁ……っ」
「……!」

 そして小さく聞こえた、吐息みたいなもの。間違えなく聞き慣れたライトの声で、わたしの肩が大袈裟なくらいに反応を示した。脳裏に過るのは、そう、あれだ。わたしが襲ってきたニンゲンの男のように、ライトが口を半開きにして快楽に顔を染めている様子。額から一気に汗が吹き出てきた。


「んふ、今すごく肩がビクってしたねぇ。ボクの声を聞いただけで感じてるの? ……そんなサキュバスちゃんの背中を見てると……はぁ、ボクも気持ちいいよ」


 問題集のレイジの文字がぐにゃりと折れ曲がったカタツムリの通り道みたいなものに見える。頭の中に“食事”の風景が克明に思い起こされて、脳みそがじいんと痺れるようだ。喉がからからに乾いてきた。包帯の巻かれた手から情けなくも力が抜けてゆく。
 駄目だ、駄目だ、駄目だ! こんなことではライトの思うツボではないか。一度逃げ出してしまった私が彼に勝つには、この状況下で平然と勉強してみせるしか他に道はない。このままじゃ悔しいじゃないか。背後のライトがほくそ笑んでいる図をもう一度思い浮かべてから、もう一度問題集を見つめたら、ちゃんとした文字に戻っていた。わたし、ぜったいに負けたくない。
 唇を噛み締めて呼吸を落ち着ける。背後から絶え間なく聞こえ続ける絡み付くような吐息は聞こえない事にして、勉強に集中するのだ。ぎゅっと拳を握りしめたら昨日の傷がズキリといたみ、気持ちを引き締めてくれた。問題集に取りかかる。


「……ん、はぁ……、あ、ナマエちゃん……」
「……っ」
「ナマエちゃん、いいよ、凄く、いい……っ」


 ライトの吐息が更に甘みをます。再び、指先から力が抜ける。い、今のは、私の名前……? 今にも消え入りそうな切なげな声だった為確証は持てないけれど、ナマエと確かに呼ばれた気がする。普段はサキュバスサキュバスとひとの事を種族名で呼ぶくせに、こんな時ばかり名前で呼ぶとは反則だ。


「ひ……っ、ひとの名前を……!」

 わたしは堪らなくなってライトの方に振り向いた。かあっと頭に血がのぼって、もう勝ち負けどうのを考えている余裕はない。セックス中に本当の名前で呼ばれたことなんか一度もないのだからリアリティーの欠片もない筈なのに、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような妙な心地がして気持ち悪い。
 瞳に映ったライトはにやにやと笑っていて、わたしが背を向ける前と同じ、ベルトを半分外しかけた中途半端な状態で縛り上げられている。事に及んだ形跡は見受けられない。


「んふ。こんなつまらない演技で騙されるなんて、よっぽど欲求不満なんだね」
「な、な」
「酷く動揺しているキミは可愛かったよ、ナマエちゃん」
「……ナマエちゃんって呼ばないで」
「どうして? ビッチちゃんはいつもビッチって呼ばずに名前で呼べって言うよ」
「それはユイはビッチじゃないもの」

 そしてわたしは、サキュバスなのだ。自分の名前で呼ばれる事もない。

「そうかなあ。女の子はみんな、気持ちいいことには貪欲なビッチばかりだと思うけどね。ユイも、ナマエも一緒さ。ボクはそんな子達が愛しくて仕方がない」
「あーはいはい。もう分かったよ。わたしの負け。どうしたらわたしの事を放っておいてくれる?」
「とりあえずこの手錠と鎖を外してくれる? お返しにキミの事もきつーく縛ってあげるよ。それから血を飲ませてくれたら、キミを解放してあげる」


 わたしは既に戦意喪失状態だった。そもそもわたしだって勉強が好きなわけじゃないんだから、頑張っていることが馬鹿らしくなってきた。そもそもペンすらまともに握れない時点で勉強なんか馬鹿げてる。ぱたりと問題集を閉じる。レイジには申し訳ないがわたしは戦線離脱させてもらう。
 そんなこんなで地獄のテスト期間は終了した。三つ子に屈してしまったわたしの散散たるテストの結果なんて言うまでもないので、伏せておく事としよう。


20130719

   
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